監督 三谷幸喜 出演 佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行
いくつもの嘘が入り乱れる。「映画」そのものが「映画」という嘘である。その「嘘」のなかで、「嘘」がはじまる。それも「映画」という嘘が。そして、その「嘘=映画」を「映画という真実」と思い込んでいる人間(佐藤浩市)と、「映画ではない真実」と思い込んでいる人間(西田敏行)が、互いを誤解したまま動かして行く。佐藤浩市は西田敏行(とその周辺の人物)を役者だと思いこみ本物ののギャングとは思わない。西田敏行は佐藤浩市を本物の殺し屋だと思う。こうした展開のなかで、「偽物(殺し屋)」(佐藤浩市)が「本物(ギャングのボス)」(西田敏行)を超えてしまう、というのは、この種類の映画の基本的なパターンである。この映画もその基本を忠実に踏まえている。忠実に踏まえていながら、同時に、その忠実を超えようとしている。「映画」を前面に出すことで、いままでのパターンを突き抜けている。
特徴的なのが、佐藤と西田の出会いのシーンである。
佐藤は映画であると思っているから、同じ演技(?)を繰り返す。「映画」の取り直しだと思って、同じ演技を違ったバージョンでやり直す。西田の机の上に腰を下ろし、ナイフをなめる。そのなめながら同じことばを繰り返す。西田はそれを「映画」とは思っていないので、佐藤の行為に不気味さを感じる。普通の人間は、同じ行為を現実のなかで3回も繰り返さない。へたくそな「演技」もへたくそゆえに、異様さを強め、おもちゃのピストルさえ「度胸」(狂っている)の証明となる。「殺し屋」は常軌を逸している。狂っている。狂っているからこそ、殺し屋である--と論理的(?)に西田を説得してしまう。この掛け合いが絶妙である。
「カット」という単純な映画用語も効果的につかわれている。(単純ゆえに、おかしい。)嘘を仕組んだ妻夫木聡(佐藤にはインディーズの映画監督だと自己紹介している)は佐藤と西田の関係がどうにもならなくなると「カット」と叫ぶ。「撮影中止」。妻夫木は西田には「カット」は佐藤の仇名だと説明する。佐藤にはそういう説明はせず、佐藤は「カット」を撮影の中止を知らせることばだと信じている。この「嘘」が、ギャングの子分が「カット」と佐藤を呼んだとき、異様な効果を発揮する。「カットと言ったのはだれだ、カットと言えるのは(監督である)妻夫木だけなんだ」と突然怒りだす。「映画人」の本能が、異様な怒りとなってあらわれる。その怒りは「演技」ではなく「地」である。その「地」に他の人間が圧倒される。
へたくそな演技の不気味さが西田を圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。役者の本物の怒りが、西田の手下たちを圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。嘘の不気味さと本物の強さが佐藤の肉体で具現化されるのだけれど、これは佐藤が、自分のやっていることを「映画」だと信じているからこそなのである。
銃の密売(取引)のシーンも傑作である。佐藤は「演技」だから鞄のなかに「銃」を入れる必要はない。空っぽでも思い鞄をもっているという演技はできる、と思い、銃を鞄から取り出し、空っぽの鞄で取引現場に向かう。そして、取引開いてから「紙屑」の紙幣の鞄を渡されても驚かない。銃撃戦が始まっても驚かない。「映画」と信じているから。一方、西田たちは佐藤を「嘘の取引」を見破った切れ者と「誤解」する。
佐藤の「ほんとう」の役どころは、は売れない役者である。売れない役者であるからこそ、強いこだわりをもっている。こだわりが佐藤を「くさい」役者にしてしまい、それゆえに売れないという悪循環を生きているのだが、その「くささ」「異様さ」が、「役」としてではなく「地」として露骨にあらわれ、その露骨な「地」が、西田たちに「現実」そのものとしてたちあらわれる。佐藤は、いわば、「役」と「地」を交互にみせる演技するのだが、こんなにおもしろい役者だとは知らなかった。矛盾したものを瞬時に、連続的に演じる。そのスムーズなスピードがすばらしい。
この映画はちょっと見た目には、三谷幸喜の脚本がとてもよくできているので、おもしろさは脚本にあるという感じがするが、その脚本を佐藤の演技は超越している。凝った脚本は舞台では効果的だが映画では問題が多い。ストーリーが主役になって、映像がぎくしゃくしてしまう。
その「ぎくしゃく」を佐藤が、佐藤の「役」と「地」の演技の切り換えるスムーズなスピードが消して行く。西田との最初の出会い、西田の手下に対する怒り、銃取引の現場--そこにあらわれる佐藤の「狂気」と「ばか」と「純粋」。それは「売れない映画役者」というひとつの結晶に乱反射する強烈な光である。「狂気」「ばか」「純粋」を行き来するスピードが、あらゆる映像のぎくしゃくを消して行く。いい役者だ。とてもすばらしい。「雪に願うこと」の佐藤の演技も好きだが、今回の演技には、とても感心してしまった。映画の成功をひとりで担っている。佐藤浩市が好きになってしまった。
*
この映画では、もうひとり、好きになった。
ラストシーンが「映画讃歌」というか、「裏方讃歌」になっているのも、実は、この映画を魅力的にしている。ラストシーンで「映画」の「嘘」がそのまま現実で展開されるのだけれど、その「嘘」を準備する裏方のていねいな仕事。そういうものへの賛辞がこめられている。その裏方のなかには、この映画で演じた佐藤のような「裏方役者」も含まれている。映画にかかわるすべてのひとへの愛がこめられている。
このラストで、実は、私は三谷幸喜が好きになった。
*
コメディーのあとは、リアルな佐藤浩市の魅力があふれる映画も見てください。
雪のボールをぶっつけて、車の中の弟を呼び出すシーンがとても美しい。
ラストの雪晴れの朝の光は絶品。スクリーンを超えて新鮮な空気があふれてくる。
根岸吉太郎監督の傑作です。
いくつもの嘘が入り乱れる。「映画」そのものが「映画」という嘘である。その「嘘」のなかで、「嘘」がはじまる。それも「映画」という嘘が。そして、その「嘘=映画」を「映画という真実」と思い込んでいる人間(佐藤浩市)と、「映画ではない真実」と思い込んでいる人間(西田敏行)が、互いを誤解したまま動かして行く。佐藤浩市は西田敏行(とその周辺の人物)を役者だと思いこみ本物ののギャングとは思わない。西田敏行は佐藤浩市を本物の殺し屋だと思う。こうした展開のなかで、「偽物(殺し屋)」(佐藤浩市)が「本物(ギャングのボス)」(西田敏行)を超えてしまう、というのは、この種類の映画の基本的なパターンである。この映画もその基本を忠実に踏まえている。忠実に踏まえていながら、同時に、その忠実を超えようとしている。「映画」を前面に出すことで、いままでのパターンを突き抜けている。
特徴的なのが、佐藤と西田の出会いのシーンである。
佐藤は映画であると思っているから、同じ演技(?)を繰り返す。「映画」の取り直しだと思って、同じ演技を違ったバージョンでやり直す。西田の机の上に腰を下ろし、ナイフをなめる。そのなめながら同じことばを繰り返す。西田はそれを「映画」とは思っていないので、佐藤の行為に不気味さを感じる。普通の人間は、同じ行為を現実のなかで3回も繰り返さない。へたくそな「演技」もへたくそゆえに、異様さを強め、おもちゃのピストルさえ「度胸」(狂っている)の証明となる。「殺し屋」は常軌を逸している。狂っている。狂っているからこそ、殺し屋である--と論理的(?)に西田を説得してしまう。この掛け合いが絶妙である。
「カット」という単純な映画用語も効果的につかわれている。(単純ゆえに、おかしい。)嘘を仕組んだ妻夫木聡(佐藤にはインディーズの映画監督だと自己紹介している)は佐藤と西田の関係がどうにもならなくなると「カット」と叫ぶ。「撮影中止」。妻夫木は西田には「カット」は佐藤の仇名だと説明する。佐藤にはそういう説明はせず、佐藤は「カット」を撮影の中止を知らせることばだと信じている。この「嘘」が、ギャングの子分が「カット」と佐藤を呼んだとき、異様な効果を発揮する。「カットと言ったのはだれだ、カットと言えるのは(監督である)妻夫木だけなんだ」と突然怒りだす。「映画人」の本能が、異様な怒りとなってあらわれる。その怒りは「演技」ではなく「地」である。その「地」に他の人間が圧倒される。
へたくそな演技の不気味さが西田を圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。役者の本物の怒りが、西田の手下たちを圧倒し、佐藤を本物の殺し屋に仕立て上げる。嘘の不気味さと本物の強さが佐藤の肉体で具現化されるのだけれど、これは佐藤が、自分のやっていることを「映画」だと信じているからこそなのである。
銃の密売(取引)のシーンも傑作である。佐藤は「演技」だから鞄のなかに「銃」を入れる必要はない。空っぽでも思い鞄をもっているという演技はできる、と思い、銃を鞄から取り出し、空っぽの鞄で取引現場に向かう。そして、取引開いてから「紙屑」の紙幣の鞄を渡されても驚かない。銃撃戦が始まっても驚かない。「映画」と信じているから。一方、西田たちは佐藤を「嘘の取引」を見破った切れ者と「誤解」する。
佐藤の「ほんとう」の役どころは、は売れない役者である。売れない役者であるからこそ、強いこだわりをもっている。こだわりが佐藤を「くさい」役者にしてしまい、それゆえに売れないという悪循環を生きているのだが、その「くささ」「異様さ」が、「役」としてではなく「地」として露骨にあらわれ、その露骨な「地」が、西田たちに「現実」そのものとしてたちあらわれる。佐藤は、いわば、「役」と「地」を交互にみせる演技するのだが、こんなにおもしろい役者だとは知らなかった。矛盾したものを瞬時に、連続的に演じる。そのスムーズなスピードがすばらしい。
この映画はちょっと見た目には、三谷幸喜の脚本がとてもよくできているので、おもしろさは脚本にあるという感じがするが、その脚本を佐藤の演技は超越している。凝った脚本は舞台では効果的だが映画では問題が多い。ストーリーが主役になって、映像がぎくしゃくしてしまう。
その「ぎくしゃく」を佐藤が、佐藤の「役」と「地」の演技の切り換えるスムーズなスピードが消して行く。西田との最初の出会い、西田の手下に対する怒り、銃取引の現場--そこにあらわれる佐藤の「狂気」と「ばか」と「純粋」。それは「売れない映画役者」というひとつの結晶に乱反射する強烈な光である。「狂気」「ばか」「純粋」を行き来するスピードが、あらゆる映像のぎくしゃくを消して行く。いい役者だ。とてもすばらしい。「雪に願うこと」の佐藤の演技も好きだが、今回の演技には、とても感心してしまった。映画の成功をひとりで担っている。佐藤浩市が好きになってしまった。
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この映画では、もうひとり、好きになった。
ラストシーンが「映画讃歌」というか、「裏方讃歌」になっているのも、実は、この映画を魅力的にしている。ラストシーンで「映画」の「嘘」がそのまま現実で展開されるのだけれど、その「嘘」を準備する裏方のていねいな仕事。そういうものへの賛辞がこめられている。その裏方のなかには、この映画で演じた佐藤のような「裏方役者」も含まれている。映画にかかわるすべてのひとへの愛がこめられている。
このラストで、実は、私は三谷幸喜が好きになった。
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コメディーのあとは、リアルな佐藤浩市の魅力があふれる映画も見てください。
雪のボールをぶっつけて、車の中の弟を呼び出すシーンがとても美しい。
ラストの雪晴れの朝の光は絶品。スクリーンを超えて新鮮な空気があふれてくる。
根岸吉太郎監督の傑作です。
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