みえのふみあき「小道にて」(「乾河」52、2008年06月01日発行)
誰の作品を読んでも、わからないところがある。みえのの作品にもわからない部分がある。そして、私には、そのわからない部分が魅力である。
「小道にて Occurrence15」。その前半。
小道と川が対話のように描写されている。対話のように存在するのだろうけれど、対話しない部分もある。そしてそれは対話しない、無関係であるということで、また別の対話をしていると言えるのかもしれない。
時間と空間。川と小道の対話が、突然時間と空間の対話に変わる。川と小道は接するのをやめて、たがいに離れてゆく。しかし、ほんとうは離れるふりをして、より接近しているのかもしれない。接することでは接し得ないもの--つまり、内部へとたがいに侵入し、そこで対話をしはじめたら、それが突然時間と空間という哲学に炸裂したのだ。この瞬間の、
が、私には、よくわからない。わからないけれど、とても好きだ。錯覚のように、私は「天の川」を思い浮かべた。道が天に昇って天の川になる。そんなことは、みえのは書いてはいないのだけれど、私はみえののことばをかってにねじ曲げて、小道が天の川になって天を流れる音を聞くのである。そして、かってに、いいなあ、この透明な感じは、と思うのだ。
夜の野。川。小道。夜の野は平面であることをやめて、突然、宇宙の中に立体的にひろがる。時間は、宇宙ではどんなふうに存在するのだろう。地上では川が流れる--その流れるという運動とともに時は存在するけれど、宇宙では? 天の川が流れて時をうみだす? 時を刻む? その「時」は遠い星をもとめて「編目」のように広がっていく。
野を見ているのか、それとも夜を見ているのか。夜という「夢」を見ているのか。
なにもわからなくなる。
ただ「小道は空白の天空にしずかに懸かり」ということばだけが、音楽として耳に残る。この瞬間、私は至福を感じる。
みえのは作品を誤読している、というかもしれない。
そういう批判は、私は、まったく気にならない。詩なのだから。詩は書いたひとのものであるより、読んだひとのものなのだから。そのことばを必要としているもののものなのだから。
「小道にて Occurrence16」も美しい。全行引用する。
「つなぐ」。ひとはなんでも「つなぐ」。つながらないはずのものさえつなぐ。小道と川をつないで、そこから時間と空間(宇宙)を導き出す。遠く離れた星をつないで星座をつくり、存在しない熊や白鳥を天空に呼び出す。
「つなぐ」ことは呼び出すことだ。
だが、「ぼく」は呼び出されたくはない。「ここ」にいたい。「ここ」で春のあめに溶けていたい。
このときの「とける」は「つなぐ」とはまったく別のものである。対極にある。
「つなぐ」は遠く離れたものを「つなぐ」。「つなぐ」ことで一体になる。
「とける」は近くにあるものと一体になる。溶けて、そこから広がるにしても、それは「遠い」距離へとは広がらない。もし広がるとしても、それはその広がりを凝縮させるためのものである。もし、「ぼく」が春の雨に溶けて、「わく」という形をなくし、野へと広がり、さらに山を超え、空を超えて、宇宙へと広がってゆくとしても、それは宇宙へ広がっていくという拡大が目的ではない。宇宙を「ぼく」へ凝縮させるためのものである。空を、山を、野を、凝縮し、その呼吸を春の雨のように静かに呼吸するために、呼吸するための一点に凝縮させるために広がっていく。
「つなぐ」と「とける」は「遠心・求心」である。
誰の作品を読んでも、わからないところがある。みえのの作品にもわからない部分がある。そして、私には、そのわからない部分が魅力である。
「小道にて Occurrence15」。その前半。
小道は川にそって曲がっている
川は小川の曲がり角を絶えず侵食し
思いあまって小道にあふれだそうとする
ひとすじの時をうみだす川とちがって
小道は空白の天空にしずかに懸かり
編目のように展延して
行き止りとなることはない
小道と川が対話のように描写されている。対話のように存在するのだろうけれど、対話しない部分もある。そしてそれは対話しない、無関係であるということで、また別の対話をしていると言えるのかもしれない。
ひとすじの時をうみだす川とちがって
小道は空白の天空にしずかに懸かり
時間と空間。川と小道の対話が、突然時間と空間の対話に変わる。川と小道は接するのをやめて、たがいに離れてゆく。しかし、ほんとうは離れるふりをして、より接近しているのかもしれない。接することでは接し得ないもの--つまり、内部へとたがいに侵入し、そこで対話をしはじめたら、それが突然時間と空間という哲学に炸裂したのだ。この瞬間の、
小道は空白の天空にしずかに懸かり
が、私には、よくわからない。わからないけれど、とても好きだ。錯覚のように、私は「天の川」を思い浮かべた。道が天に昇って天の川になる。そんなことは、みえのは書いてはいないのだけれど、私はみえののことばをかってにねじ曲げて、小道が天の川になって天を流れる音を聞くのである。そして、かってに、いいなあ、この透明な感じは、と思うのだ。
夜の野。川。小道。夜の野は平面であることをやめて、突然、宇宙の中に立体的にひろがる。時間は、宇宙ではどんなふうに存在するのだろう。地上では川が流れる--その流れるという運動とともに時は存在するけれど、宇宙では? 天の川が流れて時をうみだす? 時を刻む? その「時」は遠い星をもとめて「編目」のように広がっていく。
野を見ているのか、それとも夜を見ているのか。夜という「夢」を見ているのか。
なにもわからなくなる。
ただ「小道は空白の天空にしずかに懸かり」ということばだけが、音楽として耳に残る。この瞬間、私は至福を感じる。
みえのは作品を誤読している、というかもしれない。
そういう批判は、私は、まったく気にならない。詩なのだから。詩は書いたひとのものであるより、読んだひとのものなのだから。そのことばを必要としているもののものなのだから。
「小道にて Occurrence16」も美しい。全行引用する。
行きかう人がいなくても
小道はまだつないでいるのだ
星座の星々をつなぐ見えない線のように
愛憎と抗争 昼と夜
桃が咲いた
朝 籠の中で椋鳥が死んでいた
ぼくはただ春の雨に溶けていたいだけだ
「つなぐ」。ひとはなんでも「つなぐ」。つながらないはずのものさえつなぐ。小道と川をつないで、そこから時間と空間(宇宙)を導き出す。遠く離れた星をつないで星座をつくり、存在しない熊や白鳥を天空に呼び出す。
「つなぐ」ことは呼び出すことだ。
だが、「ぼく」は呼び出されたくはない。「ここ」にいたい。「ここ」で春のあめに溶けていたい。
このときの「とける」は「つなぐ」とはまったく別のものである。対極にある。
「つなぐ」は遠く離れたものを「つなぐ」。「つなぐ」ことで一体になる。
「とける」は近くにあるものと一体になる。溶けて、そこから広がるにしても、それは「遠い」距離へとは広がらない。もし広がるとしても、それはその広がりを凝縮させるためのものである。もし、「ぼく」が春の雨に溶けて、「わく」という形をなくし、野へと広がり、さらに山を超え、空を超えて、宇宙へと広がってゆくとしても、それは宇宙へ広がっていくという拡大が目的ではない。宇宙を「ぼく」へ凝縮させるためのものである。空を、山を、野を、凝縮し、その呼吸を春の雨のように静かに呼吸するために、呼吸するための一点に凝縮させるために広がっていく。
「つなぐ」と「とける」は「遠心・求心」である。
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