詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「秋の庭」

2012-01-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「秋の庭」(「どぅるかまら」11、2012年01月10日発行)

 河邉由紀恵のことばは、切断と接続の具合がどうも変である。
 「秋の庭」の1連目。

空がひくく
たれた秋草のなかで
わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる
 
 私は行目でつまずく。
 「たれた秋草」(くたびれた秋草)が目に浮かぶ。
 しかし、それでいいのかな?
 「たれた」は「秋草」を修飾することばでいいのかな?
 よくわからない。
 1行目の「空がひくく/たれた」と続いていくのかもしれない。
 ふつうは、どう書くのか。書き方に「ふつう」はないのかもしれないが、私なら最初の2行は

空がひくくたれた
秋草のなかで

 となる。
 空がひくく垂れている--と書いたあとで、句点「。」を置き、それから「秋草のなかで」と場面転換(?)する。けれど河邉は「空がひくく」で切断してしまう。そのため、「たれた秋草」という変なことばが動きはじめる。
 「たれた秋草」がひとつのことばなら、「たれた」って、何がたれている。葉っぱ? それとも花? あるいは実? 何かわからないけれど、何かが「垂れている」、草の一部が「垂れている」という具合になる。
 そして、それが「空がひくく/たれた」よりも、おもしろい。
 奇妙な言い方を承知で書くのだが、「空がひくく/たれた」は、一種の「流通言語の詩」である。「描写」である。「常套句」といえばいいのか。
 一方、「たれた秋草」は「流通言語の詩」を拒絶して、変になまなましい。「○○がたれた秋草」ならふつうの言い方だが、主語の「○○が」がないために、奇妙に何かがなまなましい。
 「主語」を切断されて、そのまま「秋草」にことばが接続されていくとき、そこに不思議な何かを感じる。
 これは、3行目で、さらにねじれる。

わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる

 書いてあることは不思議なことでもなんでもない。草を刈っているだけのことである。それでも、私には、そのことばがとてもなまなましく、奇妙に感じられる。
 なぜか。

といだ鎌で

 そこにある「といだ」が奇妙なのである。「言い過ぎ」なのである。なぜ、わざわざ「といだ(研いだ)」ということばがあるのだろう。錆びた鎌ではなく、よく切れるように研いだ鎌であることを強調したいから--と言われれば返すことばがないのだが、私はどうも落ち着かない。
 「荒れた/庭」「はびこる/草」「といだ/鎌」と修飾語がいちいちついてまわるのがうるさいからだろうか。
 違うなあ。
 どうも、ことばが、鎌で草を刈り取る--と単純に動いていかず、「荒れた」「はびこる」「といだ」といちいちい逸脱していく感じかするのだ。
 そこに書かれているのは「草を刈る」という行為ではなく、「荒れた」「はびこる」「といだ」という「逸脱」の方であると私は直感してしまう。
 そして、このなかでは、特に「といだ」が異様に逸脱している。「荒れた」や「はびこる」は「わたし」とは関係がない。それは「庭」や「草」の一種の属性である。ところが「といだ」には「わたし」の行為がからんでいる。私が鎌を「といで」、そしてその鎌で草を刈る。草を刈る前に、鎌を「といでいる」。そのことを、河邉はわざわざ書いている。
 草を刈るという行為の前に、鎌を研ぐという行為がある。その二つの行為の切断と接続--それは逸脱と収斂かもしれないのだが、その矛盾とは言わないけれど、不思議な「余剰」としての肉体が、
 うーん。
 なまなましい。
 直前の「空がひくく/たれた秋草のなかで」にも、何か、それに共通する「呼吸」がある。肉体に触れてくる何かがある。

がざりざり九本ずつ左手でたばねて刈りとられるさだ
めの笹葉たちやみょうがたち枝にからまる枯れたやぶ
がらしのながい蔓をわたしは刈りとるがざりざりああ

 「がざりざり」という音が、とてもいい。「といだ鎌」が無残に硬いものにぶつかりながら、壊れながら、それでも何かを切っていく。刈り取っていく。その濁った強さがいい。ここにも、「肉体」が深く深くからんでいる。鎌を「といだ」肉体の記憶が、鎌の音、その悲鳴を聞き取るのである。

本当に刈ってゆくのがどんなに楽しい音なのかとうて
い誰もきづかないけれどがざりざりはわたしだけのじ
ゅう低音だから

 「重低音」ではなく「じゅう低音」。
 ここで「流通言語」に反逆しているのはなんだろう。「じゅう」というひらがなである。意味を拒絶して、「音」そのものを生きている。そのとき、耳が、つまり肉体が聞き取るのは「重低音」ではない音、「ずれ」そのもの、「逸脱」と私が仮に呼んだものである。
 それは、それでは、いったい何?
 そんなふうに問われたら私は答えることができないのだが、でも、そこがおもしろい。不思議に私の肉体を刺激してくる--というか、逆だね、河邉の、会ったこともない女性の肉体を知らず知らず思い浮かべてしまう。あ、それが肉体を刺激されるということなんだけれど。

 で、詩のつづく。

                  がざりざり穴
まどいのみどりの蛇がでてほんとうはずうっとおとこ
がほしいのよとやわらかい舌をぬらせてうったえるど
うしてもおとこと一緒にさんざしの生け垣をおしわけ
てくらい巣穴にはいりたい冬になる前にふかい穴の底
にこもりたいとなまのうろこをかたい庭にこすりつけ
て泣いている蛇の濃みつどは笹葉のしたやぶがらしの
うら萩のうえをはいまわるわたしの脳髄のおくまでた
っする気のとおくなるようなじゅう低音となるけれど

 あっ、と私は叫んでしまったところがある。勘違いならいいのだけれど、

濃みつど

 これを何と読むか。
 私は「のうみつど」と読んで、あ、私は河邉になってしまったと感じたのだ。
 他人の肉体、他人のことばを読む(聞く、感じる)ではなく、自分のことばのように、膿のようなものが私をつつんだように感じたのだ。「膿みつど」という文字まで身近にせまってきた。そしてこれが「脳」髄の奥まで広がったら、それは「膿」髄? 「濃」髄? そして、その「肉体」の「みつど(密度)」は?
 いやあ、知りたくないなあ。
 知りたくないのだけれど、ここまで来てしまうと「じゅう低音」に飲み込まれているんだろうなあ。
 切断と接続なんて、頭で処理できる世界はどこかへ消えてしまっている。
 困ったぞ。




桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
コメント
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