河邉由紀恵「秋の庭」(「どぅるかまら」11、2012年01月10日発行)
河邉由紀恵のことばは、切断と接続の具合がどうも変である。
「秋の庭」の1連目。
私は行目でつまずく。
「たれた秋草」(くたびれた秋草)が目に浮かぶ。
しかし、それでいいのかな?
「たれた」は「秋草」を修飾することばでいいのかな?
よくわからない。
1行目の「空がひくく/たれた」と続いていくのかもしれない。
ふつうは、どう書くのか。書き方に「ふつう」はないのかもしれないが、私なら最初の2行は
となる。
空がひくく垂れている--と書いたあとで、句点「。」を置き、それから「秋草のなかで」と場面転換(?)する。けれど河邉は「空がひくく」で切断してしまう。そのため、「たれた秋草」という変なことばが動きはじめる。
「たれた秋草」がひとつのことばなら、「たれた」って、何がたれている。葉っぱ? それとも花? あるいは実? 何かわからないけれど、何かが「垂れている」、草の一部が「垂れている」という具合になる。
そして、それが「空がひくく/たれた」よりも、おもしろい。
奇妙な言い方を承知で書くのだが、「空がひくく/たれた」は、一種の「流通言語の詩」である。「描写」である。「常套句」といえばいいのか。
一方、「たれた秋草」は「流通言語の詩」を拒絶して、変になまなましい。「○○がたれた秋草」ならふつうの言い方だが、主語の「○○が」がないために、奇妙に何かがなまなましい。
「主語」を切断されて、そのまま「秋草」にことばが接続されていくとき、そこに不思議な何かを感じる。
これは、3行目で、さらにねじれる。
書いてあることは不思議なことでもなんでもない。草を刈っているだけのことである。それでも、私には、そのことばがとてもなまなましく、奇妙に感じられる。
なぜか。
そこにある「といだ」が奇妙なのである。「言い過ぎ」なのである。なぜ、わざわざ「といだ(研いだ)」ということばがあるのだろう。錆びた鎌ではなく、よく切れるように研いだ鎌であることを強調したいから--と言われれば返すことばがないのだが、私はどうも落ち着かない。
「荒れた/庭」「はびこる/草」「といだ/鎌」と修飾語がいちいちついてまわるのがうるさいからだろうか。
違うなあ。
どうも、ことばが、鎌で草を刈り取る--と単純に動いていかず、「荒れた」「はびこる」「といだ」といちいちい逸脱していく感じかするのだ。
そこに書かれているのは「草を刈る」という行為ではなく、「荒れた」「はびこる」「といだ」という「逸脱」の方であると私は直感してしまう。
そして、このなかでは、特に「といだ」が異様に逸脱している。「荒れた」や「はびこる」は「わたし」とは関係がない。それは「庭」や「草」の一種の属性である。ところが「といだ」には「わたし」の行為がからんでいる。私が鎌を「といで」、そしてその鎌で草を刈る。草を刈る前に、鎌を「といでいる」。そのことを、河邉はわざわざ書いている。
草を刈るという行為の前に、鎌を研ぐという行為がある。その二つの行為の切断と接続--それは逸脱と収斂かもしれないのだが、その矛盾とは言わないけれど、不思議な「余剰」としての肉体が、
うーん。
なまなましい。
直前の「空がひくく/たれた秋草のなかで」にも、何か、それに共通する「呼吸」がある。肉体に触れてくる何かがある。
「がざりざり」という音が、とてもいい。「といだ鎌」が無残に硬いものにぶつかりながら、壊れながら、それでも何かを切っていく。刈り取っていく。その濁った強さがいい。ここにも、「肉体」が深く深くからんでいる。鎌を「といだ」肉体の記憶が、鎌の音、その悲鳴を聞き取るのである。
「重低音」ではなく「じゅう低音」。
ここで「流通言語」に反逆しているのはなんだろう。「じゅう」というひらがなである。意味を拒絶して、「音」そのものを生きている。そのとき、耳が、つまり肉体が聞き取るのは「重低音」ではない音、「ずれ」そのもの、「逸脱」と私が仮に呼んだものである。
それは、それでは、いったい何?
そんなふうに問われたら私は答えることができないのだが、でも、そこがおもしろい。不思議に私の肉体を刺激してくる--というか、逆だね、河邉の、会ったこともない女性の肉体を知らず知らず思い浮かべてしまう。あ、それが肉体を刺激されるということなんだけれど。
で、詩のつづく。
あっ、と私は叫んでしまったところがある。勘違いならいいのだけれど、
これを何と読むか。
私は「のうみつど」と読んで、あ、私は河邉になってしまったと感じたのだ。
他人の肉体、他人のことばを読む(聞く、感じる)ではなく、自分のことばのように、膿のようなものが私をつつんだように感じたのだ。「膿みつど」という文字まで身近にせまってきた。そしてこれが「脳」髄の奥まで広がったら、それは「膿」髄? 「濃」髄? そして、その「肉体」の「みつど(密度)」は?
いやあ、知りたくないなあ。
知りたくないのだけれど、ここまで来てしまうと「じゅう低音」に飲み込まれているんだろうなあ。
切断と接続なんて、頭で処理できる世界はどこかへ消えてしまっている。
困ったぞ。
河邉由紀恵のことばは、切断と接続の具合がどうも変である。
「秋の庭」の1連目。
空がひくく
たれた秋草のなかで
わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる
私は行目でつまずく。
「たれた秋草」(くたびれた秋草)が目に浮かぶ。
しかし、それでいいのかな?
「たれた」は「秋草」を修飾することばでいいのかな?
よくわからない。
1行目の「空がひくく/たれた」と続いていくのかもしれない。
ふつうは、どう書くのか。書き方に「ふつう」はないのかもしれないが、私なら最初の2行は
空がひくくたれた
秋草のなかで
となる。
空がひくく垂れている--と書いたあとで、句点「。」を置き、それから「秋草のなかで」と場面転換(?)する。けれど河邉は「空がひくく」で切断してしまう。そのため、「たれた秋草」という変なことばが動きはじめる。
「たれた秋草」がひとつのことばなら、「たれた」って、何がたれている。葉っぱ? それとも花? あるいは実? 何かわからないけれど、何かが「垂れている」、草の一部が「垂れている」という具合になる。
そして、それが「空がひくく/たれた」よりも、おもしろい。
奇妙な言い方を承知で書くのだが、「空がひくく/たれた」は、一種の「流通言語の詩」である。「描写」である。「常套句」といえばいいのか。
一方、「たれた秋草」は「流通言語の詩」を拒絶して、変になまなましい。「○○がたれた秋草」ならふつうの言い方だが、主語の「○○が」がないために、奇妙に何かがなまなましい。
「主語」を切断されて、そのまま「秋草」にことばが接続されていくとき、そこに不思議な何かを感じる。
これは、3行目で、さらにねじれる。
わたしは荒れた庭にはびこる草をといだ鎌で刈りとる
書いてあることは不思議なことでもなんでもない。草を刈っているだけのことである。それでも、私には、そのことばがとてもなまなましく、奇妙に感じられる。
なぜか。
といだ鎌で
そこにある「といだ」が奇妙なのである。「言い過ぎ」なのである。なぜ、わざわざ「といだ(研いだ)」ということばがあるのだろう。錆びた鎌ではなく、よく切れるように研いだ鎌であることを強調したいから--と言われれば返すことばがないのだが、私はどうも落ち着かない。
「荒れた/庭」「はびこる/草」「といだ/鎌」と修飾語がいちいちついてまわるのがうるさいからだろうか。
違うなあ。
どうも、ことばが、鎌で草を刈り取る--と単純に動いていかず、「荒れた」「はびこる」「といだ」といちいちい逸脱していく感じかするのだ。
そこに書かれているのは「草を刈る」という行為ではなく、「荒れた」「はびこる」「といだ」という「逸脱」の方であると私は直感してしまう。
そして、このなかでは、特に「といだ」が異様に逸脱している。「荒れた」や「はびこる」は「わたし」とは関係がない。それは「庭」や「草」の一種の属性である。ところが「といだ」には「わたし」の行為がからんでいる。私が鎌を「といで」、そしてその鎌で草を刈る。草を刈る前に、鎌を「といでいる」。そのことを、河邉はわざわざ書いている。
草を刈るという行為の前に、鎌を研ぐという行為がある。その二つの行為の切断と接続--それは逸脱と収斂かもしれないのだが、その矛盾とは言わないけれど、不思議な「余剰」としての肉体が、
うーん。
なまなましい。
直前の「空がひくく/たれた秋草のなかで」にも、何か、それに共通する「呼吸」がある。肉体に触れてくる何かがある。
がざりざり九本ずつ左手でたばねて刈りとられるさだ
めの笹葉たちやみょうがたち枝にからまる枯れたやぶ
がらしのながい蔓をわたしは刈りとるがざりざりああ
「がざりざり」という音が、とてもいい。「といだ鎌」が無残に硬いものにぶつかりながら、壊れながら、それでも何かを切っていく。刈り取っていく。その濁った強さがいい。ここにも、「肉体」が深く深くからんでいる。鎌を「といだ」肉体の記憶が、鎌の音、その悲鳴を聞き取るのである。
本当に刈ってゆくのがどんなに楽しい音なのかとうて
い誰もきづかないけれどがざりざりはわたしだけのじ
ゅう低音だから
「重低音」ではなく「じゅう低音」。
ここで「流通言語」に反逆しているのはなんだろう。「じゅう」というひらがなである。意味を拒絶して、「音」そのものを生きている。そのとき、耳が、つまり肉体が聞き取るのは「重低音」ではない音、「ずれ」そのもの、「逸脱」と私が仮に呼んだものである。
それは、それでは、いったい何?
そんなふうに問われたら私は答えることができないのだが、でも、そこがおもしろい。不思議に私の肉体を刺激してくる--というか、逆だね、河邉の、会ったこともない女性の肉体を知らず知らず思い浮かべてしまう。あ、それが肉体を刺激されるということなんだけれど。
で、詩のつづく。
がざりざり穴
まどいのみどりの蛇がでてほんとうはずうっとおとこ
がほしいのよとやわらかい舌をぬらせてうったえるど
うしてもおとこと一緒にさんざしの生け垣をおしわけ
てくらい巣穴にはいりたい冬になる前にふかい穴の底
にこもりたいとなまのうろこをかたい庭にこすりつけ
て泣いている蛇の濃みつどは笹葉のしたやぶがらしの
うら萩のうえをはいまわるわたしの脳髄のおくまでた
っする気のとおくなるようなじゅう低音となるけれど
あっ、と私は叫んでしまったところがある。勘違いならいいのだけれど、
濃みつど
これを何と読むか。
私は「のうみつど」と読んで、あ、私は河邉になってしまったと感じたのだ。
他人の肉体、他人のことばを読む(聞く、感じる)ではなく、自分のことばのように、膿のようなものが私をつつんだように感じたのだ。「膿みつど」という文字まで身近にせまってきた。そしてこれが「脳」髄の奥まで広がったら、それは「膿」髄? 「濃」髄? そして、その「肉体」の「みつど(密度)」は?
いやあ、知りたくないなあ。
知りたくないのだけれど、ここまで来てしまうと「じゅう低音」に飲み込まれているんだろうなあ。
切断と接続なんて、頭で処理できる世界はどこかへ消えてしまっている。
困ったぞ。
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