詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「まなざしのなかを チェーザレ・パヴェーゼの故郷ランゲ」

2008-06-10 12:18:47 | その他(音楽、小説etc)
 伊藤悠子「まなざしのなかを チェーザレ・パヴェーゼの故郷ランゲ」(「港のひと」5、2008年06月01日発行)
 パヴェーゼの故郷ランゲにある生家は展示館になっている。そこへ伊藤は日本語訳の本を持っていく。そのときのことを書いた散文である。不思議な美しさに満ちている。

 必要なページだけ破いて持ってきた時刻表をポケットに押し込んで歩きだした。時刻表はミラノに着いた翌日、ミラノ中央駅のキオスクで買ったものである。「時刻表(オラリオ)はありますか」と聞くと、黒い肌をした青年は「おはよう」と日本語で言って「オラリオ」と時刻表を差し出した。ふたつの「お」という音が美しく響いた。

 伊藤の本を生家へ持っていくという行為とは関係ないことなのだが、その無関係な部分に、ふっとあらわれる美しさ。それが、とてもいい。伊藤には目的があるが、その目的だけのために精神を縛りつけていない。ゆったりとときほぐしている。その、ゆったりした精神のなかへ入ってくるものをしっかり受け止めている。受け止めたものを、ていねいにことばにしている。
 この文章につづけて、伊藤は書いている。

頭韻の勉強をしているのかもしれない。

 このことばは、そのまま伊藤の姿勢(生き方、思想)をあらわしている。伊藤は、とても勉強家なのだろう。何かについて勉強する。精神を、その方向に向けてととのえる。ちょうど、伊藤がいま、パヴェーゼの家へ向かうように、何かに向けて精神をととのえる、ということを常にしているために、他人の行為のなかにも、そうした姿勢をくみ取るのだろう。
 こうした他人に対するひそかな共感、他人と自分を、そっと自分のなかで重ねるという姿勢は、どこからともなく滲み出るものかもしれない。だからこそ、伊藤が出会う人々は、みな、伊藤に対して親切である。こころを静かに開いて向き合っている。
 だれとの対話を取り上げてもいいが、そのひとつひとつが美しい。
 たとえば、

 遠い線路に列車がゆらゆらと定刻通りに現れた。切符を持っていないので、車内で車掌から買う。無人駅だから仕方がない。車掌は私の財布をちょっと覗くと、「小銭ばかりたまってしまったね。取り替えてあげよう」と言って立ち去り、すぐ戻ってきて、私にわかるようにゆっくり両替してくれた。

 「言って立ち去り、すぐ戻ってきて」の「すぐ」がとても美しい。車掌が戻ってくるまでの時間を「すぐ」と受け止める美しさ、車掌に対する信頼・感謝のようなものが車掌に伝わり、両替をするときの「ゆっくり」を引き出すのだろう。車掌の動きを描写しているだけなのだが、その描写の細部から、伊藤のこころの動きが、そっと見えてくる。
 こういう文章が、私は、とても好きである。

 詩集『道を 小道を』を読んだときの感動が甦ってくる。
 そこに書かれていることばは、何かを強引に主張しようとはしない。「わざと」がない。現代詩の詩は、その大半が「わざと」のなかにあるのだが、伊藤にはその「わざと」がない。「わざと」ではなく、ただ動いてゆく。伊藤が生きていることそのままに、ただ動いてゆく。パヴェーゼの故郷へゆく。そのために時刻表を買う。切符を買う。それは必要に迫られてしているだけのことである。「わざと」しているのではない。そして、その必要に迫られてしていることのまわりに、そっと身を寄り添えてくるものがある。たとえばキオスクの青年は「おはよう、オラリオ」と言い、車掌は「両替してあげよう」という。そういうものを、そういう出会い、一種の「一期一会」を伊藤はきちんと受け止めている。きちんと受け止めることで「一途な目的」をゆったりしたものに広げている。
 ひとりのパヴェーゼ愛好家が日本語の翻訳が生家の展示館にないからといって、わざわざ飛行機、列車を乗り継ぎ、しかも徒歩で届けに行くというのは、傍から見れば「熱狂」に属する行為である。それって、伊藤がしなければならない仕事? そうだとしても、郵便で送ったら? そういう疑問を、静かに消していく力が、伊藤の姿勢のなかにある。「しっかり」としか言いようのない何かがある。きちんと他人を受け止めるという姿勢が、伊藤のすべてを「しっかり」したものにするのだろう。

 「しっかり」とか「きちんと」とか「ゆったり」という感じ--これは、たぶん、私がいくらことばを重ねても伝わらないだろう。ひとりでも多くの読者に、実際に、伊藤の詩集を読んでもらうしかない。
 まだ読んでいないひとは、ぜひ読んでみてください。



 今回紹介したことと、少しずれることになるかもしれないが……。
 伊藤が「おはよう、オラリオ」について「頭韻の勉強をしているのかもしれない」と書いていることには、伊藤の姿勢がとても強く現れている。伊藤自身が頭韻を勉強しているらしいことは、それにつづく次の文章のなかにくっきりとは現れている。

よく使われる外国語の挨拶とキオスクに置いてあるものとで頭韻を踏むことが出来るのは、一体どれほどあるだろう。見当がつかない。ひとつも思い浮かばない。こまかな雨が降り始めた。藤の花が咲いている家がある。藤はイタリア語でグリーチネという。複数形はグリーチニ。グッド・アフターヌーン、グリーチニ。あまりきれいに響かない。

 すらすらと出てくる「頭韻」。それは伊藤の日頃の勉強をあらわしている。そういう勉強をしているから、キオスクの青年のことばに「頭韻」を感じるのだ。
 
 でも、「おはよう、オラリオ」のなかにあるのは、ほんとうに「頭韻」の音楽なのだろうか。私は、実は疑問に思っている。(疑問に思うからこそ、伊藤が「頭韻」を勉強しているのでは、と思ってしまうのである。「頭韻を勉強しているのかもしれない」という感想がとても印象的に浮かび上がってくるのである。)
 「おはよう、オラリオ」。このことばのなかには「お」の繰り返し、「お」と「あ」の組み合わせ。そして「い」と「お」の組み合わせが魅力的に重なり合っている。「OHAYO、ORARIO」。「OHAYO」のYはIでもある。(Yはギリシャ語のIである)したがって、「OHAYO、ORARIO」は「OHAIO、ORARIO」である。母音だけを引き出すと、ともにO・A・I・Oという動きになる。そしてラテン語圏ではHが無音であるというのも、この重なりをさらに強く印象づけるかもしれない。また、私の印象ではHとRはラテン語圏のなかでは発音が似ているかもしれない。(フランス語を私は思い浮かべているのだが。)

 脱線してしまったが、「おはよう、オラリオ」はほんとうに美しいことばの出会いだ。一度聞いたら忘れることの出来ない音楽だ。

*

伊藤の作品を読むなら、次の1冊。
2007年の、これしかないという1冊です。

道を小道を―詩集
伊藤 悠子
ふらんす堂

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