詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川逸子「橋をわたらずに……」小松弘愛「てんぽうな」

2007-02-27 23:02:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川逸子「橋をわたらずに……」小松弘愛「てんぽうな」(「兆」133、02月05日発行)。
 石川逸子「橋をわたらずに……」は1連目が魅力的だ。

うねうねと曲がった道が 川につきあたり
ちいさな橋があって
わたれば森にはいっていくようだ
はて 家にもどるには橋をわたったほうがよいのか
いつもよく ここで迷った とおもい
いまも迷い
橋に心をのこしながらも 川沿いの細道へとすすむ

 「いつもよく ここで迷った とおもい」。家へ帰る道で、「橋をわたったほうがよいのか」などと人は迷わない。すくなくとも「よくいつも」「ここで」迷うことはない。まようことがあるとすれば、はじめての場所で迷うだけである。しかし、石川は「いつもよく ここで」と書いている。
 そんなところで人間は迷わないはずだけれど、この石川の気持ちがよくわかる。
 「頭」ではわかっていても、こころは、「頭」がわかっていることと違ったことを望んでしまうのだ。「好奇心」というよりも、もっと生理的な感じだ。
 迷いたいのだ。
 この欲望が「心」を超越したものであることは、「橋に心をのこしながらも」ということばが端的にあらわしている。「心」など関係ないのだ。いや、そうではない。いままでの「心」を置き去りにして、いままで知らなかった「心」の領域に入り込みたいのだ。
 心底、迷いたいのだ。
 いつもと違う場所。そこへは「心」が突き進んだことがない。そこでは「心」の歩むべき道は決まっていない。何が起きるかわからない。そういうことは、人間にとって「不安」である。「不安」であるけれど、人間は「不安」さえも味わいたいものなのだ。
 そして「不安」は、道の領域のなかへ進む「心」ゆえに生じるものでもない。
 実は、橋に残してきた「心」ゆえに生まれるのである。「心」はいつでも「橋にのこし」てきた「心」に帰りながら、つまり「(橋をわたればよかった)」(2連目3行目)と思いながら、未知の道を歩くのだ。
 「心」は、それがどんなに遠く離れても、橋に残して、その橋からどんなに遠ざかろうとも、実はひとつである。それはどこまでも広がってゆくものなのだ。
 迷うことは、「心」を広げることなのである。「心」を広げるために、迷うのだ。迷いたいという欲望は、このとき「心」を広げたいという欲望と重なる。同じ意味になる。「心」を拡大し、拡大することで新しい人間に生まれ変わりたい--そういう欲望を、石川は、きわめて日常的なことば、しかし夢のように強いことばで描き出す。

いつもよく ここで迷った とおもい
いまも迷い

 とても美しい連だ。



 小松弘愛「てんぽうな」は、「無鉄砲な」という意味の土佐方言を題材にしている。

わたしは
「煙突中学」に通いながら
あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「無鉄砲な」ことをする気力もなかった
「思いきった」ことをする覇気がなかった

 この詩は、いつもの小松の作品に比べておもしろみに欠ける。なぜだろうか、と私はしばらく考えた。
 「てんぽうな」は「てっぽうな」(鉄砲な)ということばと関係しているように、土佐便とは無関係な私には思える。「鉄砲」は日常から遠くかけ離れたものである。「てんぽうな」男と言えば、たぶん日常とはかけ離れたことをやってのける男のことであろう、と想像する。普通(日常)は人がしないこと、たとえば2連目に出てくる高さ50メートルの煙突にのぼるようなことをやってのける男について語られるときにつかわれるようだが、このとき土佐の人は、その行動に「鉄砲」に通じる日常を超越した力を見ているのだと思う。
 そういう日常からかけ離れたものを表現するとき、土佐では「てんぽうな」(鉄砲な)と言う。ところが、標準語(?)では、そういうとき「鉄砲な」とは言わずに「無鉄砲な」と、頭に「無」つけて表現する。「鉄砲な」と「無・鉄砲な」。ふたつのことばの差異をつくりだしている「無」ということばの存在。その「無」に、小松は踏み込んでいない。
 大胆な、思い切ったというとき、土佐では「鉄砲な」といい、標準語では「無鉄砲な」という。もし、私の仮説が正しければ、「無」の有無は、土佐の人々の感性・精神ととても深く結びついているはずである。標準語では「無」という否定的なことばをつけないことには受け入れられないものを、土佐では否定せずに、ただ肯定的に受け入れる。その肯定的な生き方に、土佐の人々の逞しさがある……。

「小松さん
もっと飛ばなあいかん」    (5連目)

 小松の詩に寄せられた同人の批評。そこにも非日常、日常を超越するものへの肯定的な意志が感じられる。

 もっとも、こういう感じ方は、私が標準語の世界から土佐弁をみていることから起きる誤読かもしれない。

 小松は「無鉄砲な」の「無」を「無意味」(ナンセンス)の「無」と受け止めているように感じられる。作品の後半に空を飛ぶ人参が登場する。その人参を「てんぽうな」ことをする人参だ、と小松は書いている。大胆というよりも、何か、ナンセンスな、という感じが、私にはする。「笑い」がどこかに含まれている。
 「てんぽうな」は単に「無鉄砲な」というよりも、そこにナンセンスな笑いを引き起こすような非日常を含んでいるのかもしれない。「無鉄砲な」にはナンセンスな感覚はない。ところが「てんぽうな」にはナンセンスな意味がある、ということかもしれない。

 「無」を、小松がどう定義しているのか、そのことを知りたい、と思った。

コメント
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