瀬崎祐「備忘録SIDE A・迂回」(「風都市」18、2008年春発行)
書かない、ということを書いている。矛盾した言い方だが、瀬崎がこころみているのはそうしたことばだ。「何か」がある。しかし、その「何か」には言及しない。「何か」が引き起こす「場」の歪みのようなものを、「何か」を書くことを拒絶したまま、書こうとする。瀬崎はこの号で「備忘録SIDE B・秘匿」という作品も書いている。タイトル通り、瀬崎は「何か」を「迂回」し、また「秘匿」している。「迂回」と「秘匿」は瀬崎にとっては同じ行為である。
「何か」を「迂回」し、「秘匿」すると、ことばはどう変質するか。「迂回」の書き出し。
具体的な存在は描写されず、ただ感覚だけが描写される。何が見えるか。「いろいろ」。どんな観光地をめぐってきたのか。「いろいろ」。そして「気持ちの良い」「ねっとり」「重い」。読者は瀬崎の外の風景ではなく、瀬崎の内部、感覚の「場」へ知らずに引き込まれることになる。
「何か」を描写することを避けると、ことばは、作者の内部(感覚)を描写するしかなくなるのである。
これは逆の位置から見ると、瀬崎は、瀬崎の内部へ読者を引き込むために、「迂回」という方法をとっているのである。「観光地」の「展望台」なら、そこからは「特別」な「何か」が見えるはずである。「特別な何か」が見える(存在する)からこそ観光地というものである。しかし、そういう「場」で「特別な何か」を描くことを拒絶すると、そこにはただ外部を拒絶した人間の「内部」だけが残されることになる。
とはいっても、「内部」は「内部」だけでは存在し得ない。「内部」は「外部」があって、はじめて「内部」となりうる。
だからこそ、次の行がある。
「鋳型」。「わたしの鋳型」。
「外部」を描写することを拒絶したために、さらけだされた「内部」。
そういうものは、しかし、とても困った存在である。誰も他人の「内部」になど直接触れたくはない。形のないもの(形が常に揺れ動くもの)は困るのだ。だからこそ、「鋳型」が必要なのだ。「鋳型」でひとつの「形」をつくって、そこに閉じ込めて、むりやり外部・内部の区別を生み出す。「外部」はそういうふうに、瀬崎の「内部」に働きかける。
このときの瀬崎の「印象」が「ねっとり」「重い」である。「内部」は「ねっとり」と「重い」に向かって凝縮する。瀬崎にとって生きることは「ねっとり」「重い」を実感することである。
この1行で、特におもしろいのは「ねっとり」である。
「外部・内部」と書いたが、その接点としての「ねっとり」。「ねっとり」は触覚に属することばだ。
「いろいろなものが見える」と書きながら、実際は視覚は何も描写しなかった。視覚は視覚であることを放棄している。そのとき、視覚のかわりに触覚が、瀬崎の「位置」を決定する。「ねっとり」という人間のあり方を決定する。「ねっとり」はからみつく。からみついたものを、そしてひきずる。からみつき、ひきずられる、ひっぱられると、「内部」は、からみつき、ひっぱるものの「重さ」(重い)のために、どうしても歪んでしまう。「鋳型」はぐりゃりと崩れ、「鋳型」があるのに、「鋳型」の形以外のものになってしまう。歪みとは、「重さ」の配分が均等ではないときに生まれるものだ。
このゆらぎと、ゆらぎを引き起こす「ねっとり」を書くために、瀬崎は「迂回」している。
人間が存在する。そのとき人間を変質させるのは、「触覚」である。触れ合いである。「ねっとり」である。
瀬崎は「何か」を「迂回」するふりをしながら、実は、「ねっとり」を直視し、それを見るだけではなく、「ねっとり」そのものになろうとしている。「迂回」は「ねっとり」になるための方便である。
という行が詩のちょうど中心部分に出てくる。瀬崎は「年月」のなかにあるもの、その構成要素(存在)そのものには触れず、「年月」の感触だけにふれる。「外部・内部」の境界線にふれる。「ねっとり」。
この「ねっとり」を強調するために、この作品では「恭子さん」という読者にはだれのことかわからない人物が挿入される。「鋳型」ではなく、「鋳型」のなかに紛れ込んだ1個の異物。その異物のために「内部」はさまざまな方向に動き、つまり「鋳型」の隅々にまで動いて行き、「鋳型」によってつくられるものを単なる「形」ではないものにしてしまう。「人形」ではなく「人間」にしてしまう。「形」と「間」の違いが、ここから生まれてくる。
「間」は「魔」でもある。
「魔」によって、「ねっとり」は「悲しみ」(この詩には、そういうことばはつかわれていないが)にもなれば、よろこび(このことばもここではつかわれていない)にもなる。つまり、「いのち」(このことばも、つかわれてはいない)になる。
「迂回」し、「ねっとり」を引き出すことで、瀬崎は、「いのち」を描く。そういうことを試みているのだ。
書かない、ということを書いている。矛盾した言い方だが、瀬崎がこころみているのはそうしたことばだ。「何か」がある。しかし、その「何か」には言及しない。「何か」が引き起こす「場」の歪みのようなものを、「何か」を書くことを拒絶したまま、書こうとする。瀬崎はこの号で「備忘録SIDE B・秘匿」という作品も書いている。タイトル通り、瀬崎は「何か」を「迂回」し、また「秘匿」している。「迂回」と「秘匿」は瀬崎にとっては同じ行為である。
「何か」を「迂回」し、「秘匿」すると、ことばはどう変質するか。「迂回」の書き出し。
山上の展望台からはいろいろなものが見える
いろいろな観光地をめぐったが
こんなに気持ちの良い曇りの日も珍しい
わたしを取りかこんだ湿った空気はねっとりと重い
わたしの鋳型がいたるところで一人歩きを始めてしまいそうだ
具体的な存在は描写されず、ただ感覚だけが描写される。何が見えるか。「いろいろ」。どんな観光地をめぐってきたのか。「いろいろ」。そして「気持ちの良い」「ねっとり」「重い」。読者は瀬崎の外の風景ではなく、瀬崎の内部、感覚の「場」へ知らずに引き込まれることになる。
「何か」を描写することを避けると、ことばは、作者の内部(感覚)を描写するしかなくなるのである。
これは逆の位置から見ると、瀬崎は、瀬崎の内部へ読者を引き込むために、「迂回」という方法をとっているのである。「観光地」の「展望台」なら、そこからは「特別」な「何か」が見えるはずである。「特別な何か」が見える(存在する)からこそ観光地というものである。しかし、そういう「場」で「特別な何か」を描くことを拒絶すると、そこにはただ外部を拒絶した人間の「内部」だけが残されることになる。
とはいっても、「内部」は「内部」だけでは存在し得ない。「内部」は「外部」があって、はじめて「内部」となりうる。
だからこそ、次の行がある。
わたしの鋳型がいたるところで一人歩きを始めてしまいそうだ
「鋳型」。「わたしの鋳型」。
「外部」を描写することを拒絶したために、さらけだされた「内部」。
そういうものは、しかし、とても困った存在である。誰も他人の「内部」になど直接触れたくはない。形のないもの(形が常に揺れ動くもの)は困るのだ。だからこそ、「鋳型」が必要なのだ。「鋳型」でひとつの「形」をつくって、そこに閉じ込めて、むりやり外部・内部の区別を生み出す。「外部」はそういうふうに、瀬崎の「内部」に働きかける。
このときの瀬崎の「印象」が「ねっとり」「重い」である。「内部」は「ねっとり」と「重い」に向かって凝縮する。瀬崎にとって生きることは「ねっとり」「重い」を実感することである。
この1行で、特におもしろいのは「ねっとり」である。
「外部・内部」と書いたが、その接点としての「ねっとり」。「ねっとり」は触覚に属することばだ。
「いろいろなものが見える」と書きながら、実際は視覚は何も描写しなかった。視覚は視覚であることを放棄している。そのとき、視覚のかわりに触覚が、瀬崎の「位置」を決定する。「ねっとり」という人間のあり方を決定する。「ねっとり」はからみつく。からみついたものを、そしてひきずる。からみつき、ひきずられる、ひっぱられると、「内部」は、からみつき、ひっぱるものの「重さ」(重い)のために、どうしても歪んでしまう。「鋳型」はぐりゃりと崩れ、「鋳型」があるのに、「鋳型」の形以外のものになってしまう。歪みとは、「重さ」の配分が均等ではないときに生まれるものだ。
このゆらぎと、ゆらぎを引き起こす「ねっとり」を書くために、瀬崎は「迂回」している。
人間が存在する。そのとき人間を変質させるのは、「触覚」である。触れ合いである。「ねっとり」である。
瀬崎は「何か」を「迂回」するふりをしながら、実は、「ねっとり」を直視し、それを見るだけではなく、「ねっとり」そのものになろうとしている。「迂回」は「ねっとり」になるための方便である。
年月はねっとりと重いのだから
という行が詩のちょうど中心部分に出てくる。瀬崎は「年月」のなかにあるもの、その構成要素(存在)そのものには触れず、「年月」の感触だけにふれる。「外部・内部」の境界線にふれる。「ねっとり」。
この「ねっとり」を強調するために、この作品では「恭子さん」という読者にはだれのことかわからない人物が挿入される。「鋳型」ではなく、「鋳型」のなかに紛れ込んだ1個の異物。その異物のために「内部」はさまざまな方向に動き、つまり「鋳型」の隅々にまで動いて行き、「鋳型」によってつくられるものを単なる「形」ではないものにしてしまう。「人形」ではなく「人間」にしてしまう。「形」と「間」の違いが、ここから生まれてくる。
「間」は「魔」でもある。
「魔」によって、「ねっとり」は「悲しみ」(この詩には、そういうことばはつかわれていないが)にもなれば、よろこび(このことばもここではつかわれていない)にもなる。つまり、「いのち」(このことばも、つかわれてはいない)になる。
「迂回」し、「ねっとり」を引き出すことで、瀬崎は、「いのち」を描く。そういうことを試みているのだ。
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