牟礼慶子「辛夷の森へ」(「現代詩手帖」2008年06月号)
辛夷の花。辛夷の木。そして「あなた」。あなたは、いま、ここにいない。いま、ここに、「わたし」と時間を共有しているのは辛夷の木である。愛の記憶である。
2連目の書き出しの2行。
ここにこの詩の美しさのすべてがある。「わけ」を「聞かない」。聞かないことでゆったりとした「こころ」を漂わせる。「こころ」がいつでも動けるようにしておく。聞いてしまうと、「こころ」はその「わけ」にしばられてしまう。
「正確」であることよりも、あいまいにしておく。
なぜ、あいまいにしておくか、といえば、それは、「あなた」へ近づくためである。「わけ」でぴったりと密着するのではなく、わからない「わけ」を間に置くことで、その「間」のなかを少しずつ動いてゆく。
その接近。
その「間」。
そのとき、いま、ここにいない「あなた」が存在しはじめる。
愛とは、いつでも「あなた」に近づいてゆく、その近づくという行為のなかにある。肉体そのものが近づく。「思う」という「こころ」が近づく。そして、その「思う」にはいくつもの形がある。「間」があるがゆえに、「こころ」はある意味で乱れるのだけれど、その揺らぎのなかに「わたし」のほんとうの姿が浮かんでくる。
どんなふうにして「あなた」に近づくか。近づき方(近づく方法)が「わたし」(牟礼慶子)の生き方(思想)である。
「呼ぶ」。二度出てくるこのことば。「記憶に呼ぶ」。そのために「名を」「呼ぶ」。「呼ぶ」ことが近づくということなのだ。「呼ぶ」のは「声」をだすこと。「呼ぶ」のは「ことば」を発すること。「ことば」にすることが「呼ぶ」ことなのだ。
あらゆることばが「呼ぶ」につながる。
「呼ぶ」ということばは、普通は、遠くにいる人をこちらに来させる方法だが、牟礼は、逆に使っている。独自の「意味」で使っている。「呼ぶ」とは、対象をはっきり意識し、そこへ「こころ」を向かわせるために「呼ぶ」。集中するために「呼ぶ」。「わたし」の決意のために「呼ぶ」。
「呼ぶ」のは、「あなた」をこちらへ来させるためではない。「わたし」が「あなた」の方へ行くためなのだ。
辛夷がなぜ好きなのか、「わたし」は「あなた」に聞かなかった。「あなた」が「わたし」のところへやってきて答えを告げることよりも、「わたし」が「あなた」の方へ近づいて行って、ことえを探したいからである。いつでも牟礼は「近づく」人間でいたいのだ。近づきたいのだ。自分の方から。行きたいのだ、自分を出て、相手の方へ。
「わたし」を出て、「わたし」を脱ぎ捨てて、つまりは「わたし」がどうなってしまうかなど気にしないで、「あなた」の方へ行く。「わたし」がどうなってしまってもかまわない、そういう覚悟が愛なのだ。
究極の愛が、ここにある。
ここに書かれている「風」は、先に私が「間」について触れたときの「こころ」である。「間」のなかを動いている「こころ」の揺らぎ。それが風だ。「わたし」は「わたし」を逸脱・超越し、「風」になる。この「風」は単なる比喩ではないのだ。
牟礼の「こころ」は「あなた」を、「あなたが好きだった木の名を」呼ぶことで、木に触れる風になる。空高く伸びる枝に触れる風になる。そして、「あなたの眠る」森へまではるばると渡って行く。
愛は、こんなふうにして祈りに高まっていく。ほんとうに美しい詩だ。
辛夷の花。辛夷の木。そして「あなた」。あなたは、いま、ここにいない。いま、ここに、「わたし」と時間を共有しているのは辛夷の木である。愛の記憶である。
あなたが辛夷に魅かれるわけを
なぜかと聞いたことはありませんが
2連目の書き出しの2行。
ここにこの詩の美しさのすべてがある。「わけ」を「聞かない」。聞かないことでゆったりとした「こころ」を漂わせる。「こころ」がいつでも動けるようにしておく。聞いてしまうと、「こころ」はその「わけ」にしばられてしまう。
「正確」であることよりも、あいまいにしておく。
なぜ、あいまいにしておくか、といえば、それは、「あなた」へ近づくためである。「わけ」でぴったりと密着するのではなく、わからない「わけ」を間に置くことで、その「間」のなかを少しずつ動いてゆく。
その接近。
その「間」。
そのとき、いま、ここにいない「あなた」が存在しはじめる。
愛とは、いつでも「あなた」に近づいてゆく、その近づくという行為のなかにある。肉体そのものが近づく。「思う」という「こころ」が近づく。そして、その「思う」にはいくつもの形がある。「間」があるがゆえに、「こころ」はある意味で乱れるのだけれど、その揺らぎのなかに「わたし」のほんとうの姿が浮かんでくる。
どんなふうにして「あなた」に近づくか。近づき方(近づく方法)が「わたし」(牟礼慶子)の生き方(思想)である。
二人で住んでいた
どの庭を記憶に呼び返しても
そこにはあなたは立っていません
あなたが見えない 前に住んでいた庭の
あなたか好きだった木の名を
一本ずつ呼んでいます
「呼ぶ」。二度出てくるこのことば。「記憶に呼ぶ」。そのために「名を」「呼ぶ」。「呼ぶ」ことが近づくということなのだ。「呼ぶ」のは「声」をだすこと。「呼ぶ」のは「ことば」を発すること。「ことば」にすることが「呼ぶ」ことなのだ。
あらゆることばが「呼ぶ」につながる。
「呼ぶ」ということばは、普通は、遠くにいる人をこちらに来させる方法だが、牟礼は、逆に使っている。独自の「意味」で使っている。「呼ぶ」とは、対象をはっきり意識し、そこへ「こころ」を向かわせるために「呼ぶ」。集中するために「呼ぶ」。「わたし」の決意のために「呼ぶ」。
「呼ぶ」のは、「あなた」をこちらへ来させるためではない。「わたし」が「あなた」の方へ行くためなのだ。
辛夷がなぜ好きなのか、「わたし」は「あなた」に聞かなかった。「あなた」が「わたし」のところへやってきて答えを告げることよりも、「わたし」が「あなた」の方へ近づいて行って、ことえを探したいからである。いつでも牟礼は「近づく」人間でいたいのだ。近づきたいのだ。自分の方から。行きたいのだ、自分を出て、相手の方へ。
「わたし」を出て、「わたし」を脱ぎ捨てて、つまりは「わたし」がどうなってしまうかなど気にしないで、「あなた」の方へ行く。「わたし」がどうなってしまってもかまわない、そういう覚悟が愛なのだ。
究極の愛が、ここにある。
夕暮れの仕事は
日の名残りが消えるまでに
今年になってから高く伸びた梢を
もっと高い空へ送り届けること
わたしの仕事は
ざわめく風の声を
あなたが眠る辛夷の森へ帰すこと
わたしはもう
夕焼けのように賑やかに燃えたたない
波うちぎわの波のように
音をたてて歌えない
わたしが願うのは
一日が閉じる前に 風の声をなだめること
森の奥で待っている
あなたの夢と結ばれること
ここに書かれている「風」は、先に私が「間」について触れたときの「こころ」である。「間」のなかを動いている「こころ」の揺らぎ。それが風だ。「わたし」は「わたし」を逸脱・超越し、「風」になる。この「風」は単なる比喩ではないのだ。
牟礼の「こころ」は「あなた」を、「あなたが好きだった木の名を」呼ぶことで、木に触れる風になる。空高く伸びる枝に触れる風になる。そして、「あなたの眠る」森へまではるばると渡って行く。
愛は、こんなふうにして祈りに高まっていく。ほんとうに美しい詩だ。
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