小池昌代『自虐布団』(本阿弥書店、2011年12月08日発行)
小池昌代『自虐布団』は短編集。最初の「醜い父の歌う子守唄」に「時間の隙間からは永遠が見え、」ということばが出てくる。小説に限らず、文学はみな「瞬間の隙間から永遠が見え」るときのことを書こうとしていると思う。そのとき、「永遠」とはどんな形をしているか。何に存在基盤をおいているか。「永遠」なのだから存在基盤など必要ないのかもしれないけれど……。
小池はいろいろなことを書いているが、私が「永遠」を感じるのは、たとえば、
ここでは、ことばはまず「耳で聞くと」と聴覚の問題として語られている。しかし、その聴覚で「詩」と「死」が区別できないと書いた後、すぐに「叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。」と「発音」の問題に変わってしまう。
そして、その「発音」は「快楽」に変わってしまう。
「口内」の「快楽」。肉体の快楽。
この「変化」のなかに、そして、変化をつなぐものに、私は「永遠」を感じる。
人間の「肉体」なかには(感覚のなか、精神のなか、というひともいるかもしれない)、それぞれが独立しながら、何かと混じり合うものがある。
ことばを考えるとき、小池が書いているように、聞くという要素があり、また話すという要素がある。そして、それぞれに耳が対応し、口(喉)が対応する。耳と口は名前が違うのだからもちろん別個の存在なのだが、肉体としてつながっていて、その肉体としてつなぎとめるなにか、特定できない力が協力して動く。
で、その耳と口をつなぎとめ、ことばを肉体に引き入れる力--それが動くとき、小池はそこに「快楽」を見つけ出している。
そこが、私は好きだ。
それも(というのは、ちょっと論理的ではない言い方なのだけれど)、精神の快楽ではなく、「口内の快楽」(肉体の快楽)。
このとき「永遠」は「どこ」にあるのか。
「肉体」のなかにある。
--永遠を発見するとは、肉体を発見することなのだ、と私は思う。
ことばと肉体。肉体はことばにふれて、肉体のなかに永遠を発見する。そういうことが、この短編集のひとつのテーマだと思う。
「凍れる蝶」の次の部分も、とても好きだ。
ここでは主人公は「冬ざれ」の「意味」を理解していない。理解しているのかもしれないけれど、どういう意味かということを書かずに、「石畳に靴底がこすれる感じ」と自分の肉体が体験したこと、そしてそのとき感じたことの方へことばをひっぱっていってしまっている。「意味」よりも、自分の肉体と感覚、肉体がおぼえているものを「耳」で復元して俳句をつかみ取ろうとしている。
このとき、主人公の解釈は間違っているかもしれない。
しかし、間違っていても、そのとき「永遠」が見える--のだと私は思う。
「正しい解釈」と「誤った解釈」の「隙間」から「永遠」が見える。「肉体」のなかに残っている「音」が見える。
ことばは「意味」である前に音である。それは耳で聞くもの。そして口(喉)をつかって発するもの。聞いて、発して。発して、聞いて。その繰り返しのなかで、「意味」が「肉体」のなかにたまってくる。「意味」がととのってくる。
そこには「誤解・誤読」が混じっているかもしれない。
でも、その「誤解・誤読」は、もしかすると「ほんとう」の何かかもしれない。
「頭」は「ほんとう」だけを選びとるわけではない。「ほんとう」を選んでしまうとめんどうくさいので、あえて「うそ」も選びとるという操作を「頭」はすることができるが、「肉体」はそんな具合にはいかない。肉体は「快楽」の方を選んでしまう。こっちの方が気持ちがいいから、こっちでいい。そのときの「間違った選択」のなかに、「永遠」がある。間違えることができるという不思議な永遠がある。
--ということが、それこそ、ちらっ、ちらっと見える作品集である。
あ、「苦痛」なのかに見える「永遠」も、補足しておく。やはり「凍れる蝶」のなかの部分。
小池は「苦痛」とは書かずに「違和感」と書いているのだが、これは「快楽」とは逆のものだね。それを主人公は肉体で「覚えている」。
「覚えている」(覚える)というのは不思議なもので、「知る」わけではないが、「知る」を超えている。
たとえば自転車に乗る。泳ぐ。そういうことを私たちは「肉体」で「覚える」。そうすると、長い間それをしていないくても自転車に乗れる。泳げる。どんな仕組み(?)で自転車が転ばないのか、肉体が沈んでしまわないのか--そんなことは説明できないが、ちゃんと肉体をつかって、肉体で動いていける。「つかえる」というのが「覚える」の力である。
「快楽」も「肉体」で「覚える」が、「苦痛(違和感)」も「肉体」で「覚える」。
そして、その「覚えている」何かを、もう一度「肉体」のなかへ探しに行って、「覚えている」ことを復元するとき--その力のなかに「永遠」はある、と私は小池のことばを読みながら感じた。
(補足の補足)
この本棚の部分を、「詩」(しっ、口内の快楽)や「冬ざれ」と比較すると、おもしろいことがひとつある。
小池が肯定的にとらえている「永遠」には、「口」「耳」など、音が関係しているが、否定的にとらえている「永遠(違和感)」には音がない。本棚の「ことば」を主人公は口に出して「違和感」を感じているのではない。「目」で「見て」感じている。
目で見ることばよりも、小池は耳で聞き、口にすることばが好きなのだと思う。
小池昌代『自虐布団』は短編集。最初の「醜い父の歌う子守唄」に「時間の隙間からは永遠が見え、」ということばが出てくる。小説に限らず、文学はみな「瞬間の隙間から永遠が見え」るときのことを書こうとしていると思う。そのとき、「永遠」とはどんな形をしているか。何に存在基盤をおいているか。「永遠」なのだから存在基盤など必要ないのかもしれないけれど……。
小池はいろいろなことを書いているが、私が「永遠」を感じるのは、たとえば、
「詩」という言葉は不吉である。耳で聞くと、「死」と区別をつけることができない。しかし「しっ」という、叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。
ここでは、ことばはまず「耳で聞くと」と聴覚の問題として語られている。しかし、その聴覚で「詩」と「死」が区別できないと書いた後、すぐに「叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。」と「発音」の問題に変わってしまう。
そして、その「発音」は「快楽」に変わってしまう。
「口内」の「快楽」。肉体の快楽。
この「変化」のなかに、そして、変化をつなぐものに、私は「永遠」を感じる。
人間の「肉体」なかには(感覚のなか、精神のなか、というひともいるかもしれない)、それぞれが独立しながら、何かと混じり合うものがある。
ことばを考えるとき、小池が書いているように、聞くという要素があり、また話すという要素がある。そして、それぞれに耳が対応し、口(喉)が対応する。耳と口は名前が違うのだからもちろん別個の存在なのだが、肉体としてつながっていて、その肉体としてつなぎとめるなにか、特定できない力が協力して動く。
で、その耳と口をつなぎとめ、ことばを肉体に引き入れる力--それが動くとき、小池はそこに「快楽」を見つけ出している。
そこが、私は好きだ。
それも(というのは、ちょっと論理的ではない言い方なのだけれど)、精神の快楽ではなく、「口内の快楽」(肉体の快楽)。
このとき「永遠」は「どこ」にあるのか。
「肉体」のなかにある。
--永遠を発見するとは、肉体を発見することなのだ、と私は思う。
ことばと肉体。肉体はことばにふれて、肉体のなかに永遠を発見する。そういうことが、この短編集のひとつのテーマだと思う。
「凍れる蝶」の次の部分も、とても好きだ。
「冬ざれ」という言葉に惹かれた。「ざれ」という音、石畳に靴底がこすれる感じがする。その下を見ると、俳句が一句。
冬ざれや石に腰掛け我孤独 虚子
ここでは主人公は「冬ざれ」の「意味」を理解していない。理解しているのかもしれないけれど、どういう意味かということを書かずに、「石畳に靴底がこすれる感じ」と自分の肉体が体験したこと、そしてそのとき感じたことの方へことばをひっぱっていってしまっている。「意味」よりも、自分の肉体と感覚、肉体がおぼえているものを「耳」で復元して俳句をつかみ取ろうとしている。
このとき、主人公の解釈は間違っているかもしれない。
しかし、間違っていても、そのとき「永遠」が見える--のだと私は思う。
「正しい解釈」と「誤った解釈」の「隙間」から「永遠」が見える。「肉体」のなかに残っている「音」が見える。
ことばは「意味」である前に音である。それは耳で聞くもの。そして口(喉)をつかって発するもの。聞いて、発して。発して、聞いて。その繰り返しのなかで、「意味」が「肉体」のなかにたまってくる。「意味」がととのってくる。
そこには「誤解・誤読」が混じっているかもしれない。
でも、その「誤解・誤読」は、もしかすると「ほんとう」の何かかもしれない。
「頭」は「ほんとう」だけを選びとるわけではない。「ほんとう」を選んでしまうとめんどうくさいので、あえて「うそ」も選びとるという操作を「頭」はすることができるが、「肉体」はそんな具合にはいかない。肉体は「快楽」の方を選んでしまう。こっちの方が気持ちがいいから、こっちでいい。そのときの「間違った選択」のなかに、「永遠」がある。間違えることができるという不思議な永遠がある。
--ということが、それこそ、ちらっ、ちらっと見える作品集である。
あ、「苦痛」なのかに見える「永遠」も、補足しておく。やはり「凍れる蝶」のなかの部分。
最近、父の本棚が明るくなった。そればかりか品もよくなったと思う。(略)てかてかの表紙のなかに、布張りの本だの、箱入りの部厚い本だのが混ざり、それらには、あまり見たことのない単語が重々しく印字されていた。ただそれだけの変化なのに、父と二人だけの生活に、見知らぬ人がそっと混じってきたかのようで、時子は微妙な違和感を覚えている。
小池は「苦痛」とは書かずに「違和感」と書いているのだが、これは「快楽」とは逆のものだね。それを主人公は肉体で「覚えている」。
「覚えている」(覚える)というのは不思議なもので、「知る」わけではないが、「知る」を超えている。
たとえば自転車に乗る。泳ぐ。そういうことを私たちは「肉体」で「覚える」。そうすると、長い間それをしていないくても自転車に乗れる。泳げる。どんな仕組み(?)で自転車が転ばないのか、肉体が沈んでしまわないのか--そんなことは説明できないが、ちゃんと肉体をつかって、肉体で動いていける。「つかえる」というのが「覚える」の力である。
「快楽」も「肉体」で「覚える」が、「苦痛(違和感)」も「肉体」で「覚える」。
そして、その「覚えている」何かを、もう一度「肉体」のなかへ探しに行って、「覚えている」ことを復元するとき--その力のなかに「永遠」はある、と私は小池のことばを読みながら感じた。
(補足の補足)
この本棚の部分を、「詩」(しっ、口内の快楽)や「冬ざれ」と比較すると、おもしろいことがひとつある。
小池が肯定的にとらえている「永遠」には、「口」「耳」など、音が関係しているが、否定的にとらえている「永遠(違和感)」には音がない。本棚の「ことば」を主人公は口に出して「違和感」を感じているのではない。「目」で「見て」感じている。
目で見ることばよりも、小池は耳で聞き、口にすることばが好きなのだと思う。
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