三井葉子『花』(8)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
きのう「比喩」について書いたが、三井には「比喩」を題材にした詩がある。「自伝・喩」。
「喩」は「変化」か「進化」か。「変化」と「進化」に共通することばは「化」、「ばける」である。それは別のことばで言えば「なる」でもある。自分ではなく、自分以外のものに「なる」。そして、この作品には、その「なる」が「自己」と関係づける形で、しっかりと書かれている。
「なる」と「自己」。しかもその「自己」は「消滅」と硬く結びついて「自己消滅」というひとつのことばになっている。「自己消滅」して、つまり、いま、ここにある「自己」を消し去って、何かに「なる」。そういうことが、「喩」のなかで起きている。
「鴨の子」と言われたとき、そしてそれを信じたとき、三井はそれまでの三井ではない。何かが別のものになっている。それが「変化」か「進化」かは、人によって判断がわかれるだろう。そういう判断がわかれるものはどうでもいい(ともいえないだろうけれど、私はいったん無視する)。判断がわかれるだろうけれど、そこには「わたし」が「わたし以外のもの」に「なる」という運動があることだけは、共通認識として持ちうる。そういう「共通認識」をもとに、私は考えたいのである。
この「なる」という運動のなかで、とても重要なのは、同じ行にある「天地等価にすることができる」ということばだ。
「なる」という運動の最中は、それまでの判断基準が成り立たない。それまで「固定」されていたものがばらばらになる。どれが重要で、どれが重要でないかは、「なる」という運動のなかでは消えてしまう。何が重要かは、常に「自己」にとっての問題だから、「自己消滅」すれば、重要さを決める基準も消えてしまうのは、当然の「数学」である。
この「天地等価」の状態、「天」も「地」も等しい、という状態を、私がこれまで三井の作品について説明するときつかってきたことばで言いなおせば、「混沌」である。
「混沌」のなかでの「生成」。
そういうことが「喩」の瞬間に、起きている。
「喩」はそれまでの判断基準の解体である。揺り動かしである。判断基準がゆれるということは、「自己」がゆれる、「自己」が消えてしまう恐れがあるということである。その恐れに対して、恐れて身を引くのではなく、恐れの中に飛び込んでゆく。飛び込んで行って、自己が自己でなくなってもかまわないと決めて、「喩」を生きる。「喩」として生成する。再生する。生まれ変わる。そうすると、世界そのものが変わってしまうのだ。
いままで見えていた世界が、まったく新しく見える。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」。
それは世界の「再構築」である。
こうしたことを、三井はもちろん「再構築」などというめんどうなことばでは書いていない。
「ほしかった」。何かを欲する。何かを手に入れることは、「自己」がその何かによっていままでの「自己」を超越できるからである。(と、少しめんどうなことばで書いておく。)この「自己超越」を「ほしい」という簡単なことば、日常のことばでまるづかみにしてしまうところが三井のすごいところである。
「喩」には「ほしい」に通じる思いがあるのだ。自己にはない何かを「ほしい」と思う気持ちが人間を突き動かす。いまのままでは手に入らないものを「喩」になることによって手に入れるのだ。「ほしい」と「なる」は重なり合って、世界そのものをも変えていく。
「自伝」ということばを信じれば、三井は、そんなふうにして三井の世界をつくってきたのである。ことばをつかって、常に自己解体(自己消滅)し、「混沌」(天地等価の状態)に身をくぐらせ、そしてそのつど、何かに「なる」、何かに「再生する」。そうすることによって世界を「生成」しなおす。世界を「再構築」する。
三井は、そういう詩人である。
いや、それ以上の詩人である。
私は、どこかから借りてきたような「再構築」だの「混沌」だの「生成」だのという、めんどうくさいことばをつかってしか感想を書けないが、三井はそういう借り物のことばをつかわない。あくまでも三井の生活している世界のことばで語りきってしまう。
私は、三井の「喩」の意識と、その意味について、めんどうくさいことを書いたけれど、そういうめんどうくさいことよりも、もっと感心したことがある。
この口語のリズム。「喩」は私の発音(口語)では「ユ」だが、三井の関西弁なら「ユウ」なのである。(私は三井の話すことばを聞いたことがないので、想像で書いている。間違っているかもしれないが。)関西弁は1音節のことばを、母音を伸ばす(重ねる)形で2音節にする。その「口語」がそのまま文字にすることで、「ユ」と書いたとき(発音したとき)には触れ得ない世界をつかみとる。
「喩」は「ゆうゆう」。「ゆうゆう」は「悠々」。ゆったりしている。広々としている。「自己解体(自己消滅)」→「混沌」→「生成(再生)」→「再構築」などという固苦しい世界ではないのだ。ゆったりと、のんびりと、いつも話している日常と地続きなのである。「おまえは鴨の子のようだねえ」ということば--それは日常なのである。そういうことばをそのまましっかり受け止めて、そのことばからずれずにことばをつづける。そこに三井のほんとうの力がある。ことばの力がある。これはほんとうにすごいことである。
最後の連。
この連に、ふいに「鴨の子」の「鴨」が「かも」になって甦り、笑い話(冗談)のようにして作品が終わるのも楽しい。「自己消滅」だの「再構築」なんてことばでガチガチになると、いやだよねえ。大阪の漫才(私は実際には見たことはないのだが)のように、さらっと「おち」をつけて、さっと引き上げる。
いいなあ、これ。
私はたぶん、ごちゃごちゃややこしいことを書かずに、「かもは鴨の子のカモかよ」と突っ込むべきだったんだろうなあ。それだけで、この詩の魅力はより輝いたんだろうなあ、と思う。ごめんね。せっかくの話芸をぶち壊しにしちゃって、と反省するしかない。
きのう「比喩」について書いたが、三井には「比喩」を題材にした詩がある。「自伝・喩」。
ある 晴れた日
父はむすめに おや おまえは鴨の子のようだねえと言った
それで わたしは
その日から鴨の子になった
ある日 わたしは
荒海や佐渡に横たふ天の川というハイクに出会った
え
どうして?
陸に川が横たふの? 陸が海に横たわっているのではないかと思ったが
鴨の子にさえなったわたしを思い出して
あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った
荒海にさえなれば天地等価にすることができるあらあらしい自己消滅の
あらうみの
しぶき
わたしの父もいつかは鴨になりたかったのだ
ただおじさんと違うのは父がむすめを泳がせたことだ
喩
ユウ ユウ
ララ ラ ユウユウ喩
わたしは水掻きで 水掻きながら
喩
って
いったいなんだろうと思う
わたしを鴨の子にした
喩
って
もしかして
変化?
進化
かも
よ。
「喩」は「変化」か「進化」か。「変化」と「進化」に共通することばは「化」、「ばける」である。それは別のことばで言えば「なる」でもある。自分ではなく、自分以外のものに「なる」。そして、この作品には、その「なる」が「自己」と関係づける形で、しっかりと書かれている。
荒海にさえ「なれ」ば天地等価にすることができるあらあらしい「自己」消滅の
「なる」と「自己」。しかもその「自己」は「消滅」と硬く結びついて「自己消滅」というひとつのことばになっている。「自己消滅」して、つまり、いま、ここにある「自己」を消し去って、何かに「なる」。そういうことが、「喩」のなかで起きている。
「鴨の子」と言われたとき、そしてそれを信じたとき、三井はそれまでの三井ではない。何かが別のものになっている。それが「変化」か「進化」かは、人によって判断がわかれるだろう。そういう判断がわかれるものはどうでもいい(ともいえないだろうけれど、私はいったん無視する)。判断がわかれるだろうけれど、そこには「わたし」が「わたし以外のもの」に「なる」という運動があることだけは、共通認識として持ちうる。そういう「共通認識」をもとに、私は考えたいのである。
この「なる」という運動のなかで、とても重要なのは、同じ行にある「天地等価にすることができる」ということばだ。
「なる」という運動の最中は、それまでの判断基準が成り立たない。それまで「固定」されていたものがばらばらになる。どれが重要で、どれが重要でないかは、「なる」という運動のなかでは消えてしまう。何が重要かは、常に「自己」にとっての問題だから、「自己消滅」すれば、重要さを決める基準も消えてしまうのは、当然の「数学」である。
この「天地等価」の状態、「天」も「地」も等しい、という状態を、私がこれまで三井の作品について説明するときつかってきたことばで言いなおせば、「混沌」である。
「混沌」のなかでの「生成」。
そういうことが「喩」の瞬間に、起きている。
「喩」はそれまでの判断基準の解体である。揺り動かしである。判断基準がゆれるということは、「自己」がゆれる、「自己」が消えてしまう恐れがあるということである。その恐れに対して、恐れて身を引くのではなく、恐れの中に飛び込んでゆく。飛び込んで行って、自己が自己でなくなってもかまわないと決めて、「喩」を生きる。「喩」として生成する。再生する。生まれ変わる。そうすると、世界そのものが変わってしまうのだ。
いままで見えていた世界が、まったく新しく見える。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」。
それは世界の「再構築」である。
こうしたことを、三井はもちろん「再構築」などというめんどうなことばでは書いていない。
あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った
「ほしかった」。何かを欲する。何かを手に入れることは、「自己」がその何かによっていままでの「自己」を超越できるからである。(と、少しめんどうなことばで書いておく。)この「自己超越」を「ほしい」という簡単なことば、日常のことばでまるづかみにしてしまうところが三井のすごいところである。
「喩」には「ほしい」に通じる思いがあるのだ。自己にはない何かを「ほしい」と思う気持ちが人間を突き動かす。いまのままでは手に入らないものを「喩」になることによって手に入れるのだ。「ほしい」と「なる」は重なり合って、世界そのものをも変えていく。
「自伝」ということばを信じれば、三井は、そんなふうにして三井の世界をつくってきたのである。ことばをつかって、常に自己解体(自己消滅)し、「混沌」(天地等価の状態)に身をくぐらせ、そしてそのつど、何かに「なる」、何かに「再生する」。そうすることによって世界を「生成」しなおす。世界を「再構築」する。
三井は、そういう詩人である。
いや、それ以上の詩人である。
私は、どこかから借りてきたような「再構築」だの「混沌」だの「生成」だのという、めんどうくさいことばをつかってしか感想を書けないが、三井はそういう借り物のことばをつかわない。あくまでも三井の生活している世界のことばで語りきってしまう。
私は、三井の「喩」の意識と、その意味について、めんどうくさいことを書いたけれど、そういうめんどうくさいことよりも、もっと感心したことがある。
喩
ユウ ユウ
ララ ラ ユウユウ喩
この口語のリズム。「喩」は私の発音(口語)では「ユ」だが、三井の関西弁なら「ユウ」なのである。(私は三井の話すことばを聞いたことがないので、想像で書いている。間違っているかもしれないが。)関西弁は1音節のことばを、母音を伸ばす(重ねる)形で2音節にする。その「口語」がそのまま文字にすることで、「ユ」と書いたとき(発音したとき)には触れ得ない世界をつかみとる。
「喩」は「ゆうゆう」。「ゆうゆう」は「悠々」。ゆったりしている。広々としている。「自己解体(自己消滅)」→「混沌」→「生成(再生)」→「再構築」などという固苦しい世界ではないのだ。ゆったりと、のんびりと、いつも話している日常と地続きなのである。「おまえは鴨の子のようだねえ」ということば--それは日常なのである。そういうことばをそのまましっかり受け止めて、そのことばからずれずにことばをつづける。そこに三井のほんとうの力がある。ことばの力がある。これはほんとうにすごいことである。
最後の連。
もしかして
変化?
進化
かも
よ。
この連に、ふいに「鴨の子」の「鴨」が「かも」になって甦り、笑い話(冗談)のようにして作品が終わるのも楽しい。「自己消滅」だの「再構築」なんてことばでガチガチになると、いやだよねえ。大阪の漫才(私は実際には見たことはないのだが)のように、さらっと「おち」をつけて、さっと引き上げる。
いいなあ、これ。
私はたぶん、ごちゃごちゃややこしいことを書かずに、「かもは鴨の子のカモかよ」と突っ込むべきだったんだろうなあ。それだけで、この詩の魅力はより輝いたんだろうなあ、と思う。ごめんね。せっかくの話芸をぶち壊しにしちゃって、と反省するしかない。
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