北川透「眠られぬ夜のために--二〇〇七年六月十三日から二十二日までの十日間の記録。」(「ドッグマン・ソース」4、2008年04月25日発行)
詩の政策現場の実況中継のようにして作品は始まる。
この実況中継の始まりをつげる連の、どこに詩があるか。「カレンダーが風に揺れている。」という、北川の状況とは無縁の風景の挿入に詩があるのか。「取れ立ての鰯のような、」という比喩が詩だろうか。--それも、たしかに詩のひとつだろうけれど、一番の魅力は、「毎晩、……」の4行である。私は、この4行に詩を感じる。この4行があるから、感想を書きたい、という気持ちになる。
「毎晩、……」の4行に書かれているのは単純な「算数」である。
なぜ、それが詩なのか。
書かなくてもいいことだからである。ていねいに一行、十、百行、千行とくりかえして「算数」をやって見せる必要はない。過剰な「算数」である。この、余分、過剰に詩がある。北川のことばの特徴がある。余分、過剰は、いつでも書かなくていいことである。その書かなくていいことを、何行にもわたって書いてしまう。「わざと」書く。そこに、詩の楽しみがある。
書き出しそのものが「余剰」である。「過剰」である。
北川が「岡山」の「大朗読」に招かれようが、「東京」の「小朗読」に招かれようが、そんなことと詩は関係なく成立するはずである。読者は、北川の事情など、知ったことではない。ただ詩を読みたいだけだ。しかし、北川は「岡山」という場所、「大朗読」という状況にしっかりことばを結びつけてことばを動かす。「過剰」な緊密感のなかでことばを動かす。そして、その「過剰」な緊密感が、北川の詩なのである。
「過剰」な緊密感が、「算数」に働きかけ、単純な「算数」を増幅させる。増幅した「算数」はそのまま「過剰」である。この「増幅」と「過剰」がことばにリズムを与える。「増幅」「過剰」から、北川はリズムを引き出し、そのままそのリズムに乗って、疾走する。ことばを走らせる。このことばの疾走も「過剰」である。
必要なことは、そこには何も書かれていない。必要な、というのは、人間の生活にというか、実際の暮らしに必要な、という意味である。だから、詩なのである。詩は余剰、過剰そのものである。暮らしの役になど立たない、からこそ詩である。
暮らしに役立たないことば、不必要なことばは、いま、暮らしのなかにあることば、生活の必要にしばられていることばを吹き飛ばす。忘れさせる。「流通」していることばを、さーっと洗い流して行く。--北川のしている仕事は、そういうところにある。
無意味・無価値なことばの過剰な疾走。どこまでも暴走する力。
それを引き出しつづけることで、「流通する言語」から自由になる。ことばの自由を奪い返す。そのために暴走する。無意味、無価値のことばを疾走させつづけるエネルギーだけが、たぶん「流通言語」に対抗できるのである。
まだ、その力は弱いかもしれない。北川ひとりがどんなにがんばってみても、「流通言語」は無傷である。かもしれない。そうかもしれない。たしかに、そうなのだろう。しかし、そうであっても北川は戦う。「わざと」戦う。その戦いのあり方も「過剰」である。しかし、その「過剰」のなかにしか、ことばの自由は存在しない。
2連目に、美しい行がある。
「詩を書き始めると声が変わる」。その「変わる」。このことばはきらきらと輝いている。「変わる」とは自分が自分でなくなってしまうことである。自己を逸脱してしまうことである。(自己拡張という言い方もあるかもしれない。)そうなると、「わたし」という存在がもっていた、他人(知人)との関係が狂ってしまう。「わたし」とはいったいだれ?という大問題が起きてくる。それは「わたし」自身の問題でもあるし、他人が思い描く「わたし」の像の変化の問題でもあり、また他人が思い描く「北川像」と「わたし」がど折り合いをつけるかという問題でもある。--ちょっと面倒くさい問題である。
面倒くさい問題なのだが、北川は、これを「かわる」を「過剰」に「増幅」させることで解決する。ただ、「過剰」の「増幅」を、さらに「増幅」させる。ようするに、かわりつづけるのである。
詩を書かなければならない、という自己をかかえたまま、その自己がどこまでかわれるか、それをただひたすらことばのなかで繰り広げる。自己が完全にかわってしまえば、「詩を書かなければならないという自己」はそこには存在しなくなる。つまり、問題が解決してしまう。
かわりつづけ、かわるということを増幅し、過剰にあふれさせ、完全にかわってしまうこと--それが、その瞬間に、詩とイコールになる。
北川は、かわるということと詩の「算数」問題を、この作品で証明している。証明しようとしている。
で、どうなったでしょうか。
それは作品を読む読者の楽しみ。ここでは、私は私の「こたえ」を書きません。
詩の政策現場の実況中継のようにして作品は始まる。
岡山での「大 俗」の会に招かれている。
何ヶ月も先のことだったので、すっかり忘れていたが、
もう、十日後に迫っているではないか。
カレンダーが風に揺れている。私は取れ立ての鰯のような、
新鮮な詩を朗読しなければとならない。
さあ、たいへん、私に朗読する詩があるか。
屑箱の中はカラッポ。書き損じの紙一枚入っていない。
でも、あわてない。あわてない。
毎晩、寝る前に一行書けば、十日で十行。
毎晩、十行書けば、十日で百行。
毎晩、百行書けば、十日で千行。
毎晩、千行書けば、十日で一万行。
わーい、たやすいことだ。塵も積もれば十万行。
私は十日で大詩人?
この実況中継の始まりをつげる連の、どこに詩があるか。「カレンダーが風に揺れている。」という、北川の状況とは無縁の風景の挿入に詩があるのか。「取れ立ての鰯のような、」という比喩が詩だろうか。--それも、たしかに詩のひとつだろうけれど、一番の魅力は、「毎晩、……」の4行である。私は、この4行に詩を感じる。この4行があるから、感想を書きたい、という気持ちになる。
「毎晩、……」の4行に書かれているのは単純な「算数」である。
なぜ、それが詩なのか。
書かなくてもいいことだからである。ていねいに一行、十、百行、千行とくりかえして「算数」をやって見せる必要はない。過剰な「算数」である。この、余分、過剰に詩がある。北川のことばの特徴がある。余分、過剰は、いつでも書かなくていいことである。その書かなくていいことを、何行にもわたって書いてしまう。「わざと」書く。そこに、詩の楽しみがある。
書き出しそのものが「余剰」である。「過剰」である。
北川が「岡山」の「大朗読」に招かれようが、「東京」の「小朗読」に招かれようが、そんなことと詩は関係なく成立するはずである。読者は、北川の事情など、知ったことではない。ただ詩を読みたいだけだ。しかし、北川は「岡山」という場所、「大朗読」という状況にしっかりことばを結びつけてことばを動かす。「過剰」な緊密感のなかでことばを動かす。そして、その「過剰」な緊密感が、北川の詩なのである。
「過剰」な緊密感が、「算数」に働きかけ、単純な「算数」を増幅させる。増幅した「算数」はそのまま「過剰」である。この「増幅」と「過剰」がことばにリズムを与える。「増幅」「過剰」から、北川はリズムを引き出し、そのままそのリズムに乗って、疾走する。ことばを走らせる。このことばの疾走も「過剰」である。
必要なことは、そこには何も書かれていない。必要な、というのは、人間の生活にというか、実際の暮らしに必要な、という意味である。だから、詩なのである。詩は余剰、過剰そのものである。暮らしの役になど立たない、からこそ詩である。
暮らしに役立たないことば、不必要なことばは、いま、暮らしのなかにあることば、生活の必要にしばられていることばを吹き飛ばす。忘れさせる。「流通」していることばを、さーっと洗い流して行く。--北川のしている仕事は、そういうところにある。
無意味・無価値なことばの過剰な疾走。どこまでも暴走する力。
それを引き出しつづけることで、「流通する言語」から自由になる。ことばの自由を奪い返す。そのために暴走する。無意味、無価値のことばを疾走させつづけるエネルギーだけが、たぶん「流通言語」に対抗できるのである。
まだ、その力は弱いかもしれない。北川ひとりがどんなにがんばってみても、「流通言語」は無傷である。かもしれない。そうかもしれない。たしかに、そうなのだろう。しかし、そうであっても北川は戦う。「わざと」戦う。その戦いのあり方も「過剰」である。しかし、その「過剰」のなかにしか、ことばの自由は存在しない。
2連目に、美しい行がある。
本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない。
詩を書き始めると声が変わる、でも、朗読しなければ分からない。
「詩を書き始めると声が変わる」。その「変わる」。このことばはきらきらと輝いている。「変わる」とは自分が自分でなくなってしまうことである。自己を逸脱してしまうことである。(自己拡張という言い方もあるかもしれない。)そうなると、「わたし」という存在がもっていた、他人(知人)との関係が狂ってしまう。「わたし」とはいったいだれ?という大問題が起きてくる。それは「わたし」自身の問題でもあるし、他人が思い描く「わたし」の像の変化の問題でもあり、また他人が思い描く「北川像」と「わたし」がど折り合いをつけるかという問題でもある。--ちょっと面倒くさい問題である。
面倒くさい問題なのだが、北川は、これを「かわる」を「過剰」に「増幅」させることで解決する。ただ、「過剰」の「増幅」を、さらに「増幅」させる。ようするに、かわりつづけるのである。
詩を書かなければならない、という自己をかかえたまま、その自己がどこまでかわれるか、それをただひたすらことばのなかで繰り広げる。自己が完全にかわってしまえば、「詩を書かなければならないという自己」はそこには存在しなくなる。つまり、問題が解決してしまう。
かわりつづけ、かわるということを増幅し、過剰にあふれさせ、完全にかわってしまうこと--それが、その瞬間に、詩とイコールになる。
北川は、かわるということと詩の「算数」問題を、この作品で証明している。証明しようとしている。
で、どうなったでしょうか。
それは作品を読む読者の楽しみ。ここでは、私は私の「こたえ」を書きません。
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