暁方ミセイ『ウイルスちゃん』(思潮社、2011年10月15日発行)
詩集を読むとき、最初に出会う詩がとても気になる。最初の詩がおもしろくないと、次の詩へ入っていくことができない。
暁方ミセイ『ウイルスちゃん』の巻頭の詩は「呼応が丘 二〇〇九年五月十四日」。
この短い行と長い行がつくりだす不規則なリズムは、私にはなんだか気持ちが悪いのだが、3行目、
この行に惹きつけられてしまった。
なぜだろう。
「しがつ」がひらがなのせい? 「しがつの霊感の、稀薄な呼気」のことばが重なるようにして動いていくところ? たぶん、この重なり--重なることで世界が深くなるような印象に惹かれたのだ。
そのあとのことばが「肺」ではなく、「肺胞」であるのも印象に残る。前の積みかさなったことばがあるから「肺」ではだめなのだ。「肺胞」とことばが重なった--重なってできたことばが必要なのだ。そこに、ある不思議なことばの肉体、ことばが自分自身でつくりだしていくリズムを感じた。
少し進むと、
という行が出てくる。ここには「重なる」がことばそのものとして書かれている。そして、その「重なる」は実は「対象」ではなく、「眼差し」。
あ、そうなのだ。
暁方は「見えるもの」を重ねているのではなく、「眼差し」そのものを重ねている。つまり、それは「眼差し」の記憶、あるいは「眼差し」の予感かもしれない。「いま/ここ」にないものを「重ねる」のである。
ことば、そのものを「重ねる」のかもしれない。
「おもたい青空の、見える一層一層から」は正確には(?)、「おもたい青空を見る、その眼差しのひとつひとつから」ということになるかもしれない。青空を見る。見るたびに、その「眼差し」に「眼差しが見たもの(眼差しが見てきた青空)」の記憶が重なる。そして「層」をつくっていく。そうやって、重くなっていくということだろう。
見る--それも重ねて見る、というのが暁方の肉体(思想)であると、私は直感した。
たぶん、その直感に影響されてしまっているのだろうけれど、
という「堆積・層」「重み(これは重なることで重くなる、ということだろう)」「積」ということばが目に飛び込んでくる。さらに、その「積む」が常に「底」を意識していることを感じさせる。
では、「底」は「青空」のどこになるのだろう。「青空」の「底」というのは矛盾だが、矛盾ゆえに--その矛盾を通して見えるものが、ひどく印象に残る。その「底」はほんとうに存在するのではなく、「眼差し」によってつくられる「底」なのだ。
世界は存在するのではなく、「眼差し」がつくっていく、つくりあげるものなのだ。
だからこそ、次の2行が可能になる。
「透明が濃密になる」とはどういうことか。「透明度が高くなる」ということなら、それが「見えるようになる」というのは激しい矛盾である。見えないから「透明」なのである。「透明」がさらに「透明になる(濃密になる)」なら、いっそう見えなくなるはずである。論理的には。あるいは科学的(?)には。
しかし、暁方は「見えるようになる」と書く。
これは「透明」を見た「眼差し」の、その力が「濃密になる」ということだろう。眼差しの力が濃密になる--というのは、比喩なので、論理的ではないが--透明を見た眼差しの記憶、それが煮詰まるように重たく重なるということだろう。
こうした眼差しの堆積(層)を生きるからこそ、暁方には「渇湖」のような作品も必然として存在する。その形をそのまま引用するのはとても面倒なのでテキトウに説明すると、詩集の上段と下段に別のことばが動くという詩である。(詩集の80-81ページ参照)
こういう作品を「読む」とき、ひとはどう読むのかわからない。上から読んで、下を読むのか。下を読んでから上を読むのか。また、私は朗読はしないが、もし朗読するとしたら、どうなるのか。朗読は別にして、ただ「黙読」するときに限って言えば、上を先に読もうが下を先に読もうがどっちでもいいのだろう。それが「地層」のように重なっている。そして、その重なりはなぜ重なりであるとわかるかといえば、上と下とことばの性質が違うからである--ということが大事なのだろう。
重なる、堆積する--ということは、違うものが重なるということである。
だから、
というとき、そこには違う性質の眼差しが重ねられていったということになる。
は、「透明」と感じる違う性質の眼差しが重ねられ、濃密になる--違いが濃密になるということになる。
「眼差し」の記憶、「眼差し」の肉体は、ひとつひとつが「違う」。だからこそ重なることで「層」をつくることができる。
この「眼差し」の「違い」。この「違い」を支えるものは何?
よくわからないのだが、次の部分が手がかりになるかもしれない。
「違う」ではなく「同じ」ということばがここに出てくる。ここでの「同じ」は「同じ属性」という表現であり、それはうまい具合に私の予感していることとはつながってくれないのだけれど--「からだ」というものがある。「わたしのからだ」--それは「樹林や薄氷や、凍えた反射光」と「同じ」。でも、「眼差し」は、その「からだ」が「同じ」であることを超越して「違う」何かを見る。あるいは見るたびに「違う・眼差し」になる。
「わたしのからだ」は「同じ・ひとつ」だが、そのからだのなかで「眼差し」だけが特権的に「違う」存在、つまり複数である--というのが暁方の「肉体」(思想)なのだと思った。
この「違う」と「同じ」の交錯というか、重なりが暁方にとっては詩なのだ。
この行の「しがつ」「霊感」「稀薄」「呼気」は、別個なことばであるけれど、それは「わたしというひとつのからだ」の「複数の眼差し」がとらえた、「何かひとつ」のものの姿なのである。
そこにある「もの(存在・いのち)」は「ひとつ」。それと対峙する「わたしのからだ」も「ひとつ」。でも、「眼差し」は複数存在するのだ。
こういうとき、その「眼差し」をささえるのは何か。「ことばの伝統」と考えると、暁方の詩は高貝弘也の「ことばの肉体」とどこか通い合うものがある。「眼差し」とはいうものの、それは「視力」であるよりも、「ことば」の記憶である。暁方も高貝も「ことばの記憶(ことばの肉体)」で世界と向き合っているように思える。
高貝なら、そうは書かないだろうけれど、あ、高貝だと私が感じたのは、次の部分。
何がどうとは言えないのだけれど、「震撼」と「輪郭線」のよびかわすことばの響き具合がなんともいえない。美しい。
詩集を読むとき、最初に出会う詩がとても気になる。最初の詩がおもしろくないと、次の詩へ入っていくことができない。
暁方ミセイ『ウイルスちゃん』の巻頭の詩は「呼応が丘 二〇〇九年五月十四日」。
緑地帯から
発光している
しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて
そのまま一生沈黙したい
この短い行と長い行がつくりだす不規則なリズムは、私にはなんだか気持ちが悪いのだが、3行目、
しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて
この行に惹きつけられてしまった。
なぜだろう。
「しがつ」がひらがなのせい? 「しがつの霊感の、稀薄な呼気」のことばが重なるようにして動いていくところ? たぶん、この重なり--重なることで世界が深くなるような印象に惹かれたのだ。
そのあとのことばが「肺」ではなく、「肺胞」であるのも印象に残る。前の積みかさなったことばがあるから「肺」ではだめなのだ。「肺胞」とことばが重なった--重なってできたことばが必要なのだ。そこに、ある不思議なことばの肉体、ことばが自分自身でつくりだしていくリズムを感じた。
少し進むと、
静かになるためには、眼差しを一枚ずつ重ねていった
おもたい青空の、見える一層一層から
という行が出てくる。ここには「重なる」がことばそのものとして書かれている。そして、その「重なる」は実は「対象」ではなく、「眼差し」。
あ、そうなのだ。
暁方は「見えるもの」を重ねているのではなく、「眼差し」そのものを重ねている。つまり、それは「眼差し」の記憶、あるいは「眼差し」の予感かもしれない。「いま/ここ」にないものを「重ねる」のである。
ことば、そのものを「重ねる」のかもしれない。
「おもたい青空の、見える一層一層から」は正確には(?)、「おもたい青空を見る、その眼差しのひとつひとつから」ということになるかもしれない。青空を見る。見るたびに、その「眼差し」に「眼差しが見たもの(眼差しが見てきた青空)」の記憶が重なる。そして「層」をつくっていく。そうやって、重くなっていくということだろう。
見る--それも重ねて見る、というのが暁方の肉体(思想)であると、私は直感した。
たぶん、その直感に影響されてしまっているのだろうけれど、
まばゆい飽和だ
こんなに
朝の底の
ひかりの堆積層へ降る、 (「世界葬」)
睡眠の重みが
やわらかな光の多層の
底の方へ降り積もる (「死なない朝」)
生きている時間を
閉じ込めておいて
日々の堆積層。 (「死なない朝」)
という「堆積・層」「重み(これは重なることで重くなる、ということだろう)」「積」ということばが目に飛び込んでくる。さらに、その「積む」が常に「底」を意識していることを感じさせる。
おもたい青空の、見える一層一層から
では、「底」は「青空」のどこになるのだろう。「青空」の「底」というのは矛盾だが、矛盾ゆえに--その矛盾を通して見えるものが、ひどく印象に残る。その「底」はほんとうに存在するのではなく、「眼差し」によってつくられる「底」なのだ。
世界は存在するのではなく、「眼差し」がつくっていく、つくりあげるものなのだ。
だからこそ、次の2行が可能になる。
透明が濃密になって
どの窓からも見えるようになる朝 (「死なない朝」)
「透明が濃密になる」とはどういうことか。「透明度が高くなる」ということなら、それが「見えるようになる」というのは激しい矛盾である。見えないから「透明」なのである。「透明」がさらに「透明になる(濃密になる)」なら、いっそう見えなくなるはずである。論理的には。あるいは科学的(?)には。
しかし、暁方は「見えるようになる」と書く。
これは「透明」を見た「眼差し」の、その力が「濃密になる」ということだろう。眼差しの力が濃密になる--というのは、比喩なので、論理的ではないが--透明を見た眼差しの記憶、それが煮詰まるように重たく重なるということだろう。
こうした眼差しの堆積(層)を生きるからこそ、暁方には「渇湖」のような作品も必然として存在する。その形をそのまま引用するのはとても面倒なのでテキトウに説明すると、詩集の上段と下段に別のことばが動くという詩である。(詩集の80-81ページ参照)
こういう作品を「読む」とき、ひとはどう読むのかわからない。上から読んで、下を読むのか。下を読んでから上を読むのか。また、私は朗読はしないが、もし朗読するとしたら、どうなるのか。朗読は別にして、ただ「黙読」するときに限って言えば、上を先に読もうが下を先に読もうがどっちでもいいのだろう。それが「地層」のように重なっている。そして、その重なりはなぜ重なりであるとわかるかといえば、上と下とことばの性質が違うからである--ということが大事なのだろう。
重なる、堆積する--ということは、違うものが重なるということである。
だから、
眼差しを一枚ずつ重ねていった
というとき、そこには違う性質の眼差しが重ねられていったということになる。
透明が濃密になって
は、「透明」と感じる違う性質の眼差しが重ねられ、濃密になる--違いが濃密になるということになる。
「眼差し」の記憶、「眼差し」の肉体は、ひとつひとつが「違う」。だからこそ重なることで「層」をつくることができる。
この「眼差し」の「違い」。この「違い」を支えるものは何?
よくわからないのだが、次の部分が手がかりになるかもしれない。
ほのかな熱が頬のうえに降る
樹林や薄氷や、凍えた反射光と
同じ属性にある
わたしのからだ
「違う」ではなく「同じ」ということばがここに出てくる。ここでの「同じ」は「同じ属性」という表現であり、それはうまい具合に私の予感していることとはつながってくれないのだけれど--「からだ」というものがある。「わたしのからだ」--それは「樹林や薄氷や、凍えた反射光」と「同じ」。でも、「眼差し」は、その「からだ」が「同じ」であることを超越して「違う」何かを見る。あるいは見るたびに「違う・眼差し」になる。
「わたしのからだ」は「同じ・ひとつ」だが、そのからだのなかで「眼差し」だけが特権的に「違う」存在、つまり複数である--というのが暁方の「肉体」(思想)なのだと思った。
この「違う」と「同じ」の交錯というか、重なりが暁方にとっては詩なのだ。
しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて
この行の「しがつ」「霊感」「稀薄」「呼気」は、別個なことばであるけれど、それは「わたしというひとつのからだ」の「複数の眼差し」がとらえた、「何かひとつ」のものの姿なのである。
そこにある「もの(存在・いのち)」は「ひとつ」。それと対峙する「わたしのからだ」も「ひとつ」。でも、「眼差し」は複数存在するのだ。
こういうとき、その「眼差し」をささえるのは何か。「ことばの伝統」と考えると、暁方の詩は高貝弘也の「ことばの肉体」とどこか通い合うものがある。「眼差し」とはいうものの、それは「視力」であるよりも、「ことば」の記憶である。暁方も高貝も「ことばの記憶(ことばの肉体)」で世界と向き合っているように思える。
高貝なら、そうは書かないだろうけれど、あ、高貝だと私が感じたのは、次の部分。
通りすぎるまで
街や大通りの喧騒の
ひとつの上空からくる
雨だれのなかへ埋没していくことを、
ふいに震撼する
あなたとわたしの
輪郭線や
何がどうとは言えないのだけれど、「震撼」と「輪郭線」のよびかわすことばの響き具合がなんともいえない。美しい。
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