橋本和彦「直線」、北川朱実「電話ボックスに降る雨」(「石の詩」70、2008年05月20日発行)
ことばへの信頼--それが詩である。橋本和彦の「直線」を読み、そう感じた。そして、その感じをなんだか、なつかしいもののように感じた。
中学1年の数学の授業。「直線」の定義。それに誘われて動いたこころ。
「直線の定義」は数学の問題である。数学は文学ではない。しかし、そのことばを信じるとき、そしてそのことばとともにそこにないものが含まれるとき、それは文学になる。ことばは、意味は、いつでも「余分なもの」「過剰なもの」、たとえばこの作品では「直線」の定義にあらわれた「宇宙」が、「余分なもの」であり「過剰なもの」にあたるが、そういうものの中へと逸脱する。そのとき、そこに文学が、詩があらわれてくる。ことばのなかの「余分なもの」「過剰なもの」を、こころが信じるとき、それは詩として確立する。「どこまでも」が「宇宙」に変化することで、「数学」が「詩」として、こころのなかにしっかり定着する。
そのよろこびが、この作品には結晶している。
詩への信頼、ことばへの信頼が、なつかしいもののようにして甦ってくる。
橋本の詩が教えてくれるのは、たしかになつかしさなのだと思う。詩が、ことばが信頼にたるものであり、その信頼が、私たちを、いま、ここにはない世界へと導いてくれる。その瞬間の、目眩のような、なつかしさ……。
だが、それだけでは「詩」は「現代詩」にはならないのだ、とも思った。
橋本は、この作品でさらにもう一つ「余分なもの」「過剰なもの」を持ち込んでいる。「余分なもの」「過剰なもの」へと逸脱していっている。「銀色に輝く真っ直ぐな線」の「銀色に輝く」。「直線」には「色」などない。「輝く」という運動もありえない。しかし、それを橋本は「ある」ものとして書いている。
この詩は、本当は、この「銀色に輝く真っ直ぐな線」を、もっともっと書き込まなければならない。そうでないと、「意味」で終わってしまう。「現代詩」にならない。
なぜ、銀色なのか。なぜ、輝くのか。
それは橋本にしかわからない。数学の授業で先生は「銀色」も「輝く」も言っていない。そのふたつには、橋本の「無意識」と「独自性」がある。それをみつめていくことは、流通する言語を批判することである。そして、その批判の中にこそ「現代」という時間が噴出してくる。そういうものをこそ、「現代詩」は書かなければならない。
橋本が、作品を「僕には確かに見えたのだ。」と過去形で締めくくっている。その過去形が象徴するように、橋本の作品は「過去・詩」であって、「現代・詩」ではない。だから、なつかしい。なつかしさを超えて、「現代」を描くために、何をしなければならないのか。それを考えなければならないと思った。
*
北川朱実「電話ボックスに降る雨」は、ことばを探している。橋本和彦と北川にある大きな違いは、ことばを探すか探さないかである。
「電話ボックスに降る雨」の後半。
「どこなのかわからなかった」とは単に「場所」のことではない。そこがどこであろうと、その「場」と「けんか別れをした人」とを結ぶ「直線」がない。「私」と「けんか別れをした人」を結ぶ「直線」がない。「最短距離」がない。そればかりか「最長距離」すらもない。「定義」できない距離だけが、抽象的に「線」として放り出されている。不安定なまま、そこに存在している。
どういえばいいのか。
北川は「海に降る雨」で「定義」しようとする。「私」と「けんか別れをした人」との「距離」を定義できるとしたら、「海に降る雨」しかないのである。北川にとっては。数学のことば、たとえば「あなたの家から何キロ(何メートル)」では定義できない。地理のことばでも定義できない。「某街のガソリンスタンドの公衆電話」というふうには定義できない。
北川が探しているのは、こころの「距離」だからである。
言えない何かを言おうとする--その苦悩の中に、詩があらわれる。
ことばへの信頼--それが詩である。橋本和彦の「直線」を読み、そう感じた。そして、その感じをなんだか、なつかしいもののように感じた。
中学1年の数学の授業。「直線」の定義。それに誘われて動いたこころ。
「どこまでもつづく真っ直ぐな線のことを、直線と呼びます。」
(略)
「先生!」と、河野君がいきなり大きな声を上げた。「どこまでも続くって、どこまでですか?」
(略)
「いい質問だ。いまは黒板の中にしか描けないけれど、本当はこの教室をはみ出して、町や海さえ突き抜けて、宇宙の果てまで続く線だ。」
「うっ、宇宙!」今度は僕の後ろで細田君が、調子外れの声を出した。
ぼくも細田君もちょうど同じ気持ちだったのだと思う。教科書やノートの中にきっちり納まっていた数学が、突然、社会や理科さえ凌駕して、宇宙の果てを目指し始めたように思えた。(略)
しかし、その授業の後、僕の心の中には、確かに一本の直線が存在した。校庭に寝転んで何気なく空を見上げたときや、疲れて目を閉じたとき、銀色に輝く真っ直ぐな線が、どこまでも延びていくさまが、僕には確かに見えたのだ。
「直線の定義」は数学の問題である。数学は文学ではない。しかし、そのことばを信じるとき、そしてそのことばとともにそこにないものが含まれるとき、それは文学になる。ことばは、意味は、いつでも「余分なもの」「過剰なもの」、たとえばこの作品では「直線」の定義にあらわれた「宇宙」が、「余分なもの」であり「過剰なもの」にあたるが、そういうものの中へと逸脱する。そのとき、そこに文学が、詩があらわれてくる。ことばのなかの「余分なもの」「過剰なもの」を、こころが信じるとき、それは詩として確立する。「どこまでも」が「宇宙」に変化することで、「数学」が「詩」として、こころのなかにしっかり定着する。
そのよろこびが、この作品には結晶している。
詩への信頼、ことばへの信頼が、なつかしいもののようにして甦ってくる。
橋本の詩が教えてくれるのは、たしかになつかしさなのだと思う。詩が、ことばが信頼にたるものであり、その信頼が、私たちを、いま、ここにはない世界へと導いてくれる。その瞬間の、目眩のような、なつかしさ……。
だが、それだけでは「詩」は「現代詩」にはならないのだ、とも思った。
橋本は、この作品でさらにもう一つ「余分なもの」「過剰なもの」を持ち込んでいる。「余分なもの」「過剰なもの」へと逸脱していっている。「銀色に輝く真っ直ぐな線」の「銀色に輝く」。「直線」には「色」などない。「輝く」という運動もありえない。しかし、それを橋本は「ある」ものとして書いている。
この詩は、本当は、この「銀色に輝く真っ直ぐな線」を、もっともっと書き込まなければならない。そうでないと、「意味」で終わってしまう。「現代詩」にならない。
なぜ、銀色なのか。なぜ、輝くのか。
それは橋本にしかわからない。数学の授業で先生は「銀色」も「輝く」も言っていない。そのふたつには、橋本の「無意識」と「独自性」がある。それをみつめていくことは、流通する言語を批判することである。そして、その批判の中にこそ「現代」という時間が噴出してくる。そういうものをこそ、「現代詩」は書かなければならない。
橋本が、作品を「僕には確かに見えたのだ。」と過去形で締めくくっている。その過去形が象徴するように、橋本の作品は「過去・詩」であって、「現代・詩」ではない。だから、なつかしい。なつかしさを超えて、「現代」を描くために、何をしなければならないのか。それを考えなければならないと思った。
*
北川朱実「電話ボックスに降る雨」は、ことばを探している。橋本和彦と北川にある大きな違いは、ことばを探すか探さないかである。
「電話ボックスに降る雨」の後半。
いつだったか けんか別れした人に
公衆電話から電話をしたことがあった
長い沈黙のあと
--今、どこにいるの?
と聞かれたけれど
そこがどこなのかわからなかった
私は海に降る雨のことを思った
音もなく海面を叩いて
魚たちにすら知られることのない雨
どこでもない場所のまん中で
耳から何百年も前の音をあふれさせて
私は
遠い日との声を聞き取ろうとした
「どこなのかわからなかった」とは単に「場所」のことではない。そこがどこであろうと、その「場」と「けんか別れをした人」とを結ぶ「直線」がない。「私」と「けんか別れをした人」を結ぶ「直線」がない。「最短距離」がない。そればかりか「最長距離」すらもない。「定義」できない距離だけが、抽象的に「線」として放り出されている。不安定なまま、そこに存在している。
どういえばいいのか。
北川は「海に降る雨」で「定義」しようとする。「私」と「けんか別れをした人」との「距離」を定義できるとしたら、「海に降る雨」しかないのである。北川にとっては。数学のことば、たとえば「あなたの家から何キロ(何メートル)」では定義できない。地理のことばでも定義できない。「某街のガソリンスタンドの公衆電話」というふうには定義できない。
北川が探しているのは、こころの「距離」だからである。
言えない何かを言おうとする--その苦悩の中に、詩があらわれる。
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