詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一「[東京涙歌]」

2008-06-23 11:56:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 中尾太一「[東京涙歌]」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 中尾太一の詩については、感想がとても書きにくい。多くのひとがすでに書いている。その批評を私はていねいに読んでいるわけではない。すでに書かれていることがらと重複するかもしれない。また、まったく反対の部分もあるかもしれない。そうした「重複」(コピー)、「反論」に対する準備が私にはまったくない。(準備するつもりもないのだけれど。)
 06月号の作品では「(東京なみだブタ)」ということばをタイトル(?)にもつ部分にひかれた。ことばのスピードにひかれた。

サナエ
盾になる景色を見ている
国道29号線、戸倉あたりでは過ぎていくトラックを見送り、殺意よりも悲しく勃起する下部を、パーキングエリアに捧げた

 「殺意よりも悲しく勃起する」。この抒情たっぷりのことば、センチメンタルなことばを長い長い1行に隠すことによって、逆に見せつけるときの、ことばのスピードが魅力だ。センチメンタルの隠し方と、隠すことで見せるそのことばのスピードが美しい。
 隠す-見せる。その対立したベクトルが1行を凝縮させ、結晶させる。その結果、長い長い1行が、書き出しの「サナエ」ということばと正確に対峙する。

誘蛾灯のように割れている服の、下
そのやわらかさを賭して
「僕の生まれたところに連れて行くが、ここに残る数行がそれを責める」、すでに雪が責めているんだが

 60年代、70年代なら、たぶん中尾が書いている長い1行を目指して詩は動いた。そして、その1行は複数の行に改行され、ことばをもっと「独立」したものとして動かしただろうと思う。
 「数行」「責める」「雪」、そして強調するための「すでに」。
 谷川雁なら、きっとこの1行とそのまわりの数行を華麗に因数分解し20行の1篇に仕上げただろうという感じがする。
 だが、中尾は、いわば1篇の詩を1行に封印することで、センチメンタルを超越しようとする。読者が(たとえば、私が)センチメンタルにつまずくならつまずけばいい、センチメンタルだけが詩ではない、とことばをセンチメンタルから脱出させるように動かしていく。その拒絶の仕方、(隠し方、と私は書いてきたが、拒絶の仕方といった方がいいのかもしれない、と今、思う)、そこに、ことばにかけるエネルギーを感じる。

 その一方で、

最後に顔を見た交差点の陸橋が好きだった
あえて、環七の、せめて、高円寺の、蔑視を、みんなに
サナエ、誰が泣いている、何処へ行った

 という、凝縮ではなく、一点から全方向へ散らばっていくような数行がある。
 凝縮と拡散、求心と遠心--そういう矛盾の中にこそ詩は存在するという力学、「ことばの古典的力学」を、きちんと守った上で、その力学に揺さぶりをかけている。

 こうした詩人は、たぶん1篇、1篇を取り上げて感想を書いても、あまり意味はない。1冊の詩集、あるいは数冊の詩集という単位でないと、ほんとうのことばの動く先がとらえにくい。
 (書きはじめてみたものの、やはり中途半端な感想になってしまった。)


数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社

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