日々ノ十夢「溺れ眼」(「現代詩手帖」2008年06月号)
投稿欄「新人作品」で瀬尾育生が選んでいる。書き出しがとてもおもしろい。
繰り返しが多い。繰り返しだが、少しずつ違う。「いちだん にだん」が象徴的だが、その繰り返しには変化がある。差異がある。そして、ことばは、その差異を探して動いてゆく。
「くだり」と「くだる」は声の調子によって深まる差異であるかもしれない。「語り」がかかえこむ差異かもしれない。少なくとも、私は、文字ではなく、何らかの声を思い浮かべてしまう。声が聞こえる。
1行目の「静まった」の「音」とも深くでひびきあって、とても気持ちがいい。
そしてその「語り」の「声」(音)は「昼下がり」「いちだん にだん」「くだり くだる」にあわせて、しだいに下へ下へと「静」かに下りてゆく。暗みへおりてゆく。そういう印象がある。
「有り様」という一種の間を伸ばした感じ(「様子」とか「姿」とかいう3音のことばではなく、「くだり」「くだる」を超える4音が間を伸ばしている感じを引き出す)、次の行の「ようく」という、間延びを拡大するような意識の動かし方(声の動かし方)がそういう印象をさらに強くする。
一方、「見る」と「視る」。ここにある差異は、ことばを「書く」ことによってしか生まれない差異である。「視るほどに」。その、「ほどに」の間のばしの工夫を裏切るように、ここからことばが少し変質(?)する。「語り」(声)が「語り」のままでは持続できなくなってくる。性急になる。
もちろんこれを、聴覚と視覚を動員した感覚の深みへの探検と呼ぶこともできる。
たぶん日々ノは、そう主張するだろうと思う。
いったん視覚をくぐりぬけると、聴覚も変化して、
ここから、さらにすべてが変質する。「いちだん にだん」「くだりくだる」「ようく」の音の延長からゆけば「そろり そうろり」という感じがするのだが、「そろり ひたり」。「ひ」という音の冷たく、一瞬の光のようなものが、静かで暗い「声」を破壊する。
「嫉妬深い」というような、情念というよりは、概念が暴走する。すべてを破壊する。「嫉妬」を「嫉妬」ということばではなく、「いちだん にだん」というようなていねいさ(執念)とからめて持続すれば、そこから「嫉妬」そのものが見えてくるはずだけれど、性急に「嫉妬」ということばに、ことばの底をさらわれていく。
ここからどんなふうにして、ことばをもう一度立ち直らせてゆくか--そこにこそ、日々ノの作品の本質があるのかもしれない。
2連目。
1連目のリズムを回復しようとする「じわり じゅんわり」。間延び(間伸ばし、このことばは一瞬「魔の橋」と変換され、私は、あっと叫んでしまいそうになったのだが)を誘う「足の 爪先の 両脇あたりを 包み隠す上履きの 繊維を」という行。
悪戦苦闘という感じでことばが互いに戦いはじめる。協力しなくなる。
これはことばの乱れといえば乱れなのだが、それが不思議なことに1連目を、1連目の書き出しを引き立てる。
という「語り」の「音」、「耳」の奥に残るやわらかさをなつかしく感じさせる。
日々ノが、もう一度その「音」を回復させることができるのか、あるいはその「音」を完全に否定して、2連目以降の、ことばの格闘のなかで新しい感覚をつかみだすのか、この1篇からではなんとも判断できない。
わからないだけに、もっとほかの作品を読んでみたい、という気持ちにさせられる詩人である。
投稿欄「新人作品」で瀬尾育生が選んでいる。書き出しがとてもおもしろい。
深い翠に静まった昼下がりの階段を
いちだん にだん
くだりくだる有り様が
ようく見れば 視るほどに
君の黒髪のやうに感じたので
掃除当番の、こぼしたてのソレがこちらを目指して
そろり ひたり
近づいて来やるる一部始終に
ついいましがた記憶した 奥ゆかしい左眼
或いは、嫉妬深い右眼を
思い起こさずには居られなんだ。
繰り返しが多い。繰り返しだが、少しずつ違う。「いちだん にだん」が象徴的だが、その繰り返しには変化がある。差異がある。そして、ことばは、その差異を探して動いてゆく。
くだりくだる有り様が
ようく見れば 視るほどに
「くだり」と「くだる」は声の調子によって深まる差異であるかもしれない。「語り」がかかえこむ差異かもしれない。少なくとも、私は、文字ではなく、何らかの声を思い浮かべてしまう。声が聞こえる。
1行目の「静まった」の「音」とも深くでひびきあって、とても気持ちがいい。
そしてその「語り」の「声」(音)は「昼下がり」「いちだん にだん」「くだり くだる」にあわせて、しだいに下へ下へと「静」かに下りてゆく。暗みへおりてゆく。そういう印象がある。
「有り様」という一種の間を伸ばした感じ(「様子」とか「姿」とかいう3音のことばではなく、「くだり」「くだる」を超える4音が間を伸ばしている感じを引き出す)、次の行の「ようく」という、間延びを拡大するような意識の動かし方(声の動かし方)がそういう印象をさらに強くする。
一方、「見る」と「視る」。ここにある差異は、ことばを「書く」ことによってしか生まれない差異である。「視るほどに」。その、「ほどに」の間のばしの工夫を裏切るように、ここからことばが少し変質(?)する。「語り」(声)が「語り」のままでは持続できなくなってくる。性急になる。
もちろんこれを、聴覚と視覚を動員した感覚の深みへの探検と呼ぶこともできる。
たぶん日々ノは、そう主張するだろうと思う。
いったん視覚をくぐりぬけると、聴覚も変化して、
そろり ひたり
ここから、さらにすべてが変質する。「いちだん にだん」「くだりくだる」「ようく」の音の延長からゆけば「そろり そうろり」という感じがするのだが、「そろり ひたり」。「ひ」という音の冷たく、一瞬の光のようなものが、静かで暗い「声」を破壊する。
「嫉妬深い」というような、情念というよりは、概念が暴走する。すべてを破壊する。「嫉妬」を「嫉妬」ということばではなく、「いちだん にだん」というようなていねいさ(執念)とからめて持続すれば、そこから「嫉妬」そのものが見えてくるはずだけれど、性急に「嫉妬」ということばに、ことばの底をさらわれていく。
ここからどんなふうにして、ことばをもう一度立ち直らせてゆくか--そこにこそ、日々ノの作品の本質があるのかもしれない。
2連目。
じわり じゅんわり
足の 爪先の 両脇あたりを 包み隠す上履きの 繊維を
ごくごく滑らかな過程を経て 侵してゆくソレと
さっき この顔に付属した唇に重ねられた、君の 程よく湿り気を帯びた
唇(薄すぎず厚からずの無反発な君の唇)とが、
1連目のリズムを回復しようとする「じわり じゅんわり」。間延び(間伸ばし、このことばは一瞬「魔の橋」と変換され、私は、あっと叫んでしまいそうになったのだが)を誘う「足の 爪先の 両脇あたりを 包み隠す上履きの 繊維を」という行。
悪戦苦闘という感じでことばが互いに戦いはじめる。協力しなくなる。
これはことばの乱れといえば乱れなのだが、それが不思議なことに1連目を、1連目の書き出しを引き立てる。
深い翠に静まった昼下がりの階段を
いちだん にだん
くだりくだる有り様が
という「語り」の「音」、「耳」の奥に残るやわらかさをなつかしく感じさせる。
日々ノが、もう一度その「音」を回復させることができるのか、あるいはその「音」を完全に否定して、2連目以降の、ことばの格闘のなかで新しい感覚をつかみだすのか、この1篇からではなんとも判断できない。
わからないだけに、もっとほかの作品を読んでみたい、という気持ちにさせられる詩人である。
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