詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「生活と病者」、有田忠郎「捧げる詩」

2008-06-09 09:53:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 斎藤健一「生活と病者」、有田忠郎「捧げる詩」(「乾河」52、2008年06月01日発行)
 斎藤健一「生活と病者」のことばにはむだがない。切り詰められている。切り詰められた精神の美しさがある。
 「生活と病病」の全行。

雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。しかし、錯覚である。ここは病室なのだ。広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。長身の看護師が廊下を急ぐ。滴を含んだ器具やビンは綿布を摩擦させるようなひびきをたてる。ベッドの上。横が天井。村山槐多詩集をぼくは引き裂いた。

 「天井が横」とは、斎藤が横向きに固定されてベッドにいるということだろうか。ともかく「ここは病室なのだ。」というとおり、病室にいる。そして、ことばを動かしている。そのことばの動きのなかで、私は「長身の看護師が廊下を急ぐ。」の「長身」に詩を感じた。「長身」に斎藤の思想を感じた。



 この詩には対立の要素がある。対極にあるものが向き合うことでつくりだす緊張感がある。
 書き出しの「雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。」のなかにある「仄暗い」と「光」。「暗い」と「光」はほんとうは反対のものである。それが「仄」という文字のなかで硬く結びつき、いままで意識されなかった細部へと精神を誘う。読者の精神を緊張させる。
 しかし、この緊張を、斎藤は「錯覚である。」と即座に否定する。そして「ここは病室である。」とつづける。この「ここは病室である。」という「現実」の描写を対比することで、「錯覚」とは、斎藤の意識のなかにのみあらわれたことばを指していることがわかる。
 「仄/暗い/光」。そのことばの結びつき、ことばが結びつくことで姿をあらわす世界。それは、まず斎藤にやってきた。斎藤がことばにしないかぎり、存在しない。「病室」は斎藤が意識しなくても存在する。

 だが、ほんとうだろうか。斎藤が意識しなくても病室はほんとうに存在するだろうか。それは、よくわからない。「錯覚」というのはことばのなかにしか存在しないことはわかるが、病室が意識しなくても存在するかどうかは、わからない。病室だって、意識しないことには、そこには存在しないかもしれない。ことばにしたから、いま、ここに、病室が存在しているのだとしたら、それは「仄/暗い/光」と同じなのではないだろうか。

 そういう意識の揺らぎを引き継ぐようにして、「広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。」ということばが登場する。
 この1行の、ことばの揺らぎは不思議である。ことばが緊張を求めてさまよっている。この行のなかにある緊張は「広くもなく」ということばの「なく」、非定型のなかにある。「広くもない」硝子戸がはまっている部屋は、実は硝子戸よりは「広い」。「広くもない」と「広い」が向き合っている。
 こうした現実の描写、窓が部屋にはまっているという描写は、事実そのままである。硝子戸が部屋にはまっているというのは、何の矛盾もない事実である。しかし、だからこそ、それは「錯覚」のようなものである。「無意味」である。言わなくてもいいことをわざわざ言うというとき、そこには言わなければならないと信じている「何か」が潜んでいる。「錯覚」のようなものが潜んでいる。そして、何かを探しているのだ。ことばになりきれない何かを。
 斎藤の意識のなかに、いままでは存在しなかった何かが忍び込んでいる。そして、それが姿をあらわそうとして、現実を少しずつ歪めている。歪めているという言い方は、よくないかもしれない。現実を、現実のなかの何か、精神とはぴったり重なり合わないものをそぎ落としている。そぎ落としながら、精神と世界が重なるように仕向けている。「錯覚」を、「錯覚」というより、純粋な「精神」のようなものに仕立てようとしている。
 そういう精神の動きが「長身」のなかに結晶している。「長身」という「錯覚」のなかに、斎藤の精神が結晶している。
 私は斎藤を知らないが、おそらく「長身」なのだろう。そして「長身」であるだけではなく、細い体であるかもしれない。
 看護師は病人ではない。つまり、病室に固定されているわけではない。その看護師が廊下を歩いている。--歩けない(ベッドに固定されている)斎藤との、絶対的な対比がここにある。その看護師を、わざわざ「長身」と描写するとき、そこには斎藤自身の姿が投影されているのである。だから、私は、斎藤を「長身」だろうと想像したのである。そして、看護師を「長身」と描写することで、斎藤自身は、看護師になってしまう。完全に「錯覚」してしまう。斎藤はベッドに固定されているのに、意識は「長身の看護師」になって、薬や何かを運んでいるのだ。

 だが、「仄/暗い/光」を「錯覚」と理解する斎藤は、その「長身の看護師」も「錯覚」だと知っている。ことばにすぎないと知っている。ことばとして存在するだけだと知っている。ことばに助けられ、ことばに裏切られる。
 --そういう「苦悩」が最後の行に昇華されている。

 斎藤は、どこまでもどこまでも、自己の精神を切り詰め、正確にしたいと願う詩人なのだろう。

**

 有田忠郎「捧げる詩」は風倉匠に捧げられた詩である。途中にとても美しい連がある。

身体を病んだ風の匠は
中指の爪ほどのデカルコマニーを
ユフインの天に近い
リリパット共和国に並べた
虫眼鏡をぶら下げて
見えるのは 遠い天体のうねる雲の渦
クレーターの多重リング
地球には存在しない青い大気の風だった
蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう

 「蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう」に有田の祈りがある。そうか、有田は、風倉のパフォーマンスを蝶や鳥やカゲロウにこそ見せたかったのか。蝶や鳥やカゲロウこそが観客にふさわしいと考えていたのか。パフォーマンスを見ながら、有田は蝶や鳥やカゲロウになりたかったのか……と思った。




有田忠郎詩集 (日本現代詩文庫)
有田 忠郎
土曜美術社

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六月博多座大歌舞伎(夜の部)

2008-06-09 00:09:34 | その他(音楽、小説etc)
 「菅原伝授手習鑑」「達陀」「弁天娘女男白浪」。
 「達陀」は僧集慶が尾上菊五郎、青衣の女人が坂田藤十郎。踊りは一部に不満がある。たとえば、最初の場の、松明を持って石段を登る最後の男。彼だけが石段を踏みしめていない。ほかの役者は全員、松明を持って石段を登るときの慎重な足さばきをするが、最後の役者はただ登ってゆくだけである。しかし、とてもおもしろかった。
 おもしろい理由はいくつかある。そのひとつは、私はこの演目を知らないこと。昭和42年に尾上松緑が初演というから、新しい出し物なのだ。実際、見ていて、とても新しいと感じる。その「新しさ」が、おもしろさの最大の理由だ。
 チラシから内容を引用する。

 お水取りの儀式が始まり、僧集慶が過去帳を読み上げていると、青衣の女人が忽然と現れ、過去の恨み言を述べますが、集慶が青衣を投げつけ妄執を断ち切ると、女人は消え、集慶を中心に練行衆の行法が始まります。袈裟を絞り上げ、松明を振って、達陀の妙法が激しく舞われます。歌舞伎では珍しい勇壮な群舞が見物です。

 読経とダンス(と、思わず書きたくなる)の組み合わせが斬新で、まるで現代のダンスを見ている感じがする。ただし、歌舞伎の所作がモダンダンスとは違うので、ダンス(あるいは「舞踏」)を見るよりも、もっともっと「新しい」感じがする。見慣れていないものを見る衝撃に襲われる。
 実際、昭和42年が初演というから「現代」の歌舞伎なのだ。そして、歌舞伎とはダンスそのものなのだ。特に、群舞が、歌舞伎の動きを満載していて、とても愉快だ。舞台を踏みならす足の音がこころをわくわくさせる。
 火の粉が舞い散るなかでの群舞は壮観である。何人で演じるのが基本なのか知らないが、今回の舞台の人数よりももっと多い方がおもしろいかもしれない。
 ただし、菊五郎の舞いは、群舞をリードするという意味では、なんとなく力強さに欠ける。上半身と下半身が緊密に動きすぎる。しなやかすぎる。力のタメというのだろうか、無理な感じがしなくて、そこがおもしろくない。
 これは私だけの感覚かもしれないが、歌舞伎がおもしろいのは、動きに無理があるからだ。たとえば群舞のなかで、僧たちがとんぼを切る。着地のとき、右足は曲げているが左足は伸ばしている。片方の足を曲げ、片方を伸ばし、尻から着地する。そこには、体育の時間にやる前方宙返りにはない無理がある。無理があるから、そこに「美」がある。
 菊五郎の動きには、そういう「無理」がない。

 全体がダンスという印象があるなかで、藤十郎の舞いだけは異質である。それもおもしろい。女の執念、情念を舞うのだが、手の動きがとてもいい。手といっても、振りそでからのぞく手の甲から先、つまり指だ。指の動きが情念をあらわしている。それは自然な指ではなく、無理をしてつくりだした形なのだろうけれど、その無理のなかに「美」が結晶している。白塗りの指がライトをあびてゆっくり動くと、はかなさが、くやしさが、哀しみが、そこからあふれてくる。
 時間にすると藤十郎がでている時間は少ないのだが、群舞との対比が強烈なので、最後まで強い印象を残す。藤十郎の舞いと対抗するには菊五郎だけでは不十分で、群舞が必要なのだ、ということを実感(?)させられる。

 モダンダンスとの関係(?)でいえば、読経を音楽としてつかっている点のほかに、影を見せる点にも新しさを感じた。舞台の中央に薄膜があり、そこに僧たちの影が映る。そして、その影になった部分、薄膜が光を反射しない部分にだけ、薄膜の向こうの僧たちの動きが見える。不思議な視覚の試みをしている。それも楽しかった。



 「弁天娘」は弁天小僧が菊之助。南郷力丸が松緑。菊之助は菊五郎の美形をうまく引き継いでいるなあ、と感心した。(寺島しのぶ、との対比でのことであるけれど。)菊之助の声は、私は好きである。だが、松緑の声は物足りない。声そのものはなかなか魅力的だけれど、母音の感じが弱い。そのため、早口という印象が残る。長い声のなかで表情がかわるといいのになあ、と思う。


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