詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「母は」

2008-06-12 10:59:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「母は」(「ぶらんこのり」5、2008年06月10日発行)
 2か所、不思議なところがある。

右手の小指の骨を折ってから
午後はいつだって
腰掛けたまま眠っている
おやつが出ても目を開けない
おやつよ とゆさぶると
あなた たべなさい
と言ったきり 目も開けない
きっとかたつむりになりかけている
まるまった体は生家のへやに
うすく赤くまかれたまま
すっかり重くなっている
誰かが箱をかかえてやってきた
とびらを開けようとしているが
(母は)
鍵をかけてしまったので
開かない それでも
誰かが力いっぱいとびらに体をぶつけて
開けようとしている
(母は)
楽しみながらかたつむりになったのか
それとも悲しみながらなったのか
きょうも
またたくまに夜になって
私はひとりでしゃべっている

 途中に2回出てくる

(母は)

 という表記。なぜ括弧のなかに入っているのだろうか。括弧のなかに入っていなくて、そのまま、母は、と書かれているとどう違うのだろうか。
 この(母は)は、ほんとうはもう一か所ある。書き出しにはやはり(母は)が存在するのだが、タイトルに「母は」とあるので、そこでは省略されている。
 そして、その省略に気がつくと、(母は)という表記も見えてくる。なぜ、坂多が(母は)と書いたかがわかる。その(母は)はほんとうは省略すべき(母は)なのである。
 なぜ、省略すべきなのか。
 それは実在の「母」ではないからだ。母はたしかにそこにいる。たぶん、場所は病院である。施設である。そこが病院であるにもかかわらず、母は、そこにはいない。「生家」にいる。昔のまま、生家にいて、昔のまま、おやつが出ればそのおやつを娘である坂多に「あなた たべなさいよ」と母の口調で言うのだ。
 その母は、実在である。目の前に存在する。
 だからこそ、坂多は「省略」する。省略して、目の前いる母そのものではなく、その存在の内部にいる母を引き出そうとする。実在する母は、その姿、その行動しか見えない。目を閉じて、こころを閉ざしている。おやつが出たときは「あなた たべなさいよ」と突然母親に戻るけれど、その母親は「昔」の母親であって、今の母親ではない。坂多は、実在する母の肉体に、その行動に触れることはできるが、その肉体が隠している内部、こころには触れることができない。--いま、こうして病院で介護している瞬間、坂多は母の内部には触れてはいない。内部とは交流していない。
 だから、外部としての母を括弧のなかにいれてしまう。(母は)と省略してしまう。そして、その内部に、そのこころに触れようとする。
 (母は)につづくのは、坂多が、坂多のこころのなかに思い描いた母である。外部である母を(母は)と省略することで、坂多は、ちょくせつ母のこころに触れようとする。坂多のこころと母のこころを重ね合わせようとする。
 そのために(母は)とわざと書いているのである。
 外形としての母は省略している、と強調しているのである。

 なぜ、強調するのか。

 強調しないことには、母とふれあえないのだ。そういう遠いところに母はいる。目の前に母はいる。しかし、そのこころは遠いところにいる。その「遠さ」、その「距離」を省略するために、(母は)は目の前にいる母を省略し、こころのなかにいる母に触れるのだ。
 しかし、どんなに省略しても、かたつむりが殻にとじこもるように、母がこころをとごし、無言の肉体になっている「理由」がわからない。「感情」がわからない。こころがわからない。「楽しみ」ながらとじこもるようになったのか、「悲しみ」ながらとじこもるようになったのか。
 想像しても、想像しても、想像しても、わからない。

 そして、想像の果てに

きょうも
またたくまに夜になって
私はひとりでしゃべっている

 に、たどりついたとき、(母は)は突然、坂多そのものになる。
 坂多は(母は)と省略することで、母のこころに触れようとした。
 そういう省略と接触は、実は、「母性」そのものである。「母性」(母親は)いつでもこどもに対して(娘は)と省略して感じている。目の前にいる娘--その外形に、外にあらわれた行動の形に触れるのではなく、それを省略して、娘のこころに触れる。語らない悲しみ、楽しみ(ことばにしないで、ひそかに娘が胸にしまいこんでいる楽しみ、悲しみ)に触れようとする。そんなふうにして想像すること、思いめぐらすこと--それが娘を見守ることであり、それが母の愛なのだ。

 (母は)の省略のなかで、坂多は、娘でありながら母になる。母がかつて坂多を、(娘は)と省略することで抱きしめたように、(母は)は省略することで抱きしめる。抱きしめ、いったいになり、だれにも言わず、ただこころのなかで「ひとりでしゃべっている」。対話している。「ひとり」は、母と私が一体になった「母性」そのものの存在である。「母性」となって、対話しているのである。

 この不思議な母と娘の入れ替わり、そして一体となった対話--これは男性には書けない。性差別につながることになるかもしれないけれど、こうした一体感は、やはり胎内にいのちを10か月守りつづけた女性(一体でいのちを共有した体験のある女性)だからこそはじめて書くことができる世界だと思う。
 こういうことばに触れると、女性のことばは美しく、強いと、改めて思う。坂多のことばなのだけれど、坂多のことばは美しい、強い、ではなく、坂多の「枠」を超えて、女性のことばは美しく、強いと思う。


コメント
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