三井葉子『花』(7)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
きのう、坂多瑩子「母は」に触れながら、「私」と「母」が入れ替わるのを感じた。三井葉子も、それに似た感覚のことを書いている。
「月離(さか)る日離(さか)る里のはなふぶき」。その1連目。
「宿る」。誰かが誰かに。その逆も起きる。--これは、たとえば母がこどもを宿すということを例にとれば、そこに不可逆の「時間」があるから、絶対的にありえない。母が子を宿すということはあり得ても、子が母を宿すということは、「時間」の流れがめちゃくちゃになるから、そういうことは本来許されない。
何から許されないのか。
論理からである。「頭」からである。
そうであるなら、「頭」で考えるのをやめればいいのである。ただ「肉体」の感じだけを頼りにすれば、「時間」の流れは消えてしまい、そこには母と子が一体になる、ひとつの体になるということだけが存在する。
その一体感のなかで、母と子は簡単に入れ替わる。母が胎内の子の動きを感じる。それは母の肉体の内部のできごとだけれど、そういう動きを感じているとき、母は同時に子が母の肉体の存在を感じていることを知っている。腹を蹴る。そのときこどもの足が母の原の感触を感じていることを知っている。
内と外は簡単に入れ替わる。というよりも、もともと、そんなものは区別ができない。同時に存在する。そして、その「同時」という感覚が、不可逆の「時間の流れ」を消してしまう。「時間の流れ」が消えてしまうから、母が胎児であってもかまわないのだ。胎児が母であってもかまわないのだ。胎児と母が同時に存在しているということで、はじめて「いのち」がつながるのである。「同時」が存在しなければ、「いのち」はつながらないのだから。
私の書いていることは、奇妙に「論理的」すぎるかもしれない。
三井は、私の書いているような、面倒くさい「論理」をふりまわさない。簡単に「同時」のなかへ入っていって、するりと「いれかわり」をやってのける。
「同時」は、「入れ替わり」は「安堵」といっしょに存在する。母→子という時間の流れが消滅し、区別がなくなること、その瞬間の「安堵」。「同時」とは「安堵」以外の何者でもない。
この入れ替わりは、母と子の間だけで起きるのではない。他人との間でも起きるのである。たとえば三井は和泉式部の歌を読む。そうすると和泉式部は三井の胎内に入ってきて、胎児として成長する。「時間」の流れ(歴史の流れ)からいうと、三井は式部のはるかはるか先の「子」である可能性はあるが、その逆はない。式部が三井の「子」である可能性は、「時間」が阻止している。絶対に、ありえない。はずである。
しかし、強い共感によって、三井と式部の感覚が一体になるとき、その瞬間「時間」(歴史)は消えてしまう。「時間」が消えてしまうことが「一体」の真の意味である。
と詩を始めた三井は、最後には、まったく違った「場」にいる。
三井は式部の子孫(?)であることをやめて、ここでは突然式部の「母」になって、式部をあやしている。
そして、こうやって式部をあやすとき、「安堵」するのは式部だけではない。その「安堵」する式部を見て、三井自身も「安堵」するのである。
泣くこどもをあやす母。母にあやされてこどもがにっこり笑って安堵する。だが、そのとき安堵しているのはこどもだけではない。母こそが一番安堵している。安堵のなかで二人は一体になり、入れ替わる。泣き止み、にっこり笑うこどもの顔にこそ、母は安堵をもらう。母はあやされる。
この安堵のくりかえし、入れ替わりは、三井たち女性が、「時間」を消し去りながら共有してきた「宝」である。
こういう詩は、ほんとうにいい。すばらしい。美しい。
きのう、坂多瑩子「母は」に触れながら、「私」と「母」が入れ替わるのを感じた。三井葉子も、それに似た感覚のことを書いている。
「月離(さか)る日離(さか)る里のはなふぶき」。その1連目。
聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに
「宿る」。誰かが誰かに。その逆も起きる。--これは、たとえば母がこどもを宿すということを例にとれば、そこに不可逆の「時間」があるから、絶対的にありえない。母が子を宿すということはあり得ても、子が母を宿すということは、「時間」の流れがめちゃくちゃになるから、そういうことは本来許されない。
何から許されないのか。
論理からである。「頭」からである。
そうであるなら、「頭」で考えるのをやめればいいのである。ただ「肉体」の感じだけを頼りにすれば、「時間」の流れは消えてしまい、そこには母と子が一体になる、ひとつの体になるということだけが存在する。
その一体感のなかで、母と子は簡単に入れ替わる。母が胎内の子の動きを感じる。それは母の肉体の内部のできごとだけれど、そういう動きを感じているとき、母は同時に子が母の肉体の存在を感じていることを知っている。腹を蹴る。そのときこどもの足が母の原の感触を感じていることを知っている。
内と外は簡単に入れ替わる。というよりも、もともと、そんなものは区別ができない。同時に存在する。そして、その「同時」という感覚が、不可逆の「時間の流れ」を消してしまう。「時間の流れ」が消えてしまうから、母が胎児であってもかまわないのだ。胎児が母であってもかまわないのだ。胎児と母が同時に存在しているということで、はじめて「いのち」がつながるのである。「同時」が存在しなければ、「いのち」はつながらないのだから。
私の書いていることは、奇妙に「論理的」すぎるかもしれない。
三井は、私の書いているような、面倒くさい「論理」をふりまわさない。簡単に「同時」のなかへ入っていって、するりと「いれかわり」をやってのける。
いとしまれて育ったはずの
内ではない外で
日に会い
かなたにこそ向いていとしまれたはずの わたしのいま
子の胎にいると思うわたしの安堵を
「同時」は、「入れ替わり」は「安堵」といっしょに存在する。母→子という時間の流れが消滅し、区別がなくなること、その瞬間の「安堵」。「同時」とは「安堵」以外の何者でもない。
この入れ替わりは、母と子の間だけで起きるのではない。他人との間でも起きるのである。たとえば三井は和泉式部の歌を読む。そうすると和泉式部は三井の胎内に入ってきて、胎児として成長する。「時間」の流れ(歴史の流れ)からいうと、三井は式部のはるかはるか先の「子」である可能性はあるが、その逆はない。式部が三井の「子」である可能性は、「時間」が阻止している。絶対に、ありえない。はずである。
しかし、強い共感によって、三井と式部の感覚が一体になるとき、その瞬間「時間」(歴史)は消えてしまう。「時間」が消えてしまうことが「一体」の真の意味である。
聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに
と詩を始めた三井は、最後には、まったく違った「場」にいる。
式部は泣くかしら くらきよりくらき道をあるいた式部は まっかな
かおをして 泣くかしら
おお お
よしよし。
三井は式部の子孫(?)であることをやめて、ここでは突然式部の「母」になって、式部をあやしている。
そして、こうやって式部をあやすとき、「安堵」するのは式部だけではない。その「安堵」する式部を見て、三井自身も「安堵」するのである。
泣くこどもをあやす母。母にあやされてこどもがにっこり笑って安堵する。だが、そのとき安堵しているのはこどもだけではない。母こそが一番安堵している。安堵のなかで二人は一体になり、入れ替わる。泣き止み、にっこり笑うこどもの顔にこそ、母は安堵をもらう。母はあやされる。
この安堵のくりかえし、入れ替わりは、三井たち女性が、「時間」を消し去りながら共有してきた「宝」である。
こういう詩は、ほんとうにいい。すばらしい。美しい。
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