瀬崎祐『窓都市、水の在りか』(思潮社、2012年01月20日発行)
「祝祭」という詩で、はっ、と驚いた。
「器具」と書かれているのは「包丁」だろう。「包丁」をわざわざ「器具」と言い換えることで、ことばは少し迂回する。この迂回--いつもとは違うところを通ることば、「流通言語」からずれるところに詩はあるのだけれど、一昨日読んだ荒川洋治の「アルプス」の「矢車」と違って、この「器具」はわかりやすすぎる。こういう「直接性」を私は好まない。あ、いやだなあ、こういう言い換えは、と思ったのだが……。
びっくりというか、なんというか……。
瀬崎の書いていることは、魚を調理する--たぶん刺身(活け造り)にするということなのだと思うが。
うーん。
魚って、「定められた」形をもっていない? 魚は魚自身で、魚のかたちをしている。それは魚にとって「さだめられたもの」である。
で、私は、この1行を読んだとき、「わたし(瀬崎、と仮に呼んでおく)」が魚を活け造りにととのえるというよりも、刺身にされながら、包丁で切り刻まれながら、魚自身が自分で刺身の形に体をととのえるのだ--という不思議な錯覚に襲われたのである。
「器具」という単刀直入な「比喩」の力で、この1行のなかの「ずれ」のようなものが、不思議な力で逆襲してくるのを感じたのだ。
「包丁」が「器具」ではなく、「包丁」ということばで書かれていたら、この不思議さは違ったものになったような気がする。--これについては、うまく説明できないのだけれど。
で。(というか、なんというか。)
魚は魚自身の形をしている。ひとが切り刻む刺身は不完全な形である。だから、魚は魚自身の力で魚の理想(?)の形に自分をととのえていく。
どうしても、そんなふうに思ってしまうのである。
この詩は、
と、つづいていく。されるがままになっている魚--身をかたくして神妙である、はどうしても包丁で捌かれる魚であるから、私の読み方は「誤読」なのだが。
「誤読」とわかっているのだが。
うーん。
魚が自分である形(活け造り)になっていくとしか思えない。「器具」ということばの無機質性(?)が、魚のなかの「有機質性」といしての「造形力」(ゲシュタルトっていうんだっけ?)を刺激する。「包丁」だと、この「造形力」への以降がきっと違ってくる。
「象徴となる」の「象徴」が、私の思い込みに拍車をかける。「活け造り」は魚そのものではなく、魚の象徴である。魚でありながら、魚を超えた象徴である。他人の手によって象徴になるなんてつまらない。象徴になるなら、自分の力でなってやる--という魚の声が聞こえてくるのである。ここにも何かを「造形する力」、内部から存在を統合する力がある。
で、そのつづき。
私は「誤読」をさらにすすめる。
「わたし」は「かたちを追ってはいけない」。それは、魚が自分で「活け造り」の形を完成させるからである。「わたし」が「わたしのなかにある魚の形を追って」、「活け造りとして魚を再現する」ということはしてはならない。魚のなすがままにまかせる--それが魚のほんとうの「味」になるのだから。
「わたし」は「魚」にさそわれるままに、光る部分と影の部分の境界をたどる。そうすれば、そこに、おのずと「理想の魚のかたち」が「あらわれてくる」。
彫刻家は石のなかに、掘り進む彫像の形があるという。形をつくりだすのではなく、石のなかから形が誕生するのを手助けするだけ--のと同じように、「わたし(瀬崎)」は魚が「活け造り」になるのを手助けするだけ。
ね、おもしろいでしょ?
ここでも、私の「誤読」はつづく。
「魚の体のなかに器具がさぐりあてる祝祭」--包丁は「さぐりあてる」だけなのだ。「包丁」は何もつくらない。つくるのは魚である。魚のなかに、すでに「祝祭」がある。魚は、世界として「完成」している。完成している世界を、人間の目にも見えるものに形をととのえる。食べられるものに形をととのえる。自分自身で。
というようなことを考えるのだが。
実は、一か所、「誤読」になじまない部分がある。なじまない--というのは、まあ、私の直感で、あれ、ここは一筋縄ではいかないぞと思うということである。
「誤読」なのだから、私が悪いだけなのだが、あ、ここに不思議なことばがある。つまずきの石がある。言い換えると、瀬崎の「思想」そのものがある、と直感することばがあるのだ。
それは、
の「境界」である。
「光る部分」「影の部分」は「魚のかたち」「わたしが思い描いているかたち」かもしれない。ふたつの「かたち」が出会う--そして、その出会いがつくりだす「境界」かもしれない。人間の「造形力」と魚の「造形力」が出会う。その境目。人間と魚の、内部から自身を統合する力の境目。境界。
で。
「境界」って何?
「境目」「境の線(面?)」--という具合のことは、なんとなくわかるのだけれど、何かことばが足りない--私のなかで、「あ、これが境界だ」と「定義」できるような、なにか、納得できる何かがみつからない。
特にそれが魚と人間の「統合力」の境目というと、何か、とても変な気持ちになる。わからない。でも、わかりたい。何かがわかっているようにかんじるけれど、はっきりと何とは言えない。
瀬崎が、ここで何かを言おうとしている--それが私にはわかっていない、つかみきれていない、という思いがとても強くなる。
「境界」とは何なのか。
その答えを私は「窓都市」のなかに見つける。--つまり「窓都市」を私は私の都合のいいように「誤読」するということなのだが……。
「窓都市」というのは、そこに何が書いてあるかということを説明するのはちょっとめんどうくさい。だから、「ストーリー(内容)」を紹介することは省略して、途中を引用する。
窓の「外部」と「内部」。そこに「境界」はないだろうか。
窓の「外部」と「内部」は、さっき読んだ詩の「魚を捌くもの(わたし、瀬崎)の思い描くかたち」つまり「外部(者)のかたち」と、「魚そのものが内部にもっているかたち」ということにならないだろうか。
それはパラレルの関係にないだろうか。
「祝祭」で「境界」と呼ばれていたものは、ここでは「つなぐもの」と呼ばれていないだろうか。
私は、この「つなぐもの」ということばに触れた瞬間に、瀬崎がとても身近に感じられたのである。瀬崎の「肉体」を感じたのである。
瀬崎は「境界」を「わける」ものではなく「つなぐ」ものと感じている。「境界」は実は、つながっている。つながっているから「境界」が必要なのだ。
あまりいい例ではないが、日本と中国は離れている。二つの間には「国境」があるはずだが、海があいだにあって「境界」を日常的には必要としていない。でも、これが中国と北朝鮮、あるいはモンゴルだとすると「国境」という「境界(線)」が日常的に必要になる。中国と北朝鮮、中国とモンゴルは陸地で「つながっている」。だから、それを分ける「境界」が必要である。国境線を地上に引く必要がある。
「境界」は「分かれ目」を指し示すけれど、それが必要なのは「つながっている」殻なのだ。
生身の魚、活け造りとして調理された魚--それは、ほんとうは「つながっている」。「つながっている」からこそ、魚は自分で自分の活け造りの形をととのえる、と思う。(これは、私の「誤読」なのだけれど。)
だから、「わたし(瀬崎)」は、それを「切り離す」。
あ、そうすると、さっき書いた「光る部分」と「影の部分」について書いてきたことがちょっとまずいね。さっき私は「魚自身の思い描くかたち」と「わたし(瀬崎)の思い描く形」というふうに書いたけれど、いまの私の「論理」では、「魚の生身のかたち」と「魚の活け造りのかたち」ということになる。
でも、これは、まあ、勢いで(方便で?)そんなふうになるだけで、詩だから、厳密に論理を追ってもしようがないのだ。だいたい二つの詩を強引につないで何かを引き出そうとしているのだから、どうしたって「ねじれ」や「ずれ」がそこには生まれてしまう。
どこかで「論理」がごちゃごちゃに混じって、混乱したまま納得してしまうのが詩というものだから、こういうところはいい加減でいいのだ。厳密に論理を追うと、詩は、詩である必要がなくなるからね。
(と、ごまかしておいて……。)
長くなるので、「日記」を切り上げるために書いてしまうと(私は40分で一回の日記を書き上げないと、目が疲れてしまう。きょうは時間がオーバーしてしまった。)、瀬崎の「思想」は「つなぐ」というところにある。ある存在がある。そして「わたし(瀬崎)」がいる。そこにはたいてい「空間」があり、二つの存在は離れている。離れているけれど、そこには「境界」がある。分けるものがある。分けるものがあるのだけれど、それは「つなぐ」ものでもある。
「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。
あらゆるものは「わかれ」ながら、変な具合に(つまり独自の関係で)「つながる」。「境界」に線を引くということは、二つの領分を、あるところで「つなぐ」ことである。そして、その「領分」は、線のひき方でどうにでもなる。だから「国境争い」などというものも起きる。
魚を料理するとき、その「境目」、その「つなぎめ」をどう理解するかで(処理するか)で、おいしくもなれば、まずくもなる。
その変な領域を瀬崎は、行ったり来たりしている。行ったり来たりすることで、領域を広げている。「境界」を「線」ではなく、「面」にしている。「面」をさらに「立体」にしている。つまり、豊かな「広がり」(可能性)にしている。ことばは、そのなかで、とんでもない味になる。
2012年の最初に読むべき一冊である。
*
補足(メモ)。
「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。--これは「存在内部からの統合力」(造形力)という視点からみると、もっとわかりやすい形で日記を書き直すことができるかもしれない。
存在の(人間でも魚でも都市でもいいのだけれど)、内部に存在する「統合力」、「自己を造形していく力」、「分ける」と「つなぐ」を行き来しながら拡大していくものだと思う。
「祝祭」という詩で、はっ、と驚いた。
脂ののった魚の腹を左手でおさえ
先端の尖った器具をまっすぐに右手ににぎる
胸鰭のあたりから器具を刺し
魚のかたちを定められたものにととのえていく
「器具」と書かれているのは「包丁」だろう。「包丁」をわざわざ「器具」と言い換えることで、ことばは少し迂回する。この迂回--いつもとは違うところを通ることば、「流通言語」からずれるところに詩はあるのだけれど、一昨日読んだ荒川洋治の「アルプス」の「矢車」と違って、この「器具」はわかりやすすぎる。こういう「直接性」を私は好まない。あ、いやだなあ、こういう言い換えは、と思ったのだが……。
魚のかたちを定められたものにととのえていく
びっくりというか、なんというか……。
瀬崎の書いていることは、魚を調理する--たぶん刺身(活け造り)にするということなのだと思うが。
うーん。
魚って、「定められた」形をもっていない? 魚は魚自身で、魚のかたちをしている。それは魚にとって「さだめられたもの」である。
で、私は、この1行を読んだとき、「わたし(瀬崎、と仮に呼んでおく)」が魚を活け造りにととのえるというよりも、刺身にされながら、包丁で切り刻まれながら、魚自身が自分で刺身の形に体をととのえるのだ--という不思議な錯覚に襲われたのである。
「器具」という単刀直入な「比喩」の力で、この1行のなかの「ずれ」のようなものが、不思議な力で逆襲してくるのを感じたのだ。
「包丁」が「器具」ではなく、「包丁」ということばで書かれていたら、この不思議さは違ったものになったような気がする。--これについては、うまく説明できないのだけれど。
で。(というか、なんというか。)
魚は魚自身の形をしている。ひとが切り刻む刺身は不完全な形である。だから、魚は魚自身の力で魚の理想(?)の形に自分をととのえていく。
どうしても、そんなふうに思ってしまうのである。
この詩は、
身をかたくして魚は神妙だ
生臭さを失って魚は象徴となる
と、つづいていく。されるがままになっている魚--身をかたくして神妙である、はどうしても包丁で捌かれる魚であるから、私の読み方は「誤読」なのだが。
「誤読」とわかっているのだが。
うーん。
魚が自分である形(活け造り)になっていくとしか思えない。「器具」ということばの無機質性(?)が、魚のなかの「有機質性」といしての「造形力」(ゲシュタルトっていうんだっけ?)を刺激する。「包丁」だと、この「造形力」への以降がきっと違ってくる。
「象徴となる」の「象徴」が、私の思い込みに拍車をかける。「活け造り」は魚そのものではなく、魚の象徴である。魚でありながら、魚を超えた象徴である。他人の手によって象徴になるなんてつまらない。象徴になるなら、自分の力でなってやる--という魚の声が聞こえてくるのである。ここにも何かを「造形する力」、内部から存在を統合する力がある。
で、そのつづき。
わたしをとらえているのは
かたちを追ってはいけないという思いだけ
光る部分と影の部分の境界をたどれば
かたちは冷気のなかからあらわれてくる
私は「誤読」をさらにすすめる。
「わたし」は「かたちを追ってはいけない」。それは、魚が自分で「活け造り」の形を完成させるからである。「わたし」が「わたしのなかにある魚の形を追って」、「活け造りとして魚を再現する」ということはしてはならない。魚のなすがままにまかせる--それが魚のほんとうの「味」になるのだから。
「わたし」は「魚」にさそわれるままに、光る部分と影の部分の境界をたどる。そうすれば、そこに、おのずと「理想の魚のかたち」が「あらわれてくる」。
彫刻家は石のなかに、掘り進む彫像の形があるという。形をつくりだすのではなく、石のなかから形が誕生するのを手助けするだけ--のと同じように、「わたし(瀬崎)」は魚が「活け造り」になるのを手助けするだけ。
ね、おもしろいでしょ?
そのように伝承をたどり
魚の体のなかに器具がさぐりあてる祝祭がある
遠い街ではだれかが祝福をうけている
祝福を与えてる喜びでわたしの右手は歓喜となる
ここでも、私の「誤読」はつづく。
「魚の体のなかに器具がさぐりあてる祝祭」--包丁は「さぐりあてる」だけなのだ。「包丁」は何もつくらない。つくるのは魚である。魚のなかに、すでに「祝祭」がある。魚は、世界として「完成」している。完成している世界を、人間の目にも見えるものに形をととのえる。食べられるものに形をととのえる。自分自身で。
というようなことを考えるのだが。
実は、一か所、「誤読」になじまない部分がある。なじまない--というのは、まあ、私の直感で、あれ、ここは一筋縄ではいかないぞと思うということである。
「誤読」なのだから、私が悪いだけなのだが、あ、ここに不思議なことばがある。つまずきの石がある。言い換えると、瀬崎の「思想」そのものがある、と直感することばがあるのだ。
それは、
光る部分と影の部分の境界をたどれば
の「境界」である。
「光る部分」「影の部分」は「魚のかたち」「わたしが思い描いているかたち」かもしれない。ふたつの「かたち」が出会う--そして、その出会いがつくりだす「境界」かもしれない。人間の「造形力」と魚の「造形力」が出会う。その境目。人間と魚の、内部から自身を統合する力の境目。境界。
で。
「境界」って何?
「境目」「境の線(面?)」--という具合のことは、なんとなくわかるのだけれど、何かことばが足りない--私のなかで、「あ、これが境界だ」と「定義」できるような、なにか、納得できる何かがみつからない。
特にそれが魚と人間の「統合力」の境目というと、何か、とても変な気持ちになる。わからない。でも、わかりたい。何かがわかっているようにかんじるけれど、はっきりと何とは言えない。
瀬崎が、ここで何かを言おうとしている--それが私にはわかっていない、つかみきれていない、という思いがとても強くなる。
「境界」とは何なのか。
その答えを私は「窓都市」のなかに見つける。--つまり「窓都市」を私は私の都合のいいように「誤読」するということなのだが……。
「窓都市」というのは、そこに何が書いてあるかということを説明するのはちょっとめんどうくさい。だから、「ストーリー(内容)」を紹介することは省略して、途中を引用する。
このように 窓は見るもののために存在しているのであ
り 見えるもののために存在しているのではなかった
窓は 窓の外部と内部を視線でつなぐものであって 身
体を交流させるためのものではなかったのである
窓の「外部」と「内部」。そこに「境界」はないだろうか。
窓の「外部」と「内部」は、さっき読んだ詩の「魚を捌くもの(わたし、瀬崎)の思い描くかたち」つまり「外部(者)のかたち」と、「魚そのものが内部にもっているかたち」ということにならないだろうか。
それはパラレルの関係にないだろうか。
「祝祭」で「境界」と呼ばれていたものは、ここでは「つなぐもの」と呼ばれていないだろうか。
私は、この「つなぐもの」ということばに触れた瞬間に、瀬崎がとても身近に感じられたのである。瀬崎の「肉体」を感じたのである。
瀬崎は「境界」を「わける」ものではなく「つなぐ」ものと感じている。「境界」は実は、つながっている。つながっているから「境界」が必要なのだ。
あまりいい例ではないが、日本と中国は離れている。二つの間には「国境」があるはずだが、海があいだにあって「境界」を日常的には必要としていない。でも、これが中国と北朝鮮、あるいはモンゴルだとすると「国境」という「境界(線)」が日常的に必要になる。中国と北朝鮮、中国とモンゴルは陸地で「つながっている」。だから、それを分ける「境界」が必要である。国境線を地上に引く必要がある。
「境界」は「分かれ目」を指し示すけれど、それが必要なのは「つながっている」殻なのだ。
生身の魚、活け造りとして調理された魚--それは、ほんとうは「つながっている」。「つながっている」からこそ、魚は自分で自分の活け造りの形をととのえる、と思う。(これは、私の「誤読」なのだけれど。)
だから、「わたし(瀬崎)」は、それを「切り離す」。
あ、そうすると、さっき書いた「光る部分」と「影の部分」について書いてきたことがちょっとまずいね。さっき私は「魚自身の思い描くかたち」と「わたし(瀬崎)の思い描く形」というふうに書いたけれど、いまの私の「論理」では、「魚の生身のかたち」と「魚の活け造りのかたち」ということになる。
でも、これは、まあ、勢いで(方便で?)そんなふうになるだけで、詩だから、厳密に論理を追ってもしようがないのだ。だいたい二つの詩を強引につないで何かを引き出そうとしているのだから、どうしたって「ねじれ」や「ずれ」がそこには生まれてしまう。
どこかで「論理」がごちゃごちゃに混じって、混乱したまま納得してしまうのが詩というものだから、こういうところはいい加減でいいのだ。厳密に論理を追うと、詩は、詩である必要がなくなるからね。
(と、ごまかしておいて……。)
長くなるので、「日記」を切り上げるために書いてしまうと(私は40分で一回の日記を書き上げないと、目が疲れてしまう。きょうは時間がオーバーしてしまった。)、瀬崎の「思想」は「つなぐ」というところにある。ある存在がある。そして「わたし(瀬崎)」がいる。そこにはたいてい「空間」があり、二つの存在は離れている。離れているけれど、そこには「境界」がある。分けるものがある。分けるものがあるのだけれど、それは「つなぐ」ものでもある。
「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。
あらゆるものは「わかれ」ながら、変な具合に(つまり独自の関係で)「つながる」。「境界」に線を引くということは、二つの領分を、あるところで「つなぐ」ことである。そして、その「領分」は、線のひき方でどうにでもなる。だから「国境争い」などというものも起きる。
魚を料理するとき、その「境目」、その「つなぎめ」をどう理解するかで(処理するか)で、おいしくもなれば、まずくもなる。
その変な領域を瀬崎は、行ったり来たりしている。行ったり来たりすることで、領域を広げている。「境界」を「線」ではなく、「面」にしている。「面」をさらに「立体」にしている。つまり、豊かな「広がり」(可能性)にしている。ことばは、そのなかで、とんでもない味になる。
2012年の最初に読むべき一冊である。
*
補足(メモ)。
「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。--これは「存在内部からの統合力」(造形力)という視点からみると、もっとわかりやすい形で日記を書き直すことができるかもしれない。
存在の(人間でも魚でも都市でもいいのだけれど)、内部に存在する「統合力」、「自己を造形していく力」、「分ける」と「つなぐ」を行き来しながら拡大していくものだと思う。
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