詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「南独逸の旅の前と後」(2)

2012-01-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「南独逸の旅の前と後」(2)(「現代詩手帖」2012年01月号)

 「4」には「辺見じゅんの訃をきいて」という「前書き」というか、サブタイトルが突いている。
 ドイツへ旅に出る前に、突然訃報が飛び込んできて、そのときのことをそのまま書いているのだと思う。あらかじめ書くことを予定していたのではないけれど、そういうことがおきたので書いた、という感じでことばが動いている。--つまり、前の部分とはっきりした脈絡があるわけではない。

辺見さん あなたはあのときまだ三十代の若さだった
人生逃亡者として愛知県の一隅に身をひそめてゐたわたしに
インタビューするためにあなたは来た
伊良湖岬 恋路(こいじ)が浜
「中年の恋つて ありますか 岡井さん」
砂の上にぺたりと座り込んだわたしを
あなたの柔い声が刺した

 ここを読みながら、私はきのう書いたことを思い出している。
 きのう、私は「1」の最後の2行に触れながら、こう書いた。

法師蝉、今年最後のかれらの声が清めてくれてゐるこの空間をわた
しはしばらく捨てて行くのだ

 「声が清めてくれる」の「清める」ということば。
 ことばは、何かを「清める」ためにある。
 「意味」をつたえるためにではなく、いま/ここを清めるのがことば、歌(和歌/短歌)の力なのかもしれない。それが、岡井のことばの奥にはあるということかもしれない。不思議な音楽と、それぶつかる「現実」。「現実」を内部から統合していく「音楽」としてのことばの動き--論理化できない何かを、私は、直感として岡井のことばに感じる。
 そのこととは、少し似ていて、少し違うのだが、岡井は辺見じゅんの声に、やはり清められたのではないのかと思うのだ。
 そのときの「清める」とは「現実」と向き合うということかもしれない。
 ひとは誰でも「現実」と向き合っているけれど、どうじに「現実」から逃避している。
 岡井は「人生の逃亡者」と書いているが、そのとき岡井は何かから逃げていた。そして、逃げながら何かと向き合っていた。いわば、矛盾していた。その矛盾を辺見のことばはまっすぐに突いてきたのである。「刺した」と岡井は書いているが、そのまっすぐさに岡井は刺されたということだろう。
 このとき--岡井は清められるのだと思う。「矛盾」が一瞬、消える。「矛盾」を「矛盾」のままにしておけない。
 こういう瞬間のために、他人は存在する。
 こういう瞬間かがあるから、私たちは他人と生きているのだ。

 それは、脈絡のないこととも関係がある。脈絡というのは、「本人の意図」ということである。だれでも自分自身の「意図・意思」をもっている。けれど、世界はそういう「意図・意思」とは無関係に、つまり脈絡もなく動く。
 岡井が何を考えようが関係なく法師蝉は鳴く。そして、辺見じゅんは死んでしまう。

 このことは、岡井がドイツへ旅立つことと何の関係もない。辺見の訃報に接しても、接しなくても、岡井の予定はそのまま進むだろう。(いや、葬儀とかいろいろあって、それに参列するために日程が多少違ってくるということはあるかもしれないが……。)
 それは人間を「リセット」する。
 脈絡のなさが、脈絡を切断し、もう一度人間を出発させてくれる。
 この「リセット」と「清める」がどこかでつながっている。

 「リセット」としての「清め」。
 それは、いわば書かなくてもいいことかもしれない。でも、岡井は、書く。それはなぜか。
 書きたい「意味」など、ないからだ。--ないというのは、乱暴な言い方になるが、書きたいことが最初から「設定されていない」ということだ。「結論」はないのだ。
 書きたいことはなく、ただ書くという行為がある。
 書きたい「意味」はなく、ただ書くという行為がある。
 「書く」ことが、ことばを動かすことが「リセット」だからである。

 辺見じゅんの訃報をきいて、こころが動く。ことばが動く。それは岡井がこの詩で書いてきたこととは関係がない。言い換えると、この詩を書きはじめたとき、書こうと想定したいたことではない。書きはじめたとき、訃報が飛び込んできて、その現実に突き動かされて、そのことを書く。思い出を書く。
 それは、岡井を「清める」。そして、岡井が「清められる」とき、辺見も「清らかになる」。うまく言えないが、そういう関係、そういう運動がここに起きている。
 辺見じゅんのことを私はよく知らないが、あ、こんなふうにまっすぐに質問する清らかな人だったんだと思う。清らかな印象がぱーっと広がる。それが「清める」ということ。この瞬間、岡井もとても「清らか」になる。
 この「清らか」を持って、岡井はドイツへ旅立つのだと思う。

 「6」では、岡井は、まだ日本にいる(ようである。)

辺見じゅんの遺志を継いで「幻戯書房」からわたしの『木下杢太郎
評伝』が出るかもしれない わたしはそれを書きつづけるだろう
十月十五日木下杢太郎の忌日にわたしは南ドイツの暗黒の森あたり
にゐるだろう

世界を覆ふものすさまじい
落葉の雨
世界を覆ふ ものすさまじい
落葉の 雨

 この、後半の4行が、私には美しく感じられる。「意味」ではなく、ただ「美」がそこにある、という感じだ。
 「世界を覆ふものすさまじい/落葉の雨」には、「意味」があるかもしれない。けれど、それが繰り返されるときに、「1字あき」を含んで「世界を覆ふ ものすさまじい/落葉の 雨」になると、まるで、「意味」がない。
 「意味」ではなく、そこには「もの」と「音」だけがある。
 その「ことば」の「音」になった「清らかさ」が、そこにある。
 そして、これは「4」の辺見じゅんの質問につながっていく。というか、その瞬間「4」の辺見じゅんの「声」がよみがえってくる。

「中年の恋つて ありますか 岡井さん」

 その1行にも「1字あき」があった。それは「散文的な質問」ではなく、「音楽」だったのだ。「リセット」を促す「意味」であるだけではなく、「音楽」がそこにあったのだと思う。
 「音楽」というのは、自分の「意図・意思」とは無関係なところで動いている「声」そのものかもしれない。
 だから岡井は清められたのだ。
 --書きながら、私は私の書いていることにとんでもない「飛躍」があるなあ、と思う。思うけれど、その「飛躍」を埋める方法はない。
 辺見の質問、その声は「ものすさまじい」ものだったかもしれない。けれど、それは「ものすさまじい」ことによって岡井を清めたのだ。
 論理化できないことを、論理化せずに、私は、ここでは、ただそう書いておく。(いつの日か、書き直す、あるいは何かを書き加えることがあるかもしれない。)

 そして、そのこととつながりがあるかどうか、はっきりしないのだが、こんなことも私は考えた。
 「7」。

青空から降りて来たみたいな その
強力な一人に従ひたい
昔むかし読んだ「指導と信従」つてことば
個として信じられる偉(おほ)きな一人に従つてゆきたい

 この「一人」とは、引用して来なかった「5」の部分にでてくる男、キリストみたいな男かもしれないが、私は「4」の辺見じゅんを思うのである。
 「青空から降りて来たみたいな」のあとに、「キリストみたいな」ではなく、「清潔な」ということばを補って、辺見につなげたい気持ちになる。
 「声」が「人間」になる。「声」が「意味」ではなく「人間」になる。そして「人間」は(他者は)、もうひとりの「他者」を「清める」。そのとき、二人のあいだには「意味」ではなく「音楽」が鳴り響く。
 それは、「世界を覆ふ ものすさまじい/落葉の 雨」のような感じ。

 私の「日記」は感想・批評になっていないね。「意味」がないのだから。「意味」を含まないのだから。
 「意味」を含まないついでに(?)、書いておく。
 「8」の部分。
 これは、まあ、ドイツから帰ってあとということになるのかな?

柔いのがいい
時間を歩ける靴がいい
華は ないのがいい
仲間と語り合わせてあつまるのはいやだ
でも
数人 ひそかに 冬ざれの池のまはりを
徘徊 つてのも乙(おつ)
しつかり着こんで
灰色の毛糸帽をかぶつて
老いを盾にふせぐ寒気つてのもわるくない

 最後の1行は、どういう「意味」だろう。「意味」は関係ない--と書きながら、私はこんなふうに思うのである。
 寒い。それを若者のように我慢するのではなく、老人だから厚着をして(老人だから厚着をしたっていいさ、と開き直って)、寒さを防ぐ--そのときの寒気っていうのもなかなかいいなあ。そういうふうに、自分を甘やかす(?)のもいいなあ、と思う。
 で、また「4」に戻るのだけれど、「人生逃亡者」のある時代。岡井は「現実」から逃げ、同時に「現実」に向き合う。その「矛盾」。それを突き刺しながら、同時に清めていく声を思うのだ。

あなたの柔い声が刺した

 「柔い」ということばのなかにある「甘やかし」。--と書くと、きっと違うのだけれど。「救い」のようなもの。

 とりとめのないことをあれこれ思う。何の「結論」も出てこない。岡井のこの詩がいい詩なのか、普通の詩なのか--よくわからないが、私は、こんなふうに「結論」のでないことを考えるのが好きである。

 「南独逸の旅の前と後」というタイトルについても、ふと、こんなことを考えた。「前と後」ということは、そこには「間(あいだ)」がある。そして、その「間」の部分というのは「独逸」にいる時間なのだけれど。
 でも、ここに書かれているのは、その肝心(?)のドイツではなく、日本にいる岡井の姿・時間である。
 そして、それが「間」ではなく、「前と後」と書かれていて、実際そのとおりなのだが、なぜか、ここに書かれているのは「間(あいだ)」という感じがする。岡井が生きているときの「間(あいだ)」。岡井が他人と出会い、そこでことばが動き、岡井も変われば他人も変わる--そのときの、「変化」としての「場」。「場」の「間(あいだ)」というものを感じる。
 --論理的に詰めていくと、私の書いていることは、整合性がなく、矛盾しているのだけれど。




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岡井 隆
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