詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」、水島英己「湯殿川」

2008-06-03 10:51:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」、水島英己「湯殿川」(「tab 」10、2008年05月15日発行)
 とても不思議な体験をした。

田園の真ん中にアップライトピアノがひとつ置かれてありました。

田園は風の通る道のりに一致して広がっていました。
あおあおと伸びる稲のうねりに負けぬよう
ピアノも弦を震わせるのでした。

 鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」の書き出しだが、童話のようである。童謡のようである。「置かれてありました」「負けぬよう」という文語っぽい響きと田んぼの真ん中のアップライトピアノというシュールな(?)組み合わせに似合っている。
 私は田舎育ちなので、こういう風景(宮沢賢治も書きそうな田園の風景)を読むととても心が落ち着く。感想が個人的になりすぎて、「心が落ち着くでは」では批評にならないかもしれないが……。

 風と音楽の関係が、そのあともつづく。その部分も好きである。ある意味では紋切り型といえるかもしれないが、それがまた童謡風で、なかなか落ち着く。新しいことばを読むのは楽しいが、なつかしいことばを読むのも、とてもいいものだ。
 作品のつづき。

しなりの良い枝が弦として張られていた日もありました。
台風の夜には台風の音楽を奏でるためでした。

おやすみ、フォルテシモ
ベッドの中で私はちぢこまり
夢の中では
空にぽっかりと口を開けた闇が
風を全部食べるところに居合わせるのでした。

蜘蛛の糸が弦として張られていた日もありました。
ちいさな雨粒の軌跡を正確になぞって奏でるためでした。

おはよう、ピアニシモ
糸のむこうに少しだけ高度を上げた空を見るのです。
しかし、ちいさな雲は足を縮こめ
死骸となって窓枠に転がっていました。

きれない糸の秘密を尋ねたかったのに

 「死」の登場、というか、「死」がこの世に存在することを知らせる--というのも、童謡(童話)の基本を踏まえていて、とてもいいなあ、と感じた。そして、感想を書きたい、この詩を紹介したいと思い、この文章を書こうとして、「あっ」と声を上げてしまった。
 ちょっと時間の経緯が違ってしまうのだが、その「あっ」を説明すると……。

 私は、この作品が「きれない糸の秘密を尋ねたかったのに」で終わっていると思っていた。本のページがくっついていて、その作品につづきがあるとは気がつかなかった。引用しようとするとページの下から文字が透けて見える。(本の体裁が片面コピーを重ねた形式)。「あれ」と思ってページをずらすと、詩のつづきが出てきてた。そして「あっ」と声を出してしまったのである。
 そして、この「あっ」はもう一度、変化した。
 詩のつづきをここでは引用しないが、次のページからはじまることばが、そんなにおもしろくない。
 鈴川は蜘蛛の死のあと「田園」を離れ、「町」をめざすのだが、そこから突然、童謡・童話ではなくなる。(と、私には思える。)落胆してしまった。前半の美しさが、突然きえてしまい、「あっ」は「あーあ」にかわってしまった。



 しかし、実は、不思議な体験--というのは、けれど鈴川の作品に対する私の感想の変化のことではない。
 同じことが「tab 」で、もう一度起きたのである。
 水島英己「湯殿川」。この作品でも私は 1ページ目にとても感動した。その3、4連目を引用する。

「さまよい人」が二人。
思う、考える、
食べる、飲む。
行路は難し、行路は難し。
愛が何であるかを知らないけれど、土手に咲くチューリップはきれい。
湯殿川、You don't...

セキレイが夕日に向かって飛び去ったとき、
鋭角的な線を残した。
横に引かれた線が垂直に曲がるところで、
否定と肯定が交わる。
湯殿川は流れようとしている。

 とても美しい。ことばの動きが美しい。思考が風景とまじりあう。概念を自然がひっかく。そのノイズが西脇順三郎のようである。いいなあ。とてもいいなあ。
 特に、

湯殿川、You don't...

 という1行。まるでサザンオールスターズの音楽である。日本語が英語のリズムになって、新しいメロディーとして流れはじめる。この1行だけで、私は、この作品を今年前半のベスト1に選びたいと思った。とても感動した。3連目、漢詩でいう起承転結の転のハイライトである。この突然の英語の乱入によって、ことばがいっきに変化し、4連目で自然のなかに「時間」が鮮やかに流れる。「時間」が姿をみせる。古い時代からずーっと流れ続けている川の流れのように、その川面を(あるいは水の本質を)輝かせて。
 ところが、この詩にも1ページ目があった。そして、そこで私はまたしても落胆してしまった。特に最後の6連目に。(引用はしない。)

 同じ本で、同じことが2度続けて起きた。これは、私にとって、とても不思議なことである。



 本を読む。ことばを読む。そのとき、私はたぶん、「結論」を想定していない。ことばが動いて、それが頂点に達したとき、それで「おしまい」と思ってしまう癖があるのだろう。その癖がたまたま2作品で続けて起きただけのことなのかもしれない。
 鈴川や水島のことばとは関係なく、単に、私の読み方の癖がはっきりしたというだけのことかもしれない。


コメント
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