水無田のことばには不思議な軽さがある。奇妙な表現しかできないが、それは「重さ」を持たない軽さである。あるいは重さを欠如している。これは、いい意味での欠如である。重さに汚れていない、と言い換えた方がいいかもしれない。意味に汚されていない、と言い換えた方がいいのかもしれない。
「異種混交故郷(ハイブリッド・ハイマート)--再起動(リスタート)」という作品の書き出し。
1行1行に、たぶん「意味」を塗り込めることはできる。
「故郷」を「特定」できないという現代。「故郷」喪失の現代とは、故郷という濃密な時間の連続する流れを失ったに等しい。「故郷」によって継承される時間、連続して流れる時間を引き継いでいないということは、ひとりの人生の時間が膨大な過去を失うこと。それは個人の人生が短縮されたというのに等しい……。
たとえば、今、引用した数行の「故郷」「特定」「時間」「失認」「短縮」から、そんなふうな「意味」を捏造することができる。
しかし、水無田は、そんな「意味」を浮かび上がらせるためにことばを書いているのではない。むしろ、そういう「意味」を捨てるために書いている。ことばが「意味」になってしまうのを拒絶している。「意味」とは「特定」のなにかにつながる、そのつながり方のことである。だれでも何かにつながっている。たとえば「故郷」につながっている。そのつながりを拒絶するとは、「特定」のものを「特定」ではなくするということである。「特定」がなくなれば、つながりもなくなる。
「意味」の拒絶とは、「特定」との関係を拒絶する、ということである。
この1行は象徴的である。ここでの「ユニバアサル」は「ユニバーサル・デザイン」というときの「ユニバアサル」だろう。だれにでも、つまり不特定の、特定の何かに限定されないホウム(故郷)。「不特定」「特定されない」を水無田は「ハイブリッド」と言い換えている。「特定されない」とは異なったものが混じり合っているということと同じ意味なのである。
「特定」を拒絶し、常に「不特定」(異種混交)であること。
「特定」を拒絶するための方法として、たとえば水無田は「ユニバアサル・ホウム」というようなことばをつかう。まだ「意味」が固定されていないことば。「故郷」に、つまり水無田の生まれ育ってきた「場」に完全に共有されていないことば、生まれ育ってきた「場」とはつながっていないことばをつかう。
それは、「故郷」から「逃亡」することである。そして「異境」とつながること、「異人」として再生することでもある。ことばはどんなことばにしろ、かならず何かとつながっている。「故郷」とつながらないことばは「異境」とつながっているのだから。その「異境」とのつながりを利用して、「故郷」とのつながりを拒絶する、切断する。そうして再生する。
それはひとつの、切り離せない行為である。
だからこそ、次のような1行が生まれる。
「逃亡」と「再起動」は「/」によって緊密に結びついている。ぜったいに切り離すことはできない。「/」はしばしば「改行」とおなじような意味合いでつかわれるが、水無田は、「改行」とはまったく別の使用法をしている。「逃亡」と「再起動」のあいだにある「/」は「切断」と同時に「=(イコール)」なのである。強引に私のことばで言い換えれば「/」は「つまり」と同じである。
しかし、水無田は「つまり」とは書かない。「つまり」ということばはすでに「故郷(日本語の故郷、という意味、日本語の歴史という意味)」に汚れている。「重さ」を持っている。そういうことばはつかいたくない。そういうものと「無縁」のことばへの指向が水無田を動かしている。それが「/」に特徴的にあらわれている。
そして、そこにこそ、水無田の「軽さ」の美しさがある。まだ「意味」に汚れていないことば(ここでは、まだ記号であるけれど)--それを求める強い力が、あらゆる「故郷」から水無田を引き剥がす。
詩はたしかにこういうところからはじまる。ここからしかはじまりようがない。いままでとは無縁のことば。新しいことば。その力で、自分が自分でなくなる。自分の「
故郷」と完全に切れて、「異境」で新しく生まれ変わる。
「/」は「=」と同じである。(古い意味、つまり言い換えるときつかうことばでは、同じになる。等しいものになる。)しかし、その「同じ」であるものを、水無田は「=」ではなく「/」で書く。ここに、ひとつの「意味」の誕生がある。(これは「詩」の誕生とも言い換えることができる。)
「イコール」であるけれど、「イコール」ではない。
「イコール」は別個の存在を結びつける。「=」は別個の存在の硬く結び合った両手の「象形文字」でもある。そこには「境目」がない。「境界線」がないことが「=」なのである。
しかし、水無田は「境界」(境界線)を意識するのである。「境界」(境界線)の意識を欠落した「=」は水無田にとって、なんの価値もない。水無田にとって重要なのは「境界」(境界線)なのである。
「境界」(境界線)が人間を作り替えていく。人間を再生させる。「境界」(境界線)を超えるのではなく、「境界」(境界線)そのものになり、常に「再起動」しつづけること--そういう夢を水無田のことばは追いかけている。
「境界線」として成長しつづけることを夢見ている。
これは、かつて安部公房が「壁」でこころみたことばの運動と同じである。水無田のことばは安部公房のことばの運動とぴったりと重なり合う。(水無田が安部公房を読んでいるかどうか知らないが。)「境界線」として「再起動」することで、自己を消滅させる。自己消滅の軽さ、明るさ。それはたぶんけっして手に入らない。
なぜなら、どんなに「境界線」を生き続けても、そこへは、他者がやってきて、つながってしまう。たとえば、私がこうして、水無田の作品について何かを書いているように--書くということは対象とつながることだ。
それでも水無田は「逃亡」する。たとえば私のことばのとどかない新しい境界線へ。あらゆる「意味」の特定を拒絶し、ただ「再起動」する「境界線」になろうとする。この激しい欲望は美しい。とても美しい。安部公房のことばの美しさに通じる美しさがある。
「異種混交故郷(ハイブリッド・ハイマート)--再起動(リスタート)」という作品の書き出し。
ゆうべ 通告されたのは
故郷特定装置の時間失認(タイムグノシア)
私の短い人生が さらに 短縮されたということ
ユニバアサル・ホウム ハイブリッド・フルサト
「私の血液はポリネシア産かもしれない」
失ワレタ時間 を求め
私は逃亡/再起動する
1行1行に、たぶん「意味」を塗り込めることはできる。
「故郷」を「特定」できないという現代。「故郷」喪失の現代とは、故郷という濃密な時間の連続する流れを失ったに等しい。「故郷」によって継承される時間、連続して流れる時間を引き継いでいないということは、ひとりの人生の時間が膨大な過去を失うこと。それは個人の人生が短縮されたというのに等しい……。
たとえば、今、引用した数行の「故郷」「特定」「時間」「失認」「短縮」から、そんなふうな「意味」を捏造することができる。
しかし、水無田は、そんな「意味」を浮かび上がらせるためにことばを書いているのではない。むしろ、そういう「意味」を捨てるために書いている。ことばが「意味」になってしまうのを拒絶している。「意味」とは「特定」のなにかにつながる、そのつながり方のことである。だれでも何かにつながっている。たとえば「故郷」につながっている。そのつながりを拒絶するとは、「特定」のものを「特定」ではなくするということである。「特定」がなくなれば、つながりもなくなる。
「意味」の拒絶とは、「特定」との関係を拒絶する、ということである。
ユニバアサル・ホウム ハイブリッド・フルサト
この1行は象徴的である。ここでの「ユニバアサル」は「ユニバーサル・デザイン」というときの「ユニバアサル」だろう。だれにでも、つまり不特定の、特定の何かに限定されないホウム(故郷)。「不特定」「特定されない」を水無田は「ハイブリッド」と言い換えている。「特定されない」とは異なったものが混じり合っているということと同じ意味なのである。
「特定」を拒絶し、常に「不特定」(異種混交)であること。
「特定」を拒絶するための方法として、たとえば水無田は「ユニバアサル・ホウム」というようなことばをつかう。まだ「意味」が固定されていないことば。「故郷」に、つまり水無田の生まれ育ってきた「場」に完全に共有されていないことば、生まれ育ってきた「場」とはつながっていないことばをつかう。
それは、「故郷」から「逃亡」することである。そして「異境」とつながること、「異人」として再生することでもある。ことばはどんなことばにしろ、かならず何かとつながっている。「故郷」とつながらないことばは「異境」とつながっているのだから。その「異境」とのつながりを利用して、「故郷」とのつながりを拒絶する、切断する。そうして再生する。
それはひとつの、切り離せない行為である。
だからこそ、次のような1行が生まれる。
私は逃亡/再起動する
「逃亡」と「再起動」は「/」によって緊密に結びついている。ぜったいに切り離すことはできない。「/」はしばしば「改行」とおなじような意味合いでつかわれるが、水無田は、「改行」とはまったく別の使用法をしている。「逃亡」と「再起動」のあいだにある「/」は「切断」と同時に「=(イコール)」なのである。強引に私のことばで言い換えれば「/」は「つまり」と同じである。
しかし、水無田は「つまり」とは書かない。「つまり」ということばはすでに「故郷(日本語の故郷、という意味、日本語の歴史という意味)」に汚れている。「重さ」を持っている。そういうことばはつかいたくない。そういうものと「無縁」のことばへの指向が水無田を動かしている。それが「/」に特徴的にあらわれている。
そして、そこにこそ、水無田の「軽さ」の美しさがある。まだ「意味」に汚れていないことば(ここでは、まだ記号であるけれど)--それを求める強い力が、あらゆる「故郷」から水無田を引き剥がす。
詩はたしかにこういうところからはじまる。ここからしかはじまりようがない。いままでとは無縁のことば。新しいことば。その力で、自分が自分でなくなる。自分の「
故郷」と完全に切れて、「異境」で新しく生まれ変わる。
「/」は「=」と同じである。(古い意味、つまり言い換えるときつかうことばでは、同じになる。等しいものになる。)しかし、その「同じ」であるものを、水無田は「=」ではなく「/」で書く。ここに、ひとつの「意味」の誕生がある。(これは「詩」の誕生とも言い換えることができる。)
「イコール」であるけれど、「イコール」ではない。
「イコール」は別個の存在を結びつける。「=」は別個の存在の硬く結び合った両手の「象形文字」でもある。そこには「境目」がない。「境界線」がないことが「=」なのである。
しかし、水無田は「境界」(境界線)を意識するのである。「境界」(境界線)の意識を欠落した「=」は水無田にとって、なんの価値もない。水無田にとって重要なのは「境界」(境界線)なのである。
「境界」(境界線)が人間を作り替えていく。人間を再生させる。「境界」(境界線)を超えるのではなく、「境界」(境界線)そのものになり、常に「再起動」しつづけること--そういう夢を水無田のことばは追いかけている。
「境界線」として成長しつづけることを夢見ている。
これは、かつて安部公房が「壁」でこころみたことばの運動と同じである。水無田のことばは安部公房のことばの運動とぴったりと重なり合う。(水無田が安部公房を読んでいるかどうか知らないが。)「境界線」として「再起動」することで、自己を消滅させる。自己消滅の軽さ、明るさ。それはたぶんけっして手に入らない。
なぜなら、どんなに「境界線」を生き続けても、そこへは、他者がやってきて、つながってしまう。たとえば、私がこうして、水無田の作品について何かを書いているように--書くということは対象とつながることだ。
それでも水無田は「逃亡」する。たとえば私のことばのとどかない新しい境界線へ。あらゆる「意味」の特定を拒絶し、ただ「再起動」する「境界線」になろうとする。この激しい欲望は美しい。とても美しい。安部公房のことばの美しさに通じる美しさがある。
Z境 (新しい詩人)水無田 気流思潮社、2008年05月25日発行このアイテムの詳細を見る |
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