白井明大「葉と空 道と」(「ル・ピュール」11、2010年10月17日発行)
白井明大「葉と空 道と」は、2010年の秋に発表された作品である。本を整理していたら、向こう側から、目に飛び込んできた。私の「日記」はできる限り新しい作品を紹介しているのだが、きょうは時間を無視して、白井の作品の感想を書くことにする。
作品の全行である。
友だちをバス停まで送っていった。その途中に公園があり、そこには紅葉した木があった--ということはわかるのだが、とても奇妙である。
対象というか、風景が書かれている感じがしない。
では、何が書かれているのか。
「間」。それも、なんといえばいいのだろう。ことばが、その対象にまでたどりつくを書いているように思える。
ここで「たどりつく」ということばが出てくるのは、たぶん、白井の詩のなかに「辿る」「辿り着く」ということばがあるからだろう。
でも、変だよなあ。
家からバス停まで--それって、「辿り着く」ような距離ではないね。「辿り着く」というのは、「やっと」という感じの距離があるときだ。そんな遠くのバス停なんて、バス停じゃないね。
どうも、この詩では「間」が変である。
この1行目には、問題の「間」を含めて、2か所、奇妙なところがある。
「間」から言えば、「公園との境に沿う道」の「境」。言う? 「公園との境」なんて。私は言わない。公園の横の道、公園に沿った道--私なら、そう言う。でも白井は、「境」ということばをわざわざ挿入している。
白井は「境」を見ているのだ。
「境」というのはほんらい何かと何かの接点にある。つまりそれは、「ある」けれども「ない」ものだ。「ない」のに意識でつくりあげて「ある」にしている。
--と、ここまで書いてきて、白井の書いていること、やっていることがおぼろげに見えてくる。
白井は、本来は存在しない「境」を「間」に拡大して書いている。そうすることで、「世界」そのものと白井の接点に「間」をつくりだしている。
「世界内存在」ということばがある。「世界」のなかに「私」がいる。「世界」は「私」を取り囲んでいる。その「私」を取り囲んでいる「世界」との「接点」を「点」という存在しないものではなく、「間」に拡大する。
なぜ、そんなことをする?
まあ、したいからだね。そうとしかいいようがない。
で、この「間」としての「境」なのだけれど--それは白井にははっきり意識できるのだろうけれど、読んでいる私にははっきりとはわからない。(他の読者にもはっきりとわかるものではないと思う。)
このことは白井も意識していると思う。
それを象徴するのが「ほどではなく」の「ほど」である。
「ほど」って何?
わかるけれど、言いなおすことがむずかしいねえ。
「公園との境」というのも、「境というほどのものではない/境」である。そりゃあ、呼びたければ「境」でいいけれど、わざわざ「境」という必要はないでしょ? 公園との境に沿う道--なんて、白井以外の誰も言わないのは、もし「境」というものがあったと仮定しても、言う「ほど」のものじゃないからだね。
何かよくわからないが、こういう「余分」なのものが、微妙にことばに混じってきて、「余分な間」をつくっている。「間」を拡大している。
2行目の「辿りながらいき」というのも、わかるけれど変だよなあ。「辿りながら」か「いき」のどちらかで「意味」は通じる。でも、詩は「意味」ではないからね。
正確には(?)、「境」を辿りながら「道」をいき、なのかもしれない。そう読んだところで、変なことにかわりはない。
この変な「間」、何か世界から剥離した意識が、剥離したまま世界のまわりをただようような雰囲気は、「ゆるやかに」ということばでいっそう強調される。
白井の書いている「間(境)」は、急いでいては見ることのできないものなのである。
うーん。どれが「キイワード」になるのだろう。
「境」「ほど」「ゆっくり」。どれを中心に据えると、白井のことばがしっかり把握できるのかなあ。わからないなあ。
三つのことばの、正確な違い、それこそ三つのことばのあいだにある「境(間)」がはっきりしない。「境(間)」はあるのに、どうも重なり合うのだ。というか、その三つは、一緒に存在しないと、それぞれも存在しえないような感じがする。
奇妙だなあ。
この行の「とおくかさならないで」が、またまた、変だねえ。
一緒に存在する。でも、黄赤い葉っぱと空という「二つ」は遠く離れていて、重ならない。それはあたりまえといえばあたりまえなのだけれど--そういう「あたりまえ」をなぜ書く?
「あたりまえ」に何かが挿入されている。「あたりまえ」のことに「境」をつくろうとしている。「間」を挿入しようとしている--その白井の意識を感じる。
あらゆる行が、わざと書かれているのである。「わざと」のなかにだけ、詩は存在するのである。「わざと」つくりだした「境(間)」が、白井にとっての詩なのである。
「しるしあっている」は「印しをつけあっている」ということか。今風にいえば「刻印しあっている」ということになる。対象に私を刻印する。刻印するということは、実は、「間(境)」の否定でもあるのだけれど--つまた、それは私としっかり密着しているという表明なのだけれど、白井はこの「刻印」を逆手にとっている。
二つの存在は密着していない。離れている。だからこそ「刻印」できる。密着している--その結果として、それが「私のもの」なら、刻印は必要がない。「私のもの」ではないがゆえに、刻印する。刻印は、白井にとっては「間(境)」をつくりだす作業なのだ。
--とはいえ。(あ、こんな使い方でいいのかどうか、よくわからない。)
この白井の詩には、そういう不思議な「矛盾」がある。
不必要な「境」「間」というものがあって、その「境」「間」を成立させるために、あるいは「境」「間」がある証拠として、対象をそれぞれ刻印してまわる。(私の肉体には私の証明はいらないが、私のものではないもの、私から離れて存在するものが私のものであるということを知らせるためには、署名の刻印が必要である)。で、証明を刻印した瞬間に、どうしても「矛盾」が生まれてしまう。
署名を 刻印するということは、対象と私との関係を緊密にするということである。第三者は署名の刻印を見て、それがだれのものであるかを判断する。
「境」(間)をつくりたいの? それとも「境」(間)を消したいの?
わからないねえ。
で、このわからなさを強調するのが「しるしあっている」の「あっている」、「合う」である。
白井が署名を刻印するのではない。存在が相互に署名を刻印し「合う」。
この「合う」ということばも、「矛盾」だなあ。
「矛盾」というか、変な具合に、意味が拡大していくことばだなあ。
たとえば「境」ということばにもどってみる。「境」は何かと何かがぶつかったところ、何かと何かが(出)合ったところに存在する。出合いが「境」をつくりだす。
ひとつではなく、二つの存在。それがつねに意識されている。
「ふたつ」ということばは書かれていないが、「二つ」が「合う」--その「二つ」と「合う」が白井のキイワードかもしれない。
まるで「キイワード」だらけの詩である。
つまり、読めば読むほど、煮詰まってしまって、こまってしまう詩である。
わからないことばは何ひとつない。そして、書いてあることが「わかる」と言えばわかるのだけれど--奇妙さを言い表すことができないから「わからない」と言うしかない--なんて、変でしょ?
まあ、いいか。先をつづける。
「二つ」が「出合う」。そうすると、そこに「境」(間)が意識されるだけではない。「二つ」は互いの刻印を抱きながら、新しい運動へと動いていく。
うまく言えないから省略してしまうが、ここでは「へだてる」が重要である。これは最終連では「わける」「はなれ(る)」ということばにかわっていくのだが。
このことばが、なんとも私の肉体には居座りが悪い。
変なものを刺激する。
1連目に「辿る」という動詞が出てきた。その「辿る」と「へだてる」「わける」ははなれる」がうまく合致しない。
「辿る」とは、私にとっては、何かに密着しつづけることである。はなれないこと。それが条件である。
しかし、白井は「辿る」ことで「境」を意識し、「へだてる」「わける」「はなれる」を呼び寄せるのである。白井の肉体が「辿る」と「隔てる(わける、はなれる)」の「境」になって、「矛盾」を接合するということになるのか。
そういうこと(思想、哲学)を「ほど」の領域で、ことばにしているのかなあ。
この白井の「肉体」は、まあ「肉体」としか言えないなあ。「頭」を押し退けて、ただ「肉体」で動いていく。
一篇の詩であれこれいってもはじまらないのかもしれない。
詩集になったとき、複数の詩が影響し合って、そこから新しい「肉体」の全体像が浮かび上がるのかもしれない。
詩集になったとき、また考えてみよう。
きょうの「日記」は「メモのメモ」である。
白井明大「葉と空 道と」は、2010年の秋に発表された作品である。本を整理していたら、向こう側から、目に飛び込んできた。私の「日記」はできる限り新しい作品を紹介しているのだが、きょうは時間を無視して、白井の作品の感想を書くことにする。
曲がるほどではなく公園との境に沿う道を
右に左にゆるやかに辿りながらいき
みあげたら樹上に生い茂る葉が黄赤く
雲のない空の青さがとおくかさならないで
色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている
葉はあたっている日のせいで黄赤く
木じたいのかげになっている葉はくろみがかり
向かいの日のとどく側とへだてる道のうえに枝をのばし葉を出す
道は辿っていくとバス停に辿り着くけれど
バス停と道を境わけることなくとなり歩く友だちを送り着き
友だちが乗ってバスが走るとはなれ発っていった
作品の全行である。
友だちをバス停まで送っていった。その途中に公園があり、そこには紅葉した木があった--ということはわかるのだが、とても奇妙である。
対象というか、風景が書かれている感じがしない。
では、何が書かれているのか。
「間」。それも、なんといえばいいのだろう。ことばが、その対象にまでたどりつくを書いているように思える。
ここで「たどりつく」ということばが出てくるのは、たぶん、白井の詩のなかに「辿る」「辿り着く」ということばがあるからだろう。
でも、変だよなあ。
家からバス停まで--それって、「辿り着く」ような距離ではないね。「辿り着く」というのは、「やっと」という感じの距離があるときだ。そんな遠くのバス停なんて、バス停じゃないね。
どうも、この詩では「間」が変である。
曲がるほどではなく公園との境に沿う道を
この1行目には、問題の「間」を含めて、2か所、奇妙なところがある。
「間」から言えば、「公園との境に沿う道」の「境」。言う? 「公園との境」なんて。私は言わない。公園の横の道、公園に沿った道--私なら、そう言う。でも白井は、「境」ということばをわざわざ挿入している。
白井は「境」を見ているのだ。
「境」というのはほんらい何かと何かの接点にある。つまりそれは、「ある」けれども「ない」ものだ。「ない」のに意識でつくりあげて「ある」にしている。
--と、ここまで書いてきて、白井の書いていること、やっていることがおぼろげに見えてくる。
白井は、本来は存在しない「境」を「間」に拡大して書いている。そうすることで、「世界」そのものと白井の接点に「間」をつくりだしている。
「世界内存在」ということばがある。「世界」のなかに「私」がいる。「世界」は「私」を取り囲んでいる。その「私」を取り囲んでいる「世界」との「接点」を「点」という存在しないものではなく、「間」に拡大する。
なぜ、そんなことをする?
まあ、したいからだね。そうとしかいいようがない。
で、この「間」としての「境」なのだけれど--それは白井にははっきり意識できるのだろうけれど、読んでいる私にははっきりとはわからない。(他の読者にもはっきりとわかるものではないと思う。)
このことは白井も意識していると思う。
それを象徴するのが「ほどではなく」の「ほど」である。
「ほど」って何?
わかるけれど、言いなおすことがむずかしいねえ。
「公園との境」というのも、「境というほどのものではない/境」である。そりゃあ、呼びたければ「境」でいいけれど、わざわざ「境」という必要はないでしょ? 公園との境に沿う道--なんて、白井以外の誰も言わないのは、もし「境」というものがあったと仮定しても、言う「ほど」のものじゃないからだね。
何かよくわからないが、こういう「余分」なのものが、微妙にことばに混じってきて、「余分な間」をつくっている。「間」を拡大している。
右に左にゆるやかに辿りながらいき
2行目の「辿りながらいき」というのも、わかるけれど変だよなあ。「辿りながら」か「いき」のどちらかで「意味」は通じる。でも、詩は「意味」ではないからね。
正確には(?)、「境」を辿りながら「道」をいき、なのかもしれない。そう読んだところで、変なことにかわりはない。
この変な「間」、何か世界から剥離した意識が、剥離したまま世界のまわりをただようような雰囲気は、「ゆるやかに」ということばでいっそう強調される。
白井の書いている「間(境)」は、急いでいては見ることのできないものなのである。
うーん。どれが「キイワード」になるのだろう。
「境」「ほど」「ゆっくり」。どれを中心に据えると、白井のことばがしっかり把握できるのかなあ。わからないなあ。
三つのことばの、正確な違い、それこそ三つのことばのあいだにある「境(間)」がはっきりしない。「境(間)」はあるのに、どうも重なり合うのだ。というか、その三つは、一緒に存在しないと、それぞれも存在しえないような感じがする。
奇妙だなあ。
雲のない空の青さがとおくかさならないで
この行の「とおくかさならないで」が、またまた、変だねえ。
一緒に存在する。でも、黄赤い葉っぱと空という「二つ」は遠く離れていて、重ならない。それはあたりまえといえばあたりまえなのだけれど--そういう「あたりまえ」をなぜ書く?
「あたりまえ」に何かが挿入されている。「あたりまえ」のことに「境」をつくろうとしている。「間」を挿入しようとしている--その白井の意識を感じる。
あらゆる行が、わざと書かれているのである。「わざと」のなかにだけ、詩は存在するのである。「わざと」つくりだした「境(間)」が、白井にとっての詩なのである。
色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている
「しるしあっている」は「印しをつけあっている」ということか。今風にいえば「刻印しあっている」ということになる。対象に私を刻印する。刻印するということは、実は、「間(境)」の否定でもあるのだけれど--つまた、それは私としっかり密着しているという表明なのだけれど、白井はこの「刻印」を逆手にとっている。
二つの存在は密着していない。離れている。だからこそ「刻印」できる。密着している--その結果として、それが「私のもの」なら、刻印は必要がない。「私のもの」ではないがゆえに、刻印する。刻印は、白井にとっては「間(境)」をつくりだす作業なのだ。
--とはいえ。(あ、こんな使い方でいいのかどうか、よくわからない。)
この白井の詩には、そういう不思議な「矛盾」がある。
不必要な「境」「間」というものがあって、その「境」「間」を成立させるために、あるいは「境」「間」がある証拠として、対象をそれぞれ刻印してまわる。(私の肉体には私の証明はいらないが、私のものではないもの、私から離れて存在するものが私のものであるということを知らせるためには、署名の刻印が必要である)。で、証明を刻印した瞬間に、どうしても「矛盾」が生まれてしまう。
署名を 刻印するということは、対象と私との関係を緊密にするということである。第三者は署名の刻印を見て、それがだれのものであるかを判断する。
「境」(間)をつくりたいの? それとも「境」(間)を消したいの?
わからないねえ。
で、このわからなさを強調するのが「しるしあっている」の「あっている」、「合う」である。
白井が署名を刻印するのではない。存在が相互に署名を刻印し「合う」。
この「合う」ということばも、「矛盾」だなあ。
「矛盾」というか、変な具合に、意味が拡大していくことばだなあ。
たとえば「境」ということばにもどってみる。「境」は何かと何かがぶつかったところ、何かと何かが(出)合ったところに存在する。出合いが「境」をつくりだす。
ひとつではなく、二つの存在。それがつねに意識されている。
「ふたつ」ということばは書かれていないが、「二つ」が「合う」--その「二つ」と「合う」が白井のキイワードかもしれない。
まるで「キイワード」だらけの詩である。
つまり、読めば読むほど、煮詰まってしまって、こまってしまう詩である。
わからないことばは何ひとつない。そして、書いてあることが「わかる」と言えばわかるのだけれど--奇妙さを言い表すことができないから「わからない」と言うしかない--なんて、変でしょ?
まあ、いいか。先をつづける。
「二つ」が「出合う」。そうすると、そこに「境」(間)が意識されるだけではない。「二つ」は互いの刻印を抱きながら、新しい運動へと動いていく。
向かいの日のとどく側とへだてる道のうえに枝をのばし葉を出す
うまく言えないから省略してしまうが、ここでは「へだてる」が重要である。これは最終連では「わける」「はなれ(る)」ということばにかわっていくのだが。
このことばが、なんとも私の肉体には居座りが悪い。
変なものを刺激する。
1連目に「辿る」という動詞が出てきた。その「辿る」と「へだてる」「わける」ははなれる」がうまく合致しない。
「辿る」とは、私にとっては、何かに密着しつづけることである。はなれないこと。それが条件である。
しかし、白井は「辿る」ことで「境」を意識し、「へだてる」「わける」「はなれる」を呼び寄せるのである。白井の肉体が「辿る」と「隔てる(わける、はなれる)」の「境」になって、「矛盾」を接合するということになるのか。
そういうこと(思想、哲学)を「ほど」の領域で、ことばにしているのかなあ。
この白井の「肉体」は、まあ「肉体」としか言えないなあ。「頭」を押し退けて、ただ「肉体」で動いていく。
一篇の詩であれこれいってもはじまらないのかもしれない。
詩集になったとき、複数の詩が影響し合って、そこから新しい「肉体」の全体像が浮かび上がるのかもしれない。
詩集になったとき、また考えてみよう。
きょうの「日記」は「メモのメモ」である。
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