三井葉子『花』(3)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
きょうも三井葉子である。すべて詩がおもしろい。すべての行について、私が感じたことを、そのまま脚注のような形で書き綴ることができれば、と思うくらいおもしろい。
「こおろぎ」。その前半。
4連目は、とても不思議な連である。
3連目の「行くときは/たしかに蛙だったのに」の論理を普通(?)に引き継げば、3連と4連目の間に、しかし「きょう戻ってきたのは蛙ではなかった、こおろぎだった」にということばがあるはずである。3連目の「のに」は、前にあることばを否定して、次のことばを引き寄せるはずである。
そして4連目は、
と、なると思う。
けれども三井のことばはそんなふうに動いて行かない。
3連目の「のに」を引き継げば、きょうは「蛙」ではないはずなのに、「きょうは蛙のような」とつながる。そして「きのうの こおろぎも残っていて」と、ことばが追い打ちをかける。
え? どっちなの? 「行くとき」(たぶん、きのう)は「蛙」だったのに、きょうは「蛙」ではない、とはどうしてならないの?
理由は単純である。「垣根」がないのである。「垣根がない」状態のことを、きのうの感想のつづきで書けば、私は「混沌」と呼ぶ。「蛙」と「こおろぎ」は違った存在であるが、いつでもすりかわりうるのである。それはともに「私」なのである。
きのうは「蛙」として生成し、きょうは「こおろぎ」として生成する。しかし、その「きょうのこおろぎ」のなかには「(きのうの)蛙のような」ものも「残って」いるし、「きのうの蛙」のなかには「(きょうの)こおろぎ」につながるものも「残って」いる。はっきりとは区別できない。
「垣根」とは何かを区別するものとして存在するのが一般的だけれど、そうではなくて、垣根はいう「場」で分けられたふたつのものが出会っていると考えると、それはある存在をつなげるものとも見ることができる。分けることはつなげること、つなげることは別個の存在があると意識すること、つまり分けること。
どう考えてもいいのである。
そして、三井は、どうとも考えるのである。つまり、あるときは分けるものとして、そしてあるときはつなげるものとして。「垣根」をひとつの意味に定義しない。固定しない。ただ、受け入れる。
「蛙」や「こおろぎ」について三井は何も書いていない。「蛙」や「こおろぎ」を何かの比喩、象徴と解釈して、そこからこの詩について語りはじめることができたかもしれない。ほんとうはそうすべきなのかもしれない。けれども、私はそういうふうには読まない。
「蛙」と「こおろぎ」に区別はない。「私には垣根はない」と三井がはっきり書いている。区別するものなどない。それは同時に「蛙」も「こおろぎ」も「私」である、ということだ。比喩や象徴ではなく、「私」そのものなのだ。「私」そのものとして、受け入れる、ということだ。
しかし、「蛙」「こおろぎ」を「私」として受け入れるということは、その差異を無視するということではない。「垣根」についても、私は、三井はそれを分けるものとも、つなぐものともどうとも考えると書いたけれど、それは無責任に考えるということではない。非論理的に考えるということではない。
詩の後半。
すべての存在(世界)は意識のありかたによって変化する。世界は「混沌」としている。「混沌」に「意識」働きかけるとき、そこから「世界」が生成する。あるときは「蛙」に、あるときは「こおろぎ」に。そして、あるときは「私」に。
この「生成」を三井は、「生成」とは呼ばずに、
と呼ぶ。
三井にとって「生成」ということばはない。すべてはただ「帰る」のである。何かになるのではなく、「帰る」。この「帰る」は「還る」であり、「戻る」でもある。
三井は、書いてはいないけれど、この「帰る」「還る」「戻る」先は、「いのち」そのものである。「いのち」の根源。そこへ「帰る」「還る」「戻る」。
三井のもとへ「帰って来た」ものは、ものではなく、「帰る」「還る」「戻る」という「いのち」のあり方、「いのち」の動き、「いのち」の運動である。
三井は「蛙」に、「こおろぎ」に、その姿を見ているのではない。「いのち」の運動を見ている。「いのち」の運動、動きに、区別はない。生きる。動く。いま、ここから、いままではない時間、ここではない場所へ動く。そして、動いていったその「場」は、未来でもあれば過去でもある。あらゆるものが同居している。
私が書いてきた「混沌」は「同居」とも言い換えることができる。
三井はあらゆる「いのち」と同居している。そして、その「いのち」と出会い、そこで自分を「生成」する。つまり、「いのち」そのものに還っていく。出会った存在の、その「いのち」の力を借りながら。
三井のことばには、そのときの、しずかな感謝が含まれている。感謝の気持ちが、ことばをとてもやさしくしている。
「帰って来たのか え」「帰ったのか え」。この2行の「え」。しずかな問いかけ。それは問いかけであると同時に、納得なのだ。同意なのだ。よろこびなのだ。たとえばどこかへ行っていたこどもが家へ帰ってきたときの、母の「帰って来たのか え」「帰ったのか え」のような、「え」の気持ち。そこには、すべての「分類」できない思いがある。「混沌」の至福がある。
私はこれまで三井葉子の作品をそんなにていねいには読んで来なかった。ほとんど三井の作品を知らない。--知らずにいたことを、とても恥ずかしく思った。
きょうも三井葉子である。すべて詩がおもしろい。すべての行について、私が感じたことを、そのまま脚注のような形で書き綴ることができれば、と思うくらいおもしろい。
「こおろぎ」。その前半。
山越え
野越え
里越えて
帰って来たのか え
行くときは
たしか蛙だったのに
私には垣根がない きょうは蛙のような
でも
きのうの こおろぎも残っていて
4連目は、とても不思議な連である。
3連目の「行くときは/たしかに蛙だったのに」の論理を普通(?)に引き継げば、3連と4連目の間に、しかし「きょう戻ってきたのは蛙ではなかった、こおろぎだった」にということばがあるはずである。3連目の「のに」は、前にあることばを否定して、次のことばを引き寄せるはずである。
そして4連目は、
私には垣根がない きょうはころおぎのような
でも
きのうの 蛙も残っていて
と、なると思う。
けれども三井のことばはそんなふうに動いて行かない。
3連目の「のに」を引き継げば、きょうは「蛙」ではないはずなのに、「きょうは蛙のような」とつながる。そして「きのうの こおろぎも残っていて」と、ことばが追い打ちをかける。
え? どっちなの? 「行くとき」(たぶん、きのう)は「蛙」だったのに、きょうは「蛙」ではない、とはどうしてならないの?
垣根がない
理由は単純である。「垣根」がないのである。「垣根がない」状態のことを、きのうの感想のつづきで書けば、私は「混沌」と呼ぶ。「蛙」と「こおろぎ」は違った存在であるが、いつでもすりかわりうるのである。それはともに「私」なのである。
きのうは「蛙」として生成し、きょうは「こおろぎ」として生成する。しかし、その「きょうのこおろぎ」のなかには「(きのうの)蛙のような」ものも「残って」いるし、「きのうの蛙」のなかには「(きょうの)こおろぎ」につながるものも「残って」いる。はっきりとは区別できない。
「垣根」とは何かを区別するものとして存在するのが一般的だけれど、そうではなくて、垣根はいう「場」で分けられたふたつのものが出会っていると考えると、それはある存在をつなげるものとも見ることができる。分けることはつなげること、つなげることは別個の存在があると意識すること、つまり分けること。
どう考えてもいいのである。
そして、三井は、どうとも考えるのである。つまり、あるときは分けるものとして、そしてあるときはつなげるものとして。「垣根」をひとつの意味に定義しない。固定しない。ただ、受け入れる。
「蛙」や「こおろぎ」について三井は何も書いていない。「蛙」や「こおろぎ」を何かの比喩、象徴と解釈して、そこからこの詩について語りはじめることができたかもしれない。ほんとうはそうすべきなのかもしれない。けれども、私はそういうふうには読まない。
「蛙」と「こおろぎ」に区別はない。「私には垣根はない」と三井がはっきり書いている。区別するものなどない。それは同時に「蛙」も「こおろぎ」も「私」である、ということだ。比喩や象徴ではなく、「私」そのものなのだ。「私」そのものとして、受け入れる、ということだ。
しかし、「蛙」「こおろぎ」を「私」として受け入れるということは、その差異を無視するということではない。「垣根」についても、私は、三井はそれを分けるものとも、つなぐものともどうとも考えると書いたけれど、それは無責任に考えるということではない。非論理的に考えるということではない。
詩の後半。
でも
忘れてはいない よ
五蘊七光の光がさして草色のおまえを分けていた類(るい) 分別の朝を
帰ったのか え
こおろぎ。
すべての存在(世界)は意識のありかたによって変化する。世界は「混沌」としている。「混沌」に「意識」働きかけるとき、そこから「世界」が生成する。あるときは「蛙」に、あるときは「こおろぎ」に。そして、あるときは「私」に。
この「生成」を三井は、「生成」とは呼ばずに、
帰って来たのか
と呼ぶ。
三井にとって「生成」ということばはない。すべてはただ「帰る」のである。何かになるのではなく、「帰る」。この「帰る」は「還る」であり、「戻る」でもある。
三井は、書いてはいないけれど、この「帰る」「還る」「戻る」先は、「いのち」そのものである。「いのち」の根源。そこへ「帰る」「還る」「戻る」。
三井のもとへ「帰って来た」ものは、ものではなく、「帰る」「還る」「戻る」という「いのち」のあり方、「いのち」の動き、「いのち」の運動である。
三井は「蛙」に、「こおろぎ」に、その姿を見ているのではない。「いのち」の運動を見ている。「いのち」の運動、動きに、区別はない。生きる。動く。いま、ここから、いままではない時間、ここではない場所へ動く。そして、動いていったその「場」は、未来でもあれば過去でもある。あらゆるものが同居している。
私が書いてきた「混沌」は「同居」とも言い換えることができる。
三井はあらゆる「いのち」と同居している。そして、その「いのち」と出会い、そこで自分を「生成」する。つまり、「いのち」そのものに還っていく。出会った存在の、その「いのち」の力を借りながら。
三井のことばには、そのときの、しずかな感謝が含まれている。感謝の気持ちが、ことばをとてもやさしくしている。
「帰って来たのか え」「帰ったのか え」。この2行の「え」。しずかな問いかけ。それは問いかけであると同時に、納得なのだ。同意なのだ。よろこびなのだ。たとえばどこかへ行っていたこどもが家へ帰ってきたときの、母の「帰って来たのか え」「帰ったのか え」のような、「え」の気持ち。そこには、すべての「分類」できない思いがある。「混沌」の至福がある。
私はこれまで三井葉子の作品をそんなにていねいには読んで来なかった。ほとんど三井の作品を知らない。--知らずにいたことを、とても恥ずかしく思った。
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