三井葉子『花』(4)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
「楠の下で」は、私がこれまで三井葉子の詩について書いてきたこととは少し違ったことが書かれている。しかし、書いてきたことと、とても重なり合っている。
その書き出し。
「さえぎる」ということばが、この詩の思想であると思う。さえぎられたとき、世界は限定する。世界は限られる。このことを、三井はつまらないと感じている。この「さえぎる」を三井は「関係ができない」と言い換えてもいる。
「在る」ということばが、もうひとつのキーワードである。(これは、私がいつもつかう「キーワード」というときのことばとは少し違う。普通、誰もがつかう「キーワード」という意味である。--この文章だけでは、わかりにくいかもしれないが、ちょっと面倒なので説明は省略する。)
三井は思想の基本に「存在論」をおいていない。「関係論」をおいている。「関係」とは、前に書いたことばつかっていえば「生成」である。三井は「存在論」ではなく、「生成論」として世界を把握する。そこに、何かが「ある」ということではなく、ある「場」で何かが生成する。それが世界である。「存在」は「生成」の一瞬であって、それは不確実なものである。確実なものは「生成」という運動であり、運動とは「関係」である。それは固定化しているのではなく、常に動いている。
そこに「在る」、在って、何かをさえぎるのではなく、そこで「在る」ことをやめ、何かとつながり、いま、ここ、ではない何かに「なる」--その「なる」という運動が「関係」である。
愚鈍な男、射程がのびない、関係ができない--とは、「在る」ままであること、「なる」ということができない、ということである。
この「愚鈍」を、しかし、三井は不思議なことばでたたえている。否定しきってはいない。と、いうふうに読める部分がある。
愚鈍は罪を犯さない。わたし達は罪を犯す。これは普通に考えれば、罪を犯さない愚鈍が肯定され、罪を犯すわたし達が否定されていることになる。だが、それはほんとうだろうか。罪を犯さないことが、ほんとうに肯定されることなのだろうか。
「在る」であるかぎり、ひとは罪を犯さない。「なる」を選択した瞬間、ひとは必ず罪を犯す。「なる」とは自分の枠(自分の領土)からでて行くことである。自分以外のものになるということは、自分以外のものの領域を自分のものにするということ、侵犯するということである。「なる」は罪なのだ。
だが、「なる」以外に、人間は「生きる」ことができないのではないのか。
「在る」とは何か。最後に、三井は、「在る」を放り出してみせる。そこに、ただ存在するものとして表現する。
「いのち」ということばを、私はこれまで三井の詩について語るときつかってきたが、ここで書かれている「いのち」とは少し違う。三井の「いのち」(私が書いてきた「いのち」)は「生成するいのち」、「なる」いのちであった。
ここに書かれているいのちは「なる」ではなく、「在る」いのちだ。
薔薇が花びらを散らし、青い身に「なる」。その「なる」が完了してしまったあとの存在--そういうものとしての「在る」なのだ。
ひとは常に何かに「なる」。「なる」ために関係し、つながる。しかし、ある日、「なる」が完了する。--その完了したものは、私たちに不思議な印象をもたらす。
「なる」が「完了した」とき、それは、私たちには「愚鈍」にしか見えない。何かを「さえぎる」ものとしか見えない。それは、しかし「いのち」の完成なのである。完成しているがゆえに、他者を侵犯しない。他者を侵犯しないゆえに、「罪」を犯さない。
これもまた、ひとつの「いのち」のあり方である。
こういう詩を読むと、三井が、では「在る」と「なる」とどちらをほんとうは肯定しているかわからなくなる--そういう感じがするかもしれない。だが、そういう感じがするのは、詩に「答え」を求めるからである。「答え」ではなく、「答え」を探す道筋、その道程、そのことばの運動として詩を読めば、印象はかわらない。
三井は「愚鈍」に出会い、それに対して三井がどんなふうに関係し、三井自身のあり方を変えうるか、愚鈍に出会って、三井自身はどのように「なる」ことができるか--それをことばで探しているととらえ直せば、ここに書かれていることは、「変化」や「こおろぎ」とかわらない。
「蛙」は「ころおぎ」に「なる」。「蛙」は「こおろぎ」に「還る」。同じように、三井は「愚鈍」をみつめて、考えながら、「いのち」に「なる」。「青い実」に「なる」。最終行の信じられない美しさ--それは「青い実」に「なる」というところにある。「青い実」が「在る」のではなく、「愚鈍」が「青い実」に「なる」。それは「愚鈍」で出会った三井が「愚鈍」を通って(深く関係して--深く深くことばとつながって)、「青い実」に「なる」ということである。
ここでは、やはり「なる」ということが書かれている。その運動が書かれている。運動だけを、三井は書いている。ある存在が「在る」のではない。「なる」という運動だけが「在る」のである。
「楠の下で」は、私がこれまで三井葉子の詩について書いてきたこととは少し違ったことが書かれている。しかし、書いてきたことと、とても重なり合っている。
その書き出し。
愚鈍な男がいた。愚鈍とは一体、何のことであろう。側にいてもいかにもつまらなかった。退屈であった。そこが薄曇りのようにその男がいるとけしきが曇る。向うにあるに違いない風景をさえぎるというふうである。
「さえぎる」ということばが、この詩の思想であると思う。さえぎられたとき、世界は限定する。世界は限られる。このことを、三井はつまらないと感じている。この「さえぎる」を三井は「関係ができない」と言い換えてもいる。
射程がのびないのを退屈というのかもしれない。しかし、何よりも男は関係ができない。関係できても淡い。
ところで関係とは、えいえいと関係するという意味であった淡いものは関係とは言わない。在る、ということかもしれない。在ることが目障りな、ということは、つまり、けしきをさえぎったりすると思うことはたぶんわたしが、わたし達と同様。蟻の行列と同様。えいえいとつながろうとしているせいである。
「在る」ということばが、もうひとつのキーワードである。(これは、私がいつもつかう「キーワード」というときのことばとは少し違う。普通、誰もがつかう「キーワード」という意味である。--この文章だけでは、わかりにくいかもしれないが、ちょっと面倒なので説明は省略する。)
三井は思想の基本に「存在論」をおいていない。「関係論」をおいている。「関係」とは、前に書いたことばつかっていえば「生成」である。三井は「存在論」ではなく、「生成論」として世界を把握する。そこに、何かが「ある」ということではなく、ある「場」で何かが生成する。それが世界である。「存在」は「生成」の一瞬であって、それは不確実なものである。確実なものは「生成」という運動であり、運動とは「関係」である。それは固定化しているのではなく、常に動いている。
そこに「在る」、在って、何かをさえぎるのではなく、そこで「在る」ことをやめ、何かとつながり、いま、ここ、ではない何かに「なる」--その「なる」という運動が「関係」である。
愚鈍な男、射程がのびない、関係ができない--とは、「在る」ままであること、「なる」ということができない、ということである。
この「愚鈍」を、しかし、三井は不思議なことばでたたえている。否定しきってはいない。と、いうふうに読める部分がある。
愚鈍な男が歩いている。
目鼻があるとは思えないのだが
ただ薄ぼんやりと胞を抱いているだけで
そして抱いているだけではとうてい伸びない
五寸の罪。五尺の罪をわたし達は犯すと。かの聖(ひじり)は言われた
あの罪を犯さない愚鈍が歩いている。
愚鈍は罪を犯さない。わたし達は罪を犯す。これは普通に考えれば、罪を犯さない愚鈍が肯定され、罪を犯すわたし達が否定されていることになる。だが、それはほんとうだろうか。罪を犯さないことが、ほんとうに肯定されることなのだろうか。
「在る」であるかぎり、ひとは罪を犯さない。「なる」を選択した瞬間、ひとは必ず罪を犯す。「なる」とは自分の枠(自分の領土)からでて行くことである。自分以外のものになるということは、自分以外のものの領域を自分のものにするということ、侵犯するということである。「なる」は罪なのだ。
だが、「なる」以外に、人間は「生きる」ことができないのではないのか。
「在る」とは何か。最後に、三井は、「在る」を放り出してみせる。そこに、ただ存在するものとして表現する。
愚鈍な男が歩いている。
あれはいのち、かもしれない。
ある日、
薔薇に花びらを散らしたあとに残る、あの青い実のような。
「いのち」ということばを、私はこれまで三井の詩について語るときつかってきたが、ここで書かれている「いのち」とは少し違う。三井の「いのち」(私が書いてきた「いのち」)は「生成するいのち」、「なる」いのちであった。
ここに書かれているいのちは「なる」ではなく、「在る」いのちだ。
薔薇が花びらを散らし、青い身に「なる」。その「なる」が完了してしまったあとの存在--そういうものとしての「在る」なのだ。
ひとは常に何かに「なる」。「なる」ために関係し、つながる。しかし、ある日、「なる」が完了する。--その完了したものは、私たちに不思議な印象をもたらす。
「なる」が「完了した」とき、それは、私たちには「愚鈍」にしか見えない。何かを「さえぎる」ものとしか見えない。それは、しかし「いのち」の完成なのである。完成しているがゆえに、他者を侵犯しない。他者を侵犯しないゆえに、「罪」を犯さない。
これもまた、ひとつの「いのち」のあり方である。
こういう詩を読むと、三井が、では「在る」と「なる」とどちらをほんとうは肯定しているかわからなくなる--そういう感じがするかもしれない。だが、そういう感じがするのは、詩に「答え」を求めるからである。「答え」ではなく、「答え」を探す道筋、その道程、そのことばの運動として詩を読めば、印象はかわらない。
三井は「愚鈍」に出会い、それに対して三井がどんなふうに関係し、三井自身のあり方を変えうるか、愚鈍に出会って、三井自身はどのように「なる」ことができるか--それをことばで探しているととらえ直せば、ここに書かれていることは、「変化」や「こおろぎ」とかわらない。
「蛙」は「ころおぎ」に「なる」。「蛙」は「こおろぎ」に「還る」。同じように、三井は「愚鈍」をみつめて、考えながら、「いのち」に「なる」。「青い実」に「なる」。最終行の信じられない美しさ--それは「青い実」に「なる」というところにある。「青い実」が「在る」のではなく、「愚鈍」が「青い実」に「なる」。それは「愚鈍」で出会った三井が「愚鈍」を通って(深く関係して--深く深くことばとつながって)、「青い実」に「なる」ということである。
ここでは、やはり「なる」ということが書かれている。その運動が書かれている。運動だけを、三井は書いている。ある存在が「在る」のではない。「なる」という運動だけが「在る」のである。
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