斎藤健一「生活と病者」、有田忠郎「捧げる詩」(「乾河」52、2008年06月01日発行)
斎藤健一「生活と病者」のことばにはむだがない。切り詰められている。切り詰められた精神の美しさがある。
「生活と病病」の全行。
「天井が横」とは、斎藤が横向きに固定されてベッドにいるということだろうか。ともかく「ここは病室なのだ。」というとおり、病室にいる。そして、ことばを動かしている。そのことばの動きのなかで、私は「長身の看護師が廊下を急ぐ。」の「長身」に詩を感じた。「長身」に斎藤の思想を感じた。
*
この詩には対立の要素がある。対極にあるものが向き合うことでつくりだす緊張感がある。
書き出しの「雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。」のなかにある「仄暗い」と「光」。「暗い」と「光」はほんとうは反対のものである。それが「仄」という文字のなかで硬く結びつき、いままで意識されなかった細部へと精神を誘う。読者の精神を緊張させる。
しかし、この緊張を、斎藤は「錯覚である。」と即座に否定する。そして「ここは病室である。」とつづける。この「ここは病室である。」という「現実」の描写を対比することで、「錯覚」とは、斎藤の意識のなかにのみあらわれたことばを指していることがわかる。
「仄/暗い/光」。そのことばの結びつき、ことばが結びつくことで姿をあらわす世界。それは、まず斎藤にやってきた。斎藤がことばにしないかぎり、存在しない。「病室」は斎藤が意識しなくても存在する。
だが、ほんとうだろうか。斎藤が意識しなくても病室はほんとうに存在するだろうか。それは、よくわからない。「錯覚」というのはことばのなかにしか存在しないことはわかるが、病室が意識しなくても存在するかどうかは、わからない。病室だって、意識しないことには、そこには存在しないかもしれない。ことばにしたから、いま、ここに、病室が存在しているのだとしたら、それは「仄/暗い/光」と同じなのではないだろうか。
そういう意識の揺らぎを引き継ぐようにして、「広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。」ということばが登場する。
この1行の、ことばの揺らぎは不思議である。ことばが緊張を求めてさまよっている。この行のなかにある緊張は「広くもなく」ということばの「なく」、非定型のなかにある。「広くもない」硝子戸がはまっている部屋は、実は硝子戸よりは「広い」。「広くもない」と「広い」が向き合っている。
こうした現実の描写、窓が部屋にはまっているという描写は、事実そのままである。硝子戸が部屋にはまっているというのは、何の矛盾もない事実である。しかし、だからこそ、それは「錯覚」のようなものである。「無意味」である。言わなくてもいいことをわざわざ言うというとき、そこには言わなければならないと信じている「何か」が潜んでいる。「錯覚」のようなものが潜んでいる。そして、何かを探しているのだ。ことばになりきれない何かを。
斎藤の意識のなかに、いままでは存在しなかった何かが忍び込んでいる。そして、それが姿をあらわそうとして、現実を少しずつ歪めている。歪めているという言い方は、よくないかもしれない。現実を、現実のなかの何か、精神とはぴったり重なり合わないものをそぎ落としている。そぎ落としながら、精神と世界が重なるように仕向けている。「錯覚」を、「錯覚」というより、純粋な「精神」のようなものに仕立てようとしている。
そういう精神の動きが「長身」のなかに結晶している。「長身」という「錯覚」のなかに、斎藤の精神が結晶している。
私は斎藤を知らないが、おそらく「長身」なのだろう。そして「長身」であるだけではなく、細い体であるかもしれない。
看護師は病人ではない。つまり、病室に固定されているわけではない。その看護師が廊下を歩いている。--歩けない(ベッドに固定されている)斎藤との、絶対的な対比がここにある。その看護師を、わざわざ「長身」と描写するとき、そこには斎藤自身の姿が投影されているのである。だから、私は、斎藤を「長身」だろうと想像したのである。そして、看護師を「長身」と描写することで、斎藤自身は、看護師になってしまう。完全に「錯覚」してしまう。斎藤はベッドに固定されているのに、意識は「長身の看護師」になって、薬や何かを運んでいるのだ。
だが、「仄/暗い/光」を「錯覚」と理解する斎藤は、その「長身の看護師」も「錯覚」だと知っている。ことばにすぎないと知っている。ことばとして存在するだけだと知っている。ことばに助けられ、ことばに裏切られる。
--そういう「苦悩」が最後の行に昇華されている。
斎藤は、どこまでもどこまでも、自己の精神を切り詰め、正確にしたいと願う詩人なのだろう。
**
有田忠郎「捧げる詩」は風倉匠に捧げられた詩である。途中にとても美しい連がある。
「蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう」に有田の祈りがある。そうか、有田は、風倉のパフォーマンスを蝶や鳥やカゲロウにこそ見せたかったのか。蝶や鳥やカゲロウこそが観客にふさわしいと考えていたのか。パフォーマンスを見ながら、有田は蝶や鳥やカゲロウになりたかったのか……と思った。
斎藤健一「生活と病者」のことばにはむだがない。切り詰められている。切り詰められた精神の美しさがある。
「生活と病病」の全行。
雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。しかし、錯覚である。ここは病室なのだ。広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。長身の看護師が廊下を急ぐ。滴を含んだ器具やビンは綿布を摩擦させるようなひびきをたてる。ベッドの上。横が天井。村山槐多詩集をぼくは引き裂いた。
「天井が横」とは、斎藤が横向きに固定されてベッドにいるということだろうか。ともかく「ここは病室なのだ。」というとおり、病室にいる。そして、ことばを動かしている。そのことばの動きのなかで、私は「長身の看護師が廊下を急ぐ。」の「長身」に詩を感じた。「長身」に斎藤の思想を感じた。
*
この詩には対立の要素がある。対極にあるものが向き合うことでつくりだす緊張感がある。
書き出しの「雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。」のなかにある「仄暗い」と「光」。「暗い」と「光」はほんとうは反対のものである。それが「仄」という文字のなかで硬く結びつき、いままで意識されなかった細部へと精神を誘う。読者の精神を緊張させる。
しかし、この緊張を、斎藤は「錯覚である。」と即座に否定する。そして「ここは病室である。」とつづける。この「ここは病室である。」という「現実」の描写を対比することで、「錯覚」とは、斎藤の意識のなかにのみあらわれたことばを指していることがわかる。
「仄/暗い/光」。そのことばの結びつき、ことばが結びつくことで姿をあらわす世界。それは、まず斎藤にやってきた。斎藤がことばにしないかぎり、存在しない。「病室」は斎藤が意識しなくても存在する。
だが、ほんとうだろうか。斎藤が意識しなくても病室はほんとうに存在するだろうか。それは、よくわからない。「錯覚」というのはことばのなかにしか存在しないことはわかるが、病室が意識しなくても存在するかどうかは、わからない。病室だって、意識しないことには、そこには存在しないかもしれない。ことばにしたから、いま、ここに、病室が存在しているのだとしたら、それは「仄/暗い/光」と同じなのではないだろうか。
そういう意識の揺らぎを引き継ぐようにして、「広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。」ということばが登場する。
この1行の、ことばの揺らぎは不思議である。ことばが緊張を求めてさまよっている。この行のなかにある緊張は「広くもなく」ということばの「なく」、非定型のなかにある。「広くもない」硝子戸がはまっている部屋は、実は硝子戸よりは「広い」。「広くもない」と「広い」が向き合っている。
こうした現実の描写、窓が部屋にはまっているという描写は、事実そのままである。硝子戸が部屋にはまっているというのは、何の矛盾もない事実である。しかし、だからこそ、それは「錯覚」のようなものである。「無意味」である。言わなくてもいいことをわざわざ言うというとき、そこには言わなければならないと信じている「何か」が潜んでいる。「錯覚」のようなものが潜んでいる。そして、何かを探しているのだ。ことばになりきれない何かを。
斎藤の意識のなかに、いままでは存在しなかった何かが忍び込んでいる。そして、それが姿をあらわそうとして、現実を少しずつ歪めている。歪めているという言い方は、よくないかもしれない。現実を、現実のなかの何か、精神とはぴったり重なり合わないものをそぎ落としている。そぎ落としながら、精神と世界が重なるように仕向けている。「錯覚」を、「錯覚」というより、純粋な「精神」のようなものに仕立てようとしている。
そういう精神の動きが「長身」のなかに結晶している。「長身」という「錯覚」のなかに、斎藤の精神が結晶している。
私は斎藤を知らないが、おそらく「長身」なのだろう。そして「長身」であるだけではなく、細い体であるかもしれない。
看護師は病人ではない。つまり、病室に固定されているわけではない。その看護師が廊下を歩いている。--歩けない(ベッドに固定されている)斎藤との、絶対的な対比がここにある。その看護師を、わざわざ「長身」と描写するとき、そこには斎藤自身の姿が投影されているのである。だから、私は、斎藤を「長身」だろうと想像したのである。そして、看護師を「長身」と描写することで、斎藤自身は、看護師になってしまう。完全に「錯覚」してしまう。斎藤はベッドに固定されているのに、意識は「長身の看護師」になって、薬や何かを運んでいるのだ。
だが、「仄/暗い/光」を「錯覚」と理解する斎藤は、その「長身の看護師」も「錯覚」だと知っている。ことばにすぎないと知っている。ことばとして存在するだけだと知っている。ことばに助けられ、ことばに裏切られる。
--そういう「苦悩」が最後の行に昇華されている。
斎藤は、どこまでもどこまでも、自己の精神を切り詰め、正確にしたいと願う詩人なのだろう。
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有田忠郎「捧げる詩」は風倉匠に捧げられた詩である。途中にとても美しい連がある。
身体を病んだ風の匠は
中指の爪ほどのデカルコマニーを
ユフインの天に近い
リリパット共和国に並べた
虫眼鏡をぶら下げて
見えるのは 遠い天体のうねる雲の渦
クレーターの多重リング
地球には存在しない青い大気の風だった
蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう
「蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう」に有田の祈りがある。そうか、有田は、風倉のパフォーマンスを蝶や鳥やカゲロウにこそ見せたかったのか。蝶や鳥やカゲロウこそが観客にふさわしいと考えていたのか。パフォーマンスを見ながら、有田は蝶や鳥やカゲロウになりたかったのか……と思った。
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