三井葉子『花』(2)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
昨日、「変化」について書いた。きょうも「変化」について書く。昨日、書き残したこと、いい足りなかったことがある。
ようやっと
雀になった。
最終連の「なった」を中心に、私は書いたが、この「なる」を三井は「変化」と書いているが、私には「生成」に見える。
「変化」と「生成」の違いは? この説明は難しい。私の感じている「雀になった」は三井が雀に「変わってしまった」のでも「化けてしまった」のでもない。三井がいったん三井ではなくなる。そういう「場」をくぐって、新たに雀として「生まれ」「成長」した、という感じなのだ。
未来が
みんな過去に見える年寄りは
歯のないくちで
ほほ ほほ ほ と笑っている
1連目では三井は「年寄り」であるう「歯のないくちで」「笑っている」年寄りの一人である。この段階では、まだ人間の感じが残っている。ただし、自画像を「歯のないくち」と見るような、自己を客観化できるような「余裕」を持っている。自己を受け入れる「余裕」を持っている。
そのむかし囓ったであろう白い歯の むこうの
固いフランス・パン
パンくずを拾った雀の
パンくずのように
私は運ばれる
雀の未来へ
運ばれる
2連目は、1連目の「歯」をひきずっている。「歯」のことを思い出している。「歯」がかじったフランスパンのことを思い出している。
ここから少しずつ、変わりはじめる。
歯→固い→フランスパン→パンくず→雀→運ぶ→未来
「→」を省略して、単語だけを並べるとどうなるだろうか。
歯・固い・フランスパン・パンくずほ雀・運ぶ・未来
何のことか、わからない。私たちは三井の詩を読んでいるので、その単語をつなぎ合わせることができるが、三井の詩を読んでいないひとには、きっと何のことかわからない。単語がただ入り交じっているだけである。どういう順序でならんでいるのかわからないだろう。
こういう状態を「混沌」と定義してみよう。
「混沌」とは、そこにまだ固まった「関係」が存在しない状態のことである。ただ「もの」が、そこ(ある「場」)にあって、うごめいている。その「もの」をつなぎあわせると「関係」が出てくる。この「出てくる」は「生まれる」と言い換えることができる。
歯(白い)とフランスパンが「関係する」とき、「固い」という印象が「生まれる」。あるいは「かじる」「パンくず」という行為や存在が「生まれる」(思い出すことができる)。「パンくず」を拾った「雀」もその関係につながって「生まれてくる」。
「混沌」とは、ある「場」のなかに、次々と存在が生まれ続ける状態のことである。いろんなものが生まれ続けるからこそ、関係は固定できない。したがって、「混沌」なのである。
「生成」は、この「混沌」をくぐり抜けること--「混沌」の場を通過することを条件としている。「変化」にもこういう「混沌--関係の解体と再構築」という動きがあるかもしれないが、私は「生成」をそんなふうに定義している。
「混沌」と「生成」。これは、ともに東洋哲学の用語であるかもしれない。そして、私が思い浮かべているのは、まさに東洋哲学(日本を含む)の伝統である。
三井はこの詩集に「句まじり詩集」ということわりをつけているが、そのことばを借りていえば、「混沌」と「生成」は俳句の世界である。俳句の5・7・5の短いことばのなかには生成がある。俳句が描き出す世界は、単なる風景ではない。「生成する」風景である。ことばとともに生まれ、成長する風景である。
五月雨をあつめて早し最上川
この句が描いているのは、単なる梅雨時の最上川ではない。芭蕉はその風景を見ているのではない。最上川そのものになっている。最上川になって、五月雨を集めて、どんどん早くなる川のいのちそのものになっている。そこに書かれているのは「川」ではなく、川が川であることの「いのち」なのである。
「いのち」は常に「生まれ」「成長する」。生成する。
雨か降る最上川を見ている内に、芭蕉は芭蕉ではなくなる。人間の「いのち」解きほぐされ、雨がまじる。水の流れがまじる。雨に降られて肥え太る川。早くなる川。その速さのなかに動いている「いのち」が芭蕉をとらえる。芭蕉はそれに呼応する。
生成とは、また呼応のことでもある。
三井は、「歯・固い・フランスパン・パンくずほ雀・運ぶ・未来」という混沌のなかにいったん解きほぐされ、そこから雀と呼応する。雀のよろこびと呼応する。「雀でいいんだわ、ほほ ほほ ほ」という感じである。
この生成には、もうひとつ、大切なことがある。
よし
ようやっと
雀になった。
私はこれまで「雀になった」の「なる」だけに焦点をあてて書いてきたが、この「生成」について三井は「ようやっと」ということばを添えている。
ほんとうは、この「ようやっと」こそ、三井の「思想」である。
混沌→生成、ということは、三井以外の人間でも表現する。俳句は、すべてそういう世界である。(と私は思っている。)俳句に限らず、東洋の哲学、仏教、特に禅というのは混沌→生成以外のなにものでもない。(と私は思っている。)
そして、俳句や禅と三井のことばを分けるものがあるとすれば、そっと添えられた、この「ようやっと」なのである。
生成の瞬間、芭蕉は、その生成過程をすぱっと切り捨て、隠してしまう。あたかも最上川が突然出現したかのように。禅の悟りというか、問答というものもそれに似ている。ほんとうは混沌をくぐり抜けている。くぐりぬけているけれど、そんなものなど存在しなかったかのように、悟りの一瞬として出現する。(私の勘違いかもしれないが。)
三井は、そういうことをしない。さとらない。
「ようやっと」と、「雀」に生成するまでに時間がかかったことを平然と言ってしまう。自画像を「歯のない年寄り」と書いてしまうように、自己のあり方を、みっともなさ(?)を受け入れて、それを提出する。そこに、不思議な「余裕」がある。
さらに、この「ようやっと」にはもっともっと大切な三井が、三井のより深い思想が具体化している。思想というのは肉体に絡みついているので、なかなか説明しにくい。「ようやっと」を自己を受け入れる「余裕」というふうに、論理的(?)に説明できる部分は、ほんとうはまだ思想ではない。自己を客観化するだけの人間なら、これまたたくさんいる。
「ようやっと」は「ようやく」と同じである。(と、私は思う)しかし、三井は「ようやく」とは書かず「ようやっと」と書く。ここに三井の思想そのものがある。「ようやく」と書いた方が、たぶん標準語として多くのひとにそのまま伝わる。三井はしかし、そうは書かない。「ようやっと」に含まれる三井の生きてきた「場」(関西)の時間をそっと差し出す。肉体が呼吸してきたものを手放さず、そっと差し出す。
肉体が呼吸してきたものをちきんと保ったまま、生成をなしとげる。
それは「頭」ではなく、「肉体」そのものとして「生成」することである。三井のことばにはいつも肉体がある。呼吸がある。それは「頭」からみると、一種の余分なものである。余分なものと取り払った方が、流通しやすい。理解を得やすい。しかし、そういうことはしない。流通しやすいことばではなく、自分が生きてきてたことば、自分が生きてきた「場」につながっていることばをしっかり守り、差し出す。ことばとともに存在する肉体、その呼吸を、まるごと差し出す。
ここに魅力が、そのひとのほんとうの思想がある。
私は三井に会ったことはない。写真を見たことはあるが、よく覚えていない。(申し訳ない。)しかし、あってもいないのに、いつも詩を読むと、そのことばを読むと、三井の肉体を感じる。生きている人間の呼吸を感じる。そういうものが感じられれば、実は、私にとって詩の内容など、どうでもいい。(と言ってしまうと、言い過ぎだろうか。)詩を読む、文学を読む--というのは、それを書いたひとに、ことばのなかで会うということである。ひとは肉体を持ち、呼吸をしている。それが感じられれば、その人に会ったことになる。ひとと会えば、挨拶し、無駄口を叩き合う。まあ、立派な話もときにはするかもしれないが、大半はどうでもいいことを話し合って、あ、いま、ここにこうやって生きているということを意識するともなく感じる。そういう出会い、ひととの触れ合いの楽しさ--それがあれば、何を話したかということは、どうでもいい。話を思い出すのではなく、ひとは、ひとをそのまま、まるごと、肉体・呼吸を思い出すものだ。
三井のことばは、私を、そういう世界へ誘ってくれる。
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