三井葉子『花』(6)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
「まっしろ」は美しい。
何も言うことはない。「とつとき」(「とっておきの」だろうと思って私は読んだのだが)の詩である。こんなふうに愛するひとに受け入れられるなら、死んで遺骨になるのもいいものである。遺骨になって、愛するひとに、自分の骨を「ひい ふう みい」と数えてもらいたい気持ちにさえなる。
すべての行が好きだが、3連目が特に好きである。「頭蓋骨」から「足のさき」までていねいにつないでいる。つなぐことが三井のことば、三井の思想の基本なのだと思う。
「五七(ごひち)」の書き出しの3連。
繋ぐ、繋ぐ、繋いで世界をつむぎだす。なんとか完成させる。そのとき、その繋いだ世界からはみだして、何かが存在を主張する。「五七」では、虫。草叢で鳴いている。そういうものに出会って、つまり、自分で繋いだものではないものにふいに出会って、世界が結晶する。他者(自分が繋いでいるものいがいのもの)が、ふいにあらわれて、「一期一会」の世界が結晶する。
それが美しい。その瞬間の、世界の広がりが美しい。
「まっしろ」でも同じことが起きる。遺骨。その白い骨を繋いで行く。頭から足の先まで繋いで行く。繋いで行くと、それはそのまま人間の形である。そして、人間を支えていた形でもある。人間のなかにあって、人間そのものを支えるものは、その人間の真実である。その真実を三井は「ひい ふう みい」と数えあげながらつないでゆく。
そこに、数えられないもの、三井の意識でつなぎとめることのできなかったものが唐突にあらわれてくる。「煙っている」もの。「花がもえたあと」。
ああ、美しい。
「花」は「遺骨」にとって「他者」である。三井にとっても「他者」である。「意味」がない。「意味」がないけれど、それが存在することで、繋いできたものの「意味」が結晶するのである。世界が求心・遠心の形で結晶し、きゅーっと小さくなると同時にビッグバンのように宇宙全体の広がりを獲得する。
ほんとうに美しい。
花のもえたあとは遺骨のように「真実」ではない。しかし、それは死んでしまった人間の「真実」ではないということであって、どんな世界にとっても「真実」ではないということにはならない。花を「真実」とする世界もどこかにある。花が骨のようにまっすぐに世界の中心に存在し、世界を支えているということもあり得る。
そういう世界と、三井は、突然出会うのである。
その瞬間、三井は思い出すのだ。
まっしろな遺骨になってしまった「あなた」。その「あなた」のまっしろな、まっすぐな骨。そこには、花もたしかにいっしょに存在していたのだと。
「けれど」。「返事をしない」という形の「返事」があったのだ。そこには「あなた」の「花」があったのだ。まっしろな骨を見ながら、骨をつつんでいたすべてのもの、肉だけではなく、こころをも三井は、いま、見ている。
頭から足の先まで意識をつないでゆく。その意識の先に、肉があり、肌があり、そしてたとえば花を愛するこころがある。そのこころは、骨と肉(皮)の間にあるのか、骨のさらに内部にあるのか、あるいは消えてしまった肉体の、その外部にあるのか。そういう構造は分からないけれど、たしかに存在して、世界のつながりを、見えない形で完成させている。
その余韻のようなものが煙っている。
そのすべてを三井は、ことばで、しずかに拾い、静かに詩の壺におさめる。抱きしめる。美しく、艶っぽい。と書くと不謹慎かもしれないけれど、艶っぽい。いいなあ、たまらない美しさだなあ、と書かずにはいられない。
「まっしろ」は美しい。
すっぱだか
火屋(ひや)の寝台の上で
まっすぐに寝て
まっしろな骨はそのままで
頭蓋骨の次はのど のどの次は胸 手指の関節はひい ふう みい よう いつつ
並んで 足のさきまでまっすぐにのびている
わずかに煙っているのは
花
花がもえたあとですと 火屋の男が教えている
ああ
すっぱだか
まっしろ
言い足すことはなにもない
これが返事だと言っている
わたしがいつもあれこれ言ってあれこれ聞いて
ねえ もしかしたらなどと空を見上げて
口説いていた
ずっと返事をしてくれなかった
けれど
とうとう
とつときの返事をしてくれた
まっすぐに寝て
まっしろな骨
ところどころ煙っている。
何も言うことはない。「とつとき」(「とっておきの」だろうと思って私は読んだのだが)の詩である。こんなふうに愛するひとに受け入れられるなら、死んで遺骨になるのもいいものである。遺骨になって、愛するひとに、自分の骨を「ひい ふう みい」と数えてもらいたい気持ちにさえなる。
すべての行が好きだが、3連目が特に好きである。「頭蓋骨」から「足のさき」までていねいにつないでいる。つなぐことが三井のことば、三井の思想の基本なのだと思う。
「五七(ごひち)」の書き出しの3連。
踏んでも踏んでも
追っても追っても 繋いでも繋いでも
とうとう
そらの雲みたいだとした 分からない
踏んでも踏んでも 跳んだような気がしない頼りなさ
それでも
繋ぐことは生きていることだ
数珠を繋ぐように
ひとつ
ふたつ
みつ……
草叢で
虫が鳴いている
チィッ
繋ぐ、繋ぐ、繋いで世界をつむぎだす。なんとか完成させる。そのとき、その繋いだ世界からはみだして、何かが存在を主張する。「五七」では、虫。草叢で鳴いている。そういうものに出会って、つまり、自分で繋いだものではないものにふいに出会って、世界が結晶する。他者(自分が繋いでいるものいがいのもの)が、ふいにあらわれて、「一期一会」の世界が結晶する。
それが美しい。その瞬間の、世界の広がりが美しい。
「まっしろ」でも同じことが起きる。遺骨。その白い骨を繋いで行く。頭から足の先まで繋いで行く。繋いで行くと、それはそのまま人間の形である。そして、人間を支えていた形でもある。人間のなかにあって、人間そのものを支えるものは、その人間の真実である。その真実を三井は「ひい ふう みい」と数えあげながらつないでゆく。
そこに、数えられないもの、三井の意識でつなぎとめることのできなかったものが唐突にあらわれてくる。「煙っている」もの。「花がもえたあと」。
ああ、美しい。
「花」は「遺骨」にとって「他者」である。三井にとっても「他者」である。「意味」がない。「意味」がないけれど、それが存在することで、繋いできたものの「意味」が結晶するのである。世界が求心・遠心の形で結晶し、きゅーっと小さくなると同時にビッグバンのように宇宙全体の広がりを獲得する。
ほんとうに美しい。
花のもえたあとは遺骨のように「真実」ではない。しかし、それは死んでしまった人間の「真実」ではないということであって、どんな世界にとっても「真実」ではないということにはならない。花を「真実」とする世界もどこかにある。花が骨のようにまっすぐに世界の中心に存在し、世界を支えているということもあり得る。
そういう世界と、三井は、突然出会うのである。
その瞬間、三井は思い出すのだ。
まっしろな遺骨になってしまった「あなた」。その「あなた」のまっしろな、まっすぐな骨。そこには、花もたしかにいっしょに存在していたのだと。
ねえ もしかしたらなどと空を見上げて
口説いていた
ずっと返事をしてくれなかった
けれど
「けれど」。「返事をしない」という形の「返事」があったのだ。そこには「あなた」の「花」があったのだ。まっしろな骨を見ながら、骨をつつんでいたすべてのもの、肉だけではなく、こころをも三井は、いま、見ている。
頭から足の先まで意識をつないでゆく。その意識の先に、肉があり、肌があり、そしてたとえば花を愛するこころがある。そのこころは、骨と肉(皮)の間にあるのか、骨のさらに内部にあるのか、あるいは消えてしまった肉体の、その外部にあるのか。そういう構造は分からないけれど、たしかに存在して、世界のつながりを、見えない形で完成させている。
その余韻のようなものが煙っている。
そのすべてを三井は、ことばで、しずかに拾い、静かに詩の壺におさめる。抱きしめる。美しく、艶っぽい。と書くと不謹慎かもしれないけれど、艶っぽい。いいなあ、たまらない美しさだなあ、と書かずにはいられない。
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