監督 デヴィッド・クローネンバーグ 出演 ヴィゴ・モーテンセン、ナオミ・ワッツ、ヴァンサン・カッセル
ヴィゴ・モーテンセンは不思議な役者である。目に透明感があり、存在も控えめである。ぐい、と押し出てくるのが役者の魅力だが、ヴィゴ・モーテンセンは押し出てくるのではなく、一歩手前で立ち止まっている。こちらから近づいて行かないかぎり接触のしようのない役者である。いわば、待っている役者なのである。
その役者が全身にタトゥーをしている。タトゥーは自己顕示である。存在は控えめなのに、その肌だけが自己顕示する。それは、肌以外は人には見せない、という意志の表明であるように感じられる。実際、ヴィゴ・モーテンセンは、こころを見せない役どころを演じている。ダークなアルマーニのスーツに身を包み(非常に細身に見える、が、実際は違う)、表情も殺して、マフィアの下っぱ、運転手兼ボスの息子の子守(?)をやっている。タトゥーは、感情を隠す「よろい」でもあるのだ。タトゥーが犯罪者の「経歴」を証明するものであれば、なおさら「こころ」が見えなくなる。ひとは「こころ」ではなく、犯罪の履歴と、それを誇示して生きる「悪」しか見えない。
タトゥーは、しかし、「感情」を他者からは守っても、肉体そのものを守りはしない。タトゥーを見せれば見せるほど、肉体は無防備になっていく。ここにヴィゴ・モーテンセンが生きていること、その存在の「矛盾」が噴出する。映画のクライマックスは、その「矛盾」が華麗な花になって舞い散る。
サウナ風呂でヴィゴ・モーテンセンはマフィアに襲われる。2人組である。ナイフを持っている。マフィアの2人は、タトゥーが無防備なものであることを体験的に知っている。タトゥーが見えれば見えるほど、その相手は襲いやすいのである。2人組に襲われたとき、ヴィゴ・モーテンセンが頼ることのできるのは、彼自身の「肌」ではなく、肉体(肌の内部に存在する、筋肉、運動能力)だけである。黒いスーツに隠されていたものが、一気に解放される。発散される。2人組のナイフはヴィゴ・モーテンセンの肌を切る。血が噴き出る。血がタトゥーを消してゆく。それは、ヴィゴ・モーテンセンがタトゥーという「他人向けの肌」を脱いで、肉体そのものにかえる一瞬であり、彼自身にかえる一瞬でもある。内部からあふれてくる血でタトゥーを消しながら、ヴィゴ・モーテンセンは彼自身になる。マフィアと戦う人間になる。この一瞬、マフィアと直接のために、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーをしていたのである。
タトゥーはマフィアに接近し、その内部へ潜入するための「手形」であったことがこの瞬間、わかる。内部に潜入してしまえば「手形」はいらない。内部に潜入し、そこで戦うとき、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーが血で消えていくことを承知している。そして、その瞬間のためにこそ、体を鍛え、同時に肉体を隠していたのである。
隠すとは、その存在を温存することでもある。ある瞬間まで、その存在を知らせずにおく。守り通す。そして必要な瞬間だけ、その力を利用すれば、その効果は非常に大きい。タトゥーを破り、あらわれてくる力、その動きは非常にかっこいい。
*
隠すことと現わすこと、透明と不透明--これはタトゥーだけではなく、ほかの形でもこの映画ではつかわれている。ロシア訛りの英語。ロシア訛りは英語を不透明にする。そして同時に、その不透明さが「くっきり」と、つまり「透明なまでに」明瞭に、登場人物がロシア出身であることを物語る。
どうしようもなく現われてしまう「地」。あるいは「血」。
それをどう隠し、どう現わしてゆくか。その接点をどこに求めてゆくか。そういう手さぐりの生き方そのものがクローネンバーグのテーマなのだろうと思う。ダークな色彩、思わず身を引きたくなるような手触り--そして、その対極にある透明な何か、ひとを誘い込む何か。そのせめぎ合い。
映画は基本的に視覚と聴覚の世界だが(この映画では、タトゥーとロシア訛りがそれを象徴している)、クローネンバーグはそのふたつに「触覚」を付け加えている。肌触り、というものを付け加えている。「肌」ざわり、の「肌」。人間の内と外をわけている何か。そこが、透明と不透明の「接点」であることを知っていて、その部分を刺激する。ざわめかせる。そういう映画監督のように思える。
ヴィゴ・モーテンセンは、そういう「ざわめき」の要求にこたえる演技をしていた。引き込まれてしまう。ナオミ・ワッツも透明感を生かし、ヴィゴ・モーテンセンの透明感と不透明感を、よりいっそう「ざわめかせる」演技をしていた。とてもいい響き合いだった。
ヴィゴ・モーテンセンは不思議な役者である。目に透明感があり、存在も控えめである。ぐい、と押し出てくるのが役者の魅力だが、ヴィゴ・モーテンセンは押し出てくるのではなく、一歩手前で立ち止まっている。こちらから近づいて行かないかぎり接触のしようのない役者である。いわば、待っている役者なのである。
その役者が全身にタトゥーをしている。タトゥーは自己顕示である。存在は控えめなのに、その肌だけが自己顕示する。それは、肌以外は人には見せない、という意志の表明であるように感じられる。実際、ヴィゴ・モーテンセンは、こころを見せない役どころを演じている。ダークなアルマーニのスーツに身を包み(非常に細身に見える、が、実際は違う)、表情も殺して、マフィアの下っぱ、運転手兼ボスの息子の子守(?)をやっている。タトゥーは、感情を隠す「よろい」でもあるのだ。タトゥーが犯罪者の「経歴」を証明するものであれば、なおさら「こころ」が見えなくなる。ひとは「こころ」ではなく、犯罪の履歴と、それを誇示して生きる「悪」しか見えない。
タトゥーは、しかし、「感情」を他者からは守っても、肉体そのものを守りはしない。タトゥーを見せれば見せるほど、肉体は無防備になっていく。ここにヴィゴ・モーテンセンが生きていること、その存在の「矛盾」が噴出する。映画のクライマックスは、その「矛盾」が華麗な花になって舞い散る。
サウナ風呂でヴィゴ・モーテンセンはマフィアに襲われる。2人組である。ナイフを持っている。マフィアの2人は、タトゥーが無防備なものであることを体験的に知っている。タトゥーが見えれば見えるほど、その相手は襲いやすいのである。2人組に襲われたとき、ヴィゴ・モーテンセンが頼ることのできるのは、彼自身の「肌」ではなく、肉体(肌の内部に存在する、筋肉、運動能力)だけである。黒いスーツに隠されていたものが、一気に解放される。発散される。2人組のナイフはヴィゴ・モーテンセンの肌を切る。血が噴き出る。血がタトゥーを消してゆく。それは、ヴィゴ・モーテンセンがタトゥーという「他人向けの肌」を脱いで、肉体そのものにかえる一瞬であり、彼自身にかえる一瞬でもある。内部からあふれてくる血でタトゥーを消しながら、ヴィゴ・モーテンセンは彼自身になる。マフィアと戦う人間になる。この一瞬、マフィアと直接のために、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーをしていたのである。
タトゥーはマフィアに接近し、その内部へ潜入するための「手形」であったことがこの瞬間、わかる。内部に潜入してしまえば「手形」はいらない。内部に潜入し、そこで戦うとき、ヴィゴ・モーテンセンはタトゥーが血で消えていくことを承知している。そして、その瞬間のためにこそ、体を鍛え、同時に肉体を隠していたのである。
隠すとは、その存在を温存することでもある。ある瞬間まで、その存在を知らせずにおく。守り通す。そして必要な瞬間だけ、その力を利用すれば、その効果は非常に大きい。タトゥーを破り、あらわれてくる力、その動きは非常にかっこいい。
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隠すことと現わすこと、透明と不透明--これはタトゥーだけではなく、ほかの形でもこの映画ではつかわれている。ロシア訛りの英語。ロシア訛りは英語を不透明にする。そして同時に、その不透明さが「くっきり」と、つまり「透明なまでに」明瞭に、登場人物がロシア出身であることを物語る。
どうしようもなく現われてしまう「地」。あるいは「血」。
それをどう隠し、どう現わしてゆくか。その接点をどこに求めてゆくか。そういう手さぐりの生き方そのものがクローネンバーグのテーマなのだろうと思う。ダークな色彩、思わず身を引きたくなるような手触り--そして、その対極にある透明な何か、ひとを誘い込む何か。そのせめぎ合い。
映画は基本的に視覚と聴覚の世界だが(この映画では、タトゥーとロシア訛りがそれを象徴している)、クローネンバーグはそのふたつに「触覚」を付け加えている。肌触り、というものを付け加えている。「肌」ざわり、の「肌」。人間の内と外をわけている何か。そこが、透明と不透明の「接点」であることを知っていて、その部分を刺激する。ざわめかせる。そういう映画監督のように思える。
ヴィゴ・モーテンセンは、そういう「ざわめき」の要求にこたえる演技をしていた。引き込まれてしまう。ナオミ・ワッツも透明感を生かし、ヴィゴ・モーテンセンの透明感と不透明感を、よりいっそう「ざわめかせる」演技をしていた。とてもいい響き合いだった。
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