詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡田利規「三月の5日間」

2008-06-19 12:35:01 | その他(音楽、小説etc)
 岡田利規「三月の5日間」(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』新潮社、2007年02月25日発行)
 第2回大江健三郎賞受賞作。偶然であった男女が渋谷のラブホテルで4泊5日をすごす。その間に、イラク空爆が始まる。個人的な行為と世界のできごととが乖離している。そのことを感じながら、どうしていいか何も見いだせないまま、ただ、いま、感じること、考えていることを、正直にたどろうとしている。いわば、ことばがどこまで正直になれるかを試している。ことばの冒険である。小説とは(あるいは文学とはと言い換えた方が正確かもしれないが)ことばの冒険である--ということを感じさせてくれる作品である。

 見終わったとき、気が付くと左半身が痺れたようになっていた。もちろん今はもうその痺れはひいている。でもまだそれは皮膚の一枚内側の場所に待機していて、取り出してこようと思えばいつでも取り出せてすぐに生々しくなるような気がする。

 その文体の特徴は、自己の感覚を「存在」ととらえるところにある。
 「取り出してこようと思えばいつでも取り出せて」が象徴的である。感覚は「取り出せる」「もの」なのである。感覚というものは常に自己そのものを侵略し、自己を自己ではなくさせるようなものなのだが、岡田は、それを「もの」として主人公に感じさせている。
 同時に、その「もの」の存在のあり方を、対象として突き放しながらも、肉体と地続きの感じで描いている。

 それは皮膚の一枚内側の場所に待機していて

 この「もの」として感覚をみつめながら、他方でその「もの」が自己とはいつでも地続きであるという世界のとらえ方(文体、思想)が、この作品の特徴だ。

 この感覚を「もの」としてとらえる視点、感覚の独立性というか、相互侵略による融合の欠如の感覚は、「乖離」ということばを思い起こさせる。あ、この男、自分の感覚すら、自分のなかで「乖離」している、と思ってしまう。それは「客観化」を通り越している。「客観化」するまえに、「もの」として孤立していて、それを自己が操作するという形で、そこに「連続性」が生まれてくるのである。こういう感覚が、今の若い世代の共通のものなのかどうかはわからないが、岡田は、そういう若者を描こうとしている。

 こういう文体(思想)をもった若者が他者と出会う。その他者もまた同じように感覚をものとしてとらえ、同時に肉体と地つづきであると感じている。その二人が出会ってセックスをする。ただセックスをしているだけなのだが、肉体と肉体が接触し、地続きになることで、感覚が「乖離」したまま、奇妙にいりまじる。融合するのではなく、混合する。
 そこでは感覚を統合しようという意識はない。ふれあった感覚を「愛」に結晶化させようという意識がない。(この小説は、いわゆる恋愛の成就を目指していない。)他人の感覚はあくまで他人の感覚である。どんなに語り合っても他人のままである。

 この感覚を、岡田は主人公を男から女にかえることで、次のように書いている。(この小説では、前半は主として男の視点、後半は主として女の視点から作品世界が語られる。)

女のほうは別れたあと、しかしすぐ電車にはのらなかった。このまま電車に乗ってしまって渋谷を離れたら、今感じているこの渋谷--知っているのに知らない街--みたいなモードが自分の中から消えるだろうし、そうしたらもう二度と、これは戻ってこないだろうと、正しく予感していたので、女はもう少しこれをひきずっていたかったから、まだ離れたくなかった。

 この文章のなかの「知っているのに知らない」という感覚。女は男とセックスをした。それは相手を知ることでもある。たしかに、知った。しかし、ほんとうは「知らない」といってもかまわない。「知った」けれど、これからは同じ時間を生きていくわけではないのだから、無関係である。無関係なものは「知らない」としか言いようがない。「知っているのに知らない」とは「過去」は「知っている」が未来は「知らない」ということでもある。
 そして、それが「自分の中から消えるだろう」という予感。
 「自分の中」というのは「知っているのに知らない」が「自分」と地つづきであるということだ。過去は自分と地続きである。しかし、それは未来とは地続きにはならない。「消える」とは「過去」が「未来」から存在しなくなることである。それはある日、何かによって「取り出」されてしまうのか。女には、それはわからない。わからないまま、ただ「知っているのに知らない」という「時間」を抱きしめている。「現在」を抱きしめる。

 「知っているのに知らない」。

 この自覚は、女を変えてしまう。自分の中にある「乖離」をはっきり自覚する。(たぶん、最初に引用した文の男の自覚のなかには「乖離」という意識は明確ではない。)その部分が、とても美しい。

坂の路面は朝の光を受けて凍っているみたいに見えた。朝のごみの匂いがした。両脇に電信柱が立っていた。女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツがおいてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みになっいて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剥き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしているのを見ていたのだった。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が「あ」と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。その声に反応したホームレスが、かがんだままでこっちを向いた。それは鋭く見るというより、風の音を聴くような感じの柔らかさだった。

 それから女はトイレを探して駈けだす。

文化村の中のトイレは知っていた。でもそれがあく時間よりも今はずっと早い朝だった。他のトイレを知らなかったので、どこか開いている店みたいなのがないか探したが、見つからなかった。どうせ見つかりっこないと思いながら捜していたから、もうだめだった。溢れてきて道に吐き散らした。吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒があったことがおぞましかったからだ。そのことがわかりながら吐いていて、吐き終わると、落ち着くまで長い時間が要った。

 引用しながら、引用がやめられなくなった。
 女は「世界」を見たのではなく、「自分」を見たのである。それまでは自分の「感覚」を「もの」として見てはいたが、「自分」を見てはいなかった。自分の感覚を「もの」のように「知っていた」。ちょうど文化村のトイレのように存在を知っていた。しかし、「知らない」感覚があるということを「知らなかった」。別の開いている店とトイレを「知らなかった」ように、どこに何があるか「知らなかった」。しかし、知らなくても存在するものはあるのだ。見えなくても存在するものはあるのだ。扉を閉ざした店、その奥にあるトイレのように。そんなものが女にもあったのだ。

人間と動物を見間違えていた数秒があったことがおぞましかった

 そんな感覚があるとは女は「知らなかった」。人間を動物と見間違えるような感覚が女の中にあるとは知らなかった。それは、どこにか「融合」して隠れていた。それが分離し、ふいに、混合物のように独立して表に出てきた。
 この変化が、そして、その変化にうろたえる女と渋谷の街が美しい。







わたしたちに許された特別な時間の終わり
岡田 利規
新潮社

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