新井豊美「庭」(「現代詩手帖」2012年01月号)
私はいつから新井豊美の詩が苦手になったのだろうか。嫌いになったのだろうか。新井が変わったのか、私が変わったのか、よくわからないが……どうにも苦手だ。
「庭」の1連目。
2行目の「廃れていく時の培養基」で私はつまずく。ここが嫌い。「意味」が強すぎる。イメージではなく「意味」がことばを支配しすぎている。
時(時間)という意味だろう。それが廃れていく。それを培養する--廃れやすくする、廃れることを促す液体か固体かわからないが、そういうものがある。そういうものをことばで提示しているのだが、「培養基」の方にはことばの力点はない。「廃れていく時」に重点が置かれている。「時」が廃れていく--その「意味」のなかに、抒情がこめられている。そして、その抒情は自然発生的なものではなく、どうも「ことば」でつくりだされたものである。
詩は、特に現代詩は、感情を書き写したものというより、むしろ感情をつくりだしていく(捏造していく)ものだから、ことばが感情をつくりだすこと自体に私は反感があるわけではない。そのつくりだす感情が抒情というところに、何かいやな感じをもってしまう。それも「廃れていく時」なんて、抒情まるだしである。「廃れていく」ではなく、あざやかになるものに抒情が結びつくならちょっとおもしろいと思うのだが、「廃れていく」(しかも、時--これは、きっと「過去」という意味)ということばの動きが「流通言語」そのものに感じられる。しかも、それは「男性」が作り上げた「抒情流通言語文法」である。(簡単に言うと、清水哲男につながる抒情。)
で、「廃れていく時」は3行目で「褪色した印画紙」と言いなおされる。--なんだか、いやだなあ。古い写真、そのなかで「廃れていく時」がある。「培養基」はやすっぽい現像液か定着液か。まあ、セピア色になっていく(褪色していく)抒情である。
写真--だから、次は「紙」が出てくる。4行目の「紙」は写真である。で、その褪色し、セピア色になった写真の--その褪色(色が廃れる)なかに「時」の経過がある。「過去」がある。その「時の流れ」を、「風」と言い換えて、そこから「風の音」が出てくる。
もちろんこのときの「風」は「時」の言い直しであるから、その次の行では「時の《息》」と、ちゃんと「時」が出てくる。そして、その「息」を人々は「耳をひらき」聞いている--と1行目へもどる。
あまりにきっちりと完結しすぎている。--こういうところが、私は苦手なのである。新井豊美の詩が好きなひとは、私とは逆に、こういう完璧なイメージの完結が気持ちいいと感じるのかもしれない。濁りがないからねえ。
で、濁りついでに途中をとばして最終連。
濁りを排除し、透明になる--透明な抒情が完結する。この感じが、私にはとても窮屈に感じられる。むしろ、濁りのなかに抒情がある、という感じにはならないだろうか。ノイズのなかに抒情があるという感じにならないだろうか、といつも思ってしまうのである。
で。
なぜ、こんなことを書くかというと--というのは飛躍なのだが、実は5連目が私は好きなのである。ふと、最初に新井の詩にであったときの不思議さがそこにある。
「触覚」が動いている。触覚が世界をふくらませている。1連目、最終連の「聴覚」が世界を透明に結晶させる方向に動くのに対し、新井の「触覚」は世界を拡大し、同時に濁らせる。泥をかきまわし、水の腹をふくらませる--とは書いていないのだけれど、まあ、そんなことが書かれている。というか、「泥をかきまわす」というときの気持ちよさ。「触覚」の暴力がそこにあり、他者との交流がある。「触覚」によって私も変われば他者も変わるという予見不能の危なっかしさ--つまり恋がある。
何かを水にさしこむ--そのさしこまれたものの量(?)だけ水の腹がふくらむ。さしこむ→腹→ふくらむ、ということばのなかにあるセックス。いのちの濁り。肉体の濁りがある。
やわらかくて、女っぽい。
私の女性観は古いのかもしれないが、濁ること、何かを内部にいれて、つまり孕むことで、豊かになっていく抒情というものがあると私は思うのだ。濁ることが(内部に何かをいれて)、その結果豊かになるという肉体の哲学を、新井は30-40年ほど前に書いていなかっただろうか。私は、そのころの新井のことばが好きだ。
私はいつから新井豊美の詩が苦手になったのだろうか。嫌いになったのだろうか。新井が変わったのか、私が変わったのか、よくわからないが……どうにも苦手だ。
「庭」の1連目。
そこで人々は耳をひらき
廃れていく時の培養基
褪色した印画紙の
(紙の中を流れる風の音)
時の《息》に聴きいっていた
2行目の「廃れていく時の培養基」で私はつまずく。ここが嫌い。「意味」が強すぎる。イメージではなく「意味」がことばを支配しすぎている。
時(時間)という意味だろう。それが廃れていく。それを培養する--廃れやすくする、廃れることを促す液体か固体かわからないが、そういうものがある。そういうものをことばで提示しているのだが、「培養基」の方にはことばの力点はない。「廃れていく時」に重点が置かれている。「時」が廃れていく--その「意味」のなかに、抒情がこめられている。そして、その抒情は自然発生的なものではなく、どうも「ことば」でつくりだされたものである。
詩は、特に現代詩は、感情を書き写したものというより、むしろ感情をつくりだしていく(捏造していく)ものだから、ことばが感情をつくりだすこと自体に私は反感があるわけではない。そのつくりだす感情が抒情というところに、何かいやな感じをもってしまう。それも「廃れていく時」なんて、抒情まるだしである。「廃れていく」ではなく、あざやかになるものに抒情が結びつくならちょっとおもしろいと思うのだが、「廃れていく」(しかも、時--これは、きっと「過去」という意味)ということばの動きが「流通言語」そのものに感じられる。しかも、それは「男性」が作り上げた「抒情流通言語文法」である。(簡単に言うと、清水哲男につながる抒情。)
で、「廃れていく時」は3行目で「褪色した印画紙」と言いなおされる。--なんだか、いやだなあ。古い写真、そのなかで「廃れていく時」がある。「培養基」はやすっぽい現像液か定着液か。まあ、セピア色になっていく(褪色していく)抒情である。
写真--だから、次は「紙」が出てくる。4行目の「紙」は写真である。で、その褪色し、セピア色になった写真の--その褪色(色が廃れる)なかに「時」の経過がある。「過去」がある。その「時の流れ」を、「風」と言い換えて、そこから「風の音」が出てくる。
もちろんこのときの「風」は「時」の言い直しであるから、その次の行では「時の《息》」と、ちゃんと「時」が出てくる。そして、その「息」を人々は「耳をひらき」聞いている--と1行目へもどる。
あまりにきっちりと完結しすぎている。--こういうところが、私は苦手なのである。新井豊美の詩が好きなひとは、私とは逆に、こういう完璧なイメージの完結が気持ちいいと感じるのかもしれない。濁りがないからねえ。
で、濁りついでに途中をとばして最終連。
流れおりる枝先からさみどりの水滴にふくらんで
滴の音が
耳の濁りをいっとき
透明にする
濁りを排除し、透明になる--透明な抒情が完結する。この感じが、私にはとても窮屈に感じられる。むしろ、濁りのなかに抒情がある、という感じにはならないだろうか。ノイズのなかに抒情があるという感じにならないだろうか、といつも思ってしまうのである。
で。
なぜ、こんなことを書くかというと--というのは飛躍なのだが、実は5連目が私は好きなのである。ふと、最初に新井の詩にであったときの不思議さがそこにある。
水底の凍った泥をかきまわす春の魚
そのちいさなあかい胸鰭
芽吹くはしばみの枝を折って池のなかにさしこむと
ふくらむ水の腹を枝はつらぬき
「触覚」が動いている。触覚が世界をふくらませている。1連目、最終連の「聴覚」が世界を透明に結晶させる方向に動くのに対し、新井の「触覚」は世界を拡大し、同時に濁らせる。泥をかきまわし、水の腹をふくらませる--とは書いていないのだけれど、まあ、そんなことが書かれている。というか、「泥をかきまわす」というときの気持ちよさ。「触覚」の暴力がそこにあり、他者との交流がある。「触覚」によって私も変われば他者も変わるという予見不能の危なっかしさ--つまり恋がある。
何かを水にさしこむ--そのさしこまれたものの量(?)だけ水の腹がふくらむ。さしこむ→腹→ふくらむ、ということばのなかにあるセックス。いのちの濁り。肉体の濁りがある。
やわらかくて、女っぽい。
私の女性観は古いのかもしれないが、濁ること、何かを内部にいれて、つまり孕むことで、豊かになっていく抒情というものがあると私は思うのだ。濁ることが(内部に何かをいれて)、その結果豊かになるという肉体の哲学を、新井は30-40年ほど前に書いていなかっただろうか。私は、そのころの新井のことばが好きだ。
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