藤原綾乃「あめんみやざか」(「どぅるかまら」11、2012年01月10日発行)
藤原綾乃「あめんみやざか」は散文詩で、段落の変わり目が段落ではなくまるまる1行分の空白である。
私はこういう形式についてあまり注意をはらってきたことがなかった。読むのにわずらわしい感じがして敬遠していたので、気がつくべきところに気がつかなかったのかもしれない。
この詩でも、私には、ちょっと嫌な感じ(なじめない感じ)があるにはあるのだが、途中は引き込まれた。
叔母を母であるという「物語」を生きている「私」。その「私」と叔母の写真。叔母はショールをかけているが、「似合っているような いないような そういうところが叔母だと思う」で3段落(?)が終わって……。
「閉じ込められた無音が耐えきれず漏れ出るとでもいうように」ということばには、「動き続ける」という動詞が省略されている。その、藤原にはわかりきったことを藤原は省略して、意識が横に滑るように1行分の空白をおいて次の段落へゆく。
藤原の省略した「動き続ける」は読者にもすぐわかることだが、読者にわかるときのスピードよりも、藤原自身がわかっていることの方が速い。ほとんど差はないかもしれないが、なんといっても藤原がことばを書いているのだから、そのことばが先にあり、読者がそれを追いかける分だけ、藤原が先にいる。
この微妙な差のなかを、藤原は疾走する。
省略したのは、藤原にはその「動き続ける」が、その前の「静寂だけが動き続ける」ということばを書いたときから、藤原の肉体になっているからである。
で、その省略したことばの、省略する--省略するということは、そのことばを飛び越すことである--という運動、その運動することばの肉体の動きにそのままのって、ことばが一気に加速する。
この4段落から5段落への切断を、もう一度接続するときの、「でももしかしたら」がとても魅力的だ。
「でも」は、それまで書いてきたこととは反対の方向へことばが動くことを暗示する。そしてその動きは「もしかしたら」というあいまいなものである。「もしかしたら」だから、そこには根拠はない。あるのは、ただ藤原の「肉体」だけである。藤原の「肉体」のなかを、藤原のことばが動く--それしか「事実」はない。自分の「肉体」のなかをことばが動くのだから、それは、他人にとってはどうであろうと、藤原には「事実」なのだが、その「事実」が、
と並列になる。
同等になる。
「沈黙」と「荒涼」。これは、ひとつのことばではないね。たとえば、4段落に出てきた「静寂」は「沈黙」と「意味」が共通している。ひとつのことばである。けれど「沈黙」と「荒涼」は、「意味」が通い合わない。「ひとつ」ではない。同等ではない。
けれど、藤原はそれを「ひとつ」のありようとして書いている。
そして、そのことばを読んでいる私も、「沈黙」と「荒涼」をつないでいる何かしらのものを感じているのだが……。
「沈黙」と「荒涼」をつないでいるのは何?
こういうことは、「意味」のあることばにはならない。というより、する必要がない。「沈黙」と「荒涼」をつなぐのは、それぞれの「肉体」のなかにあることばである。「意味」ではなく、意味のまわりについてまわるさまざまなものが、ふたつのことばをつないでしまう。意味を特定するのではなく、通い合わせるのである。
この意味の通い合わせ(通い合い)のとき、私たちは、実はことばを省略している。ことばを使わずに納得している。肉体が肉体自身で持っている「感覚」でことばをつつんで動かしている。
「頭」はこういう「省略」ができない。でも「肉体」はこういう「省略」を生きる。
わかっていること--あるいは肉体で「覚えている」ことを省略し、その省略を利用してさらにことばが加速する。
この加速の瞬間を、私は「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」という段落のつかい方のなかに感じたのだ。
そうか、段落を構成するのは、「飛躍」というより、「省略」なのか。そして、ことばはその「省略」されたものを土台にして飛躍するのか……と感じたのである。
さらに、省略と飛躍は、結局、客観的事実の方向へことばを突き動かさず、肉体のなかにあることばをいじめながら動くのだなあと思った。言い換えると--肉体のことばは結局、「わからない」にたどりつく。
「静寂」は「叔母の沈黙」か「私の荒涼」か「わからない」。そして「わからない」からこそ、それが「肉体」にしみついて、「肉体」の記憶になり、それを「覚える」ことになる。「肉体」で覚えていること、にかわる。
この「肉体で覚えていること」というのは、なんというか、絶対に間違えることのないものなので--あ、この私の書き方には飛躍が多すぎるかもしれないが……。
強引に書いてしまう。
肉体で覚えていることというのは、絶対に間違えることのないものなので、そういうことを無意識に自覚したことばは、大胆に飛躍する。「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」のときよりも、激しく「飛翔」する。
写真からはじまった詩が、ここで、突然「証拠」のない記憶へと飛翔する。(「証拠がない」というのは、写真のように、だれかと共有できる「もの」がない、という意味である。)
これはなんといえばいいのだろうか。
「叔母の沈黙」と「私の荒涼」を「ひとつ」のものと感じる何かさえも、たたき壊していく何かである。たたき壊されて、いっそう「叔母の沈黙」と「私の荒涼」に似たものになりながら、けれども、そこから違うものを生み出していく。
この不思議な交錯--この一種の不明瞭さ(非論理性)と不明瞭さだけが持つ手触りのたしかさを一緒に書くためには、藤原のとった「1行分のあき」という段落のつくり方は必要なのだと感じた。その「1行分あき」の段落に、私は藤原の「肉体」を感じた。
藤原綾乃「あめんみやざか」は散文詩で、段落の変わり目が段落ではなくまるまる1行分の空白である。
(略)
母親は叔母だという秘密の物語に幼い私は生きていた
夥
しい紅葉を背に叔母と手を繋いだ私は 唇を結んだまま
作り笑いをしているようだ(略)
私はこういう形式についてあまり注意をはらってきたことがなかった。読むのにわずらわしい感じがして敬遠していたので、気がつくべきところに気がつかなかったのかもしれない。
この詩でも、私には、ちょっと嫌な感じ(なじめない感じ)があるにはあるのだが、途中は引き込まれた。
叔母を母であるという「物語」を生きている「私」。その「私」と叔母の写真。叔母はショールをかけているが、「似合っているような いないような そういうところが叔母だと思う」で3段落(?)が終わって……。
シ
ャッターが切られ 叔母と私と紅葉は印画紙に瞬間凝
結した 静寂だけが今も動き続ける 時を切断する音
は消え 閉じ込められた無音が耐えきれず漏れ出るとで
もいうように
でももしかしたら静寂は 叔母の沈黙なの
かもしれないし 赤や黄を縁どるぎざぎざとぎざぎざの
間から覗く 薄青の空から滲み出てくるのかもしれない
記憶が剥がれていく むしろ剥がそうとする私の荒涼
かもしれない
物語の最終頁で 道は急坂になった 私が
しゃがみ込むと誰かが背を向けて腰をかがめた だめよ
自分で歩きなさい 初めての激しい叔母の叱責に 私は
うろたえて泣き出したのではなかっただろうか
「閉じ込められた無音が耐えきれず漏れ出るとでもいうように」ということばには、「動き続ける」という動詞が省略されている。その、藤原にはわかりきったことを藤原は省略して、意識が横に滑るように1行分の空白をおいて次の段落へゆく。
藤原の省略した「動き続ける」は読者にもすぐわかることだが、読者にわかるときのスピードよりも、藤原自身がわかっていることの方が速い。ほとんど差はないかもしれないが、なんといっても藤原がことばを書いているのだから、そのことばが先にあり、読者がそれを追いかける分だけ、藤原が先にいる。
この微妙な差のなかを、藤原は疾走する。
省略したのは、藤原にはその「動き続ける」が、その前の「静寂だけが動き続ける」ということばを書いたときから、藤原の肉体になっているからである。
で、その省略したことばの、省略する--省略するということは、そのことばを飛び越すことである--という運動、その運動することばの肉体の動きにそのままのって、ことばが一気に加速する。
でももしかしたら
この4段落から5段落への切断を、もう一度接続するときの、「でももしかしたら」がとても魅力的だ。
「でも」は、それまで書いてきたこととは反対の方向へことばが動くことを暗示する。そしてその動きは「もしかしたら」というあいまいなものである。「もしかしたら」だから、そこには根拠はない。あるのは、ただ藤原の「肉体」だけである。藤原の「肉体」のなかを、藤原のことばが動く--それしか「事実」はない。自分の「肉体」のなかをことばが動くのだから、それは、他人にとってはどうであろうと、藤原には「事実」なのだが、その「事実」が、
叔母の沈黙なのかもしれないし
私の荒涼かもしれない
と並列になる。
同等になる。
「沈黙」と「荒涼」。これは、ひとつのことばではないね。たとえば、4段落に出てきた「静寂」は「沈黙」と「意味」が共通している。ひとつのことばである。けれど「沈黙」と「荒涼」は、「意味」が通い合わない。「ひとつ」ではない。同等ではない。
けれど、藤原はそれを「ひとつ」のありようとして書いている。
そして、そのことばを読んでいる私も、「沈黙」と「荒涼」をつないでいる何かしらのものを感じているのだが……。
「沈黙」と「荒涼」をつないでいるのは何?
こういうことは、「意味」のあることばにはならない。というより、する必要がない。「沈黙」と「荒涼」をつなぐのは、それぞれの「肉体」のなかにあることばである。「意味」ではなく、意味のまわりについてまわるさまざまなものが、ふたつのことばをつないでしまう。意味を特定するのではなく、通い合わせるのである。
この意味の通い合わせ(通い合い)のとき、私たちは、実はことばを省略している。ことばを使わずに納得している。肉体が肉体自身で持っている「感覚」でことばをつつんで動かしている。
「頭」はこういう「省略」ができない。でも「肉体」はこういう「省略」を生きる。
わかっていること--あるいは肉体で「覚えている」ことを省略し、その省略を利用してさらにことばが加速する。
この加速の瞬間を、私は「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」という段落のつかい方のなかに感じたのだ。
そうか、段落を構成するのは、「飛躍」というより、「省略」なのか。そして、ことばはその「省略」されたものを土台にして飛躍するのか……と感じたのである。
さらに、省略と飛躍は、結局、客観的事実の方向へことばを突き動かさず、肉体のなかにあることばをいじめながら動くのだなあと思った。言い換えると--肉体のことばは結局、「わからない」にたどりつく。
「静寂」は「叔母の沈黙」か「私の荒涼」か「わからない」。そして「わからない」からこそ、それが「肉体」にしみついて、「肉体」の記憶になり、それを「覚える」ことになる。「肉体」で覚えていること、にかわる。
この「肉体で覚えていること」というのは、なんというか、絶対に間違えることのないものなので--あ、この私の書き方には飛躍が多すぎるかもしれないが……。
強引に書いてしまう。
肉体で覚えていることというのは、絶対に間違えることのないものなので、そういうことを無意識に自覚したことばは、大胆に飛躍する。「……とでもいうように」(1行あき)「でももしかしたら」のときよりも、激しく「飛翔」する。
物語の最終頁で 道は急坂になった
写真からはじまった詩が、ここで、突然「証拠」のない記憶へと飛翔する。(「証拠がない」というのは、写真のように、だれかと共有できる「もの」がない、という意味である。)
これはなんといえばいいのだろうか。
「叔母の沈黙」と「私の荒涼」を「ひとつ」のものと感じる何かさえも、たたき壊していく何かである。たたき壊されて、いっそう「叔母の沈黙」と「私の荒涼」に似たものになりながら、けれども、そこから違うものを生み出していく。
この不思議な交錯--この一種の不明瞭さ(非論理性)と不明瞭さだけが持つ手触りのたしかさを一緒に書くためには、藤原のとった「1行分のあき」という段落のつくり方は必要なのだと感じた。その「1行分あき」の段落に、私は藤原の「肉体」を感じた。