詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『花』(5)

2008-06-08 09:15:33 | 詩集
 三井葉子『花』(5)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 三井の詩を読んでいると、なんだか孫悟空になった気持ちになる。釈迦の掌の上を飛び回っている孫悟空の感じに。三井のことばは、ふところが深い。広い。どこまで行っても果てがない。そして、不思議な安心感がある。私のことばは、どこまで行っても三井にはたどりつけない。それでも、書かずにはいられない。書いていると、なんだか落ち着く。きっと、三井のふところの広さが、まだまだ書いても大丈夫だよ、と励ましてくれるのだ。どこまで書いても、何を書いても、三井からははみださない。三井の領分のなかで、私は、ああでもない、こうでもないと動いているだけなのだ。そして、そうやって動けることが、とても気持ちがいいのだ。

 と、いう次第で5回目の感想。(まだ、詩集のほんのはじめをうろうろしているだけだが。)

 「ココロ」が何度も出てくる。「ココロ」というのは、私が書く「こころ」とはずいぶん違う。「思い」とか「精神」とか「感情」とか「思想」というものとは、まったく違っている。
 たとえば、「田舎道」。

ココロがものを食べている
タヌキでもないし
サルでもないし
猫 なんかではないが手肢四本で
ココロはカスミを食べるのか
ホタルや羽虫や青虫
まで
食べているすそは水に漬かり青青と水草が流れているので
はなれて見ていると たなびいている
羽衣

食べ終わったココロはナプキンで
口を拭きながら
きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 「ココロ」は私には「思い」と「肉体」がいっしょになったものに見える。「思い」「精神」「感情」「思想」などといった、何か抽象的なもの、あるいは純粋(?)なものではなく、「肉体」にまみれて、不純(?)なもの、という印象がある。手で触ることができる「不透明なもの」を持っているような感じがする。そして、その「不透明なもの」が、なんといえばいいのだろう。純粋さがもっている「間違い」のようなものを吸収してくれる。受け止めてくれる。そういう感じがする。
 純粋さのなかには、まっすぐであることの、どうしようもない間違い(たぶん、他者を拒絶する、排除してしまう、という間違い)がある。不透明なものは、そういう間違いの刺みたいなものを包み込み、柔らかくする。
 この不透明さを、私は「肉体」と呼ぶのだが……。あるいは、「血」と呼んでもいいかもしれないが、それは「思い」や「感情」「思想」のように、それだけを分離して、純粋さを高めることができない。けれども、それは何かをつつみこむことができる。「肉体」が「思い」「感情」「精神」を内部につつみこむように。三井の「ココロ」は、そういう存在のように感じられる。

 別な角度から、私の感じていることを書いてみる。
 ここでは「きょうのホタルはおいしかった」と「ココロ」が言う。「美しかった」ではなく、「おいしかった」。
 「目」だけで味わっているのではない。舌で、鼻で、ホタルの光、飛翔を「見る」(視覚)だけではなく、それを視覚以外のものでとらえている。「目」だけでとらえると間違ってしまうような感覚、繊細で、鋭敏で、ひりひりしてしまうようなものが、(あるいは、新古今集の技巧のようなものが)、突出してくるのをつつみこみ、防いでいる。
 「肉体」がそこにある。
 何かを「見る」とき、視覚といっしょにある感覚が、視覚にまで侵入してきて、視覚の領域を汚していく(侵犯してゆく)。「おいしかった」と。「口を拭きながら」という、手の動きまで、そこに侵入してきている。「肉体」全体で、「視覚」が見つけてきたものを消化してしまう。つつみこんでしまう。そこに、不思議な不思議な手触り、「肉体」としか言いようのないものがあらわれてくる。
 しかも、そういう「肉体」の世界を、三井はひとりで持っているのではない。他人と共有している。「肉体」を共有する。新古今の歌は繊細な感覚、感覚を繊細にする技巧を共有するが、三井は、そういう感覚・技巧をつつみこむ、たっぷりとした「肉体」を他人と共有するのである。

きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 これは会話である。
 三井のことばは、いつでも、同じように「肉体」を持った他人との「会話」である。「会話」というのはことばの共有である。そして、三井の「会話」においては、ことばだけが共有されるのではなく、ことばをつつみこむ「肉体」が共有されるのである。
 「他人」との「会話」である、ということは、そのことばが三井のなかだけでは完結しないということである。いつでも「他人」に対して開かれている。「他人」の反応によって、そのことばを変えていくという要素を持っているということでもある。
 三井のことばは、「他人」と出会い、出会いのなかで浮かび上がってくるものを吸収しながら「変化」する。「変化」とは、三井にとって「生成」のことである。三井のことばは、いつでも「生成」するように動いている。

 そして、その「他人」との出会いによる「生成」は、かならずしも、「他人」の何かをそのまま受け入れることでもないようである。
 「ほんとにね」と言われても、それをそのまま肯定して、そこで終わるのではない。ほんとうに「きょうのホタルはおいしかった」が通じたのかどうかという疑問が残る。そういことも、三井を動かしてゆく。「あれ、ほんとうにね、なんて簡単に言ってほしくなかったのに、もっと違ったことばがあるはずなのに……」。たぶん、そういう思いが、「会話」を逸脱させる。そこにまた、不思議な不思議な魅力、三井の「個性」としか言いようのないものがあらわれてくる。ことばにできない何かを探して、それをことばにしようとする動きがはじまる。

どうしてココロなんかはるばる運んできてしまったのだろうと
私は思うが
いや 田舎道でな
思わず落っことしたんだとカミサマがおっしゃっている

 「カミサマ」は「他人」を超越している。三井をも超越している。そういう超越した領域(いま、ここにはないもの、ことばだけで存在する領域)へ進んでゆく。
 そのときの「カミサマ」もまた、「肉体」をもって、平然としている。そこが非常におもしろい。非常におもしろいし、あ、かなわないなあ、と思う。
 私のことばはどうしても「論理」を求めてしまう。「論理的」に書くことが文章を書くことだと思ってしまう。「いや 田舎道でな/思わず落っことしたんだ」というときの、口語の口調が「肉体」である。

 たぶん、三井のことばは「論理」を気にしない。気にしないというと、おおげさかもしれないし、否定的なイメージを与えてしまうかもしれないが、世界は「論理」を超えたものをもっているということを三井のことばは承知している。ことばは世界のなかで勝手に動き回っているだけで、それはどんなに動き回ってみても、世界の内部のことにすぎないことを知っている。そういう動きを超越して(そういう動きを飲み込んで)世界が存在していることを知っていて、平然と飛躍する。「カミサマ」ということばを突然出してきて、それで平然としている。「カミサマ」であっても、口語で語らせれば、そこに「肉体」が出現し、三井とことばを共有できる。ふれあうことができる。「いや 田舎道でな/思わず落っことしたんだ」という口語ではなく、堅苦しい「論理的な言語」であった場合は、たぶん、三井は「カミサマ」とは交流できない。
 「カミサマ」との会話という飛躍も、実は「生成」である。
 「生成」というのは、もともと「飛躍」である。自分を超えてしまって、自分ではなくなることが「生成」である。「飛躍」なしには「生成」、「なる」ということはあり得ない。

 三井は、私が書いているようなことは、ごちゃごちゃとは書かない。ただ、「呼吸」として、ぱっと提出する。

きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 ふいにあらわれる「他人」。「他人」との会話という呼吸。
 それは三井が自分でつくりだしたものではなく、他人が発した「呼吸」である。三井は、いつも「他人」の呼吸とともにあり、そこで「生成」している。そして、その「他人」には「カミサマ」も含まれていて、「いや 田舎道でな……」という応答さえするのである。



 「岩戸川」にも魅力的な「ココロ」が出てくる。

ココロがココロのいうことをきいてやるとき ココロは嘘をつく
そのほうがココロが
よろこぶ

 「嘘」。「嘘」とは、そこにないものである。ほんとうではないものである。そういうものを「ココロ」はよろこぶ。なぜか。そこには「生成」のきっかけがあるからだ。自分を超越するきっかけがある体。「嘘」とは、存在しないものを存在させること。それは「生成」に通じる。そこには、常に、運動が存在する。
 三井のことばは、いま、ここから、いま、ここではない世界へ動いてゆくことをよろこぶ。動いてゆくとき、いま、ここが、運動の可能性の「場」と「なる」からである。
 それはたぶん「カミサマ」の領域である。
「嘘」を「芸術」と書き換えると、そのことが鮮明になるはずである。
 三井が書いている「カミサマ」は、そういう領域にいて、三井といっしょに遊ぶ、いっしょによろこぶ。このよろこびがあるから、三井の掌(ふところ)は釈迦の掌のように広いのである。果てがないのである。




白昼―詩集 (1964年)
三井 葉子
竜詩社

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