荒川洋治「アルプス」(「現代詩手帖」2012年01月号)
荒川洋治の詩にはいつもわからないところがある。そして私はそのわからないことろで立ち止まるのが好きである。
「アルプス」の場合。
「矢車」とは何だろう。きっと「比喩」だな。侍が切りあう。チャンバラ。そのときの刀の切っ先が描く円、それが「きれいだ」ということだろうと思う。
たしかに「崖の上から」というような、安全な場所から「見ている」ときれいかもしれない。まるで「時代劇」を見ているようにして、私は、ほう、刀の動きが円を描き、それが「矢車」か。うまいなあ。「きれい」は「矢車」という比喩でいっそうきれいになるなあ、と感心する。
そして、その直前の「せわしなく」もいいなあ、と思う。
不思議な「距離」がある。
実際に切りあっている人にとっては「せわしなく」どころではない。それこそ「真剣勝負」なのだが、「せわしなく」という音が(その響き、音楽が)、まるで刀の切っ先の描く円のようになめらかで、一回転するようで、きれいだなあと思う。
私は、荒川のことばに誘われて、切りあう男たちを、崖の上の、安全なところから見ているのである。
「もの(こと)」は、それを見る「場」によって違って見えるのだとわかる。
2連目は、少し視点を変えて、同じ風景が書かれている。
刀が円を描くなら、また人間も円を描く。「裾幅一九九センチの合羽」は「木枯らし紋次郎」みたいだなあ。長身で、長身ゆえに、裾がまわるときの円が大きくなる。円の外周は中心より遅れてまわる。
「体よりかなり遅れて回転」の「かなり」「遅れて」が、ともに美しい。荒川のことばに従って、目がいっしょについてゆく。目のスピード(見ているスピード)とことばのスピードが、うまく呼吸があって、きもちがいい。
このあたりの、ことばの選び方が、荒川はとてもていねいだ。とても肉体的だ。頭で選んでしまうと、ことばはどうしても対象より先に動いてしまう。先回りして、運動をととのえてしまう。荒川は、そういうことをせず、ほんとうにしっかりと肉体でことばを動かしていく。
「間延び」「時が合わない」も、同じだ。
このあとが、また、すばらしい。
市川昆のスローモーションを思い出すなあ。木枯らし紋次郎そのものを私はあまり見た記憶がない。(一回くらいは見たと思うが。)そこに、たしかスローモーションがあったと思う。(あるいは映画的なアップの多用を、私はスローモーションと勘違いしているかもしれない。--普通には見ることのできないものを近くで時間をかけて見る感覚……。)体がゆっくりまわる。合羽の裾がゆっくりまわる。まわって、円になる。そのときのスピードの変化。遅れてついてゆく遠縁(こんなことばあるかな?)。--まわるから、「矢車」というのだろうなあ。
見ている意識の遠くから、ことばが少し遅れてやってくる。それを待っているようにして、荒川のことばが動いていく。
これは正確な表現ではなくて、荒川のことばがあって、それに誘われるように私の感想のことばが動くのだが、荒川のことばの「待機時間」(バスケットボールのシュートのときの「滞空時間」のようなもの)が長いので、まるで私のことばが動いてくるのを待っていると錯覚してしまうのだろう。
こういうことも「楽しさが長く伸びていく」ということと、重なり合う。
荒川のことばは、ここから、少し「場」を変える。「対象」を変える、といった方がいいのかな? 甲州街道(?)のチャンバラから、「時代」が動く。
前半のチャンバラと後半をつなぐことばは「きれい」である。「矢車」は「ガリ版の冊子」にかわり、冊子はくるりとまわるかわりにインクで(たぶん)汚れている。あるいは、それをちょっと困ったような顔でみつめる先生たちの視線で汚れている。その「汚れ」を荒川は「きれい」といっている。
ここが、不思議で、不思議でとはいうものの、私がうまくことばで説明できないだけで……あ、いいなあ、この「きれい」はとてもいいなあと思う。
この「きれい」のなかには何があるのだろうか。
「間延び」「遅れてくる何か」があるのだ。
「にらさき・アルプス」というガリ版刷りの冊子を見ると、きっとその冊子の文字から、文字をガリで切っている男の姿が見えてくる。冊子から遅れて、やってくる。さらに、そのガリ切りから遅れて、職員室で働いていたときの男がやってくるかもしれない。「いま」ではなく、「過去」が遅れてここにあらわれる。「時間」が浮かび上がる。そしてそれは、肉体が積み重ねてきた時間。肉体の熟練の時間につながる。そこには繰り返しと、繰り返しが作り上げる肉体の(思想の)ととのい方がある。--それが「見える」。
そのとき。
「男」が「きれい」なのかなあ。
それとも男をそうやって遅れて思い出す教師たちの目が「きれい」なのかなあ。
--これは変な疑問かもしれないけれど、ひるがえって、甲州街道のチャンバラ、その刀の切っ先の動き、チャンバラをする男の合羽の裾の動きが矢車みたいできれいだ、というとき、刀の円運動や裾の円運動が「きれい」なのか、それを「矢車」と呼ぶ荒川の意識が「きれい」なのか、実は、区別がつかない。
というのは、嘘。
刀の切っ先の動き、合羽の裾の動きを「矢車」ということばにしてしまった荒川の意識が「きれい」なので、ことばが向き合っている対象は荒川のことばによって「きれい」にととのえられているだけなのだ。
そうだとすれば。
ガリ版の冊子が「きれい」なのは、そこに男の動きが見えるから「きれい」なのではなく、そこに男の時間を見る教師たちの目が「きれい」だから、「きれい」ということになる。そして、それは荒川が教師たちをそんなことばで浮かび上がらせるから成立する「きれい」でもあるのだ。
荒川のことばはとてもゆっくり動くので、どうしても読者の方がことばを追い越してしまうけれど、追い越さないように立ち止まり立ち止まり、読まないといけないのかもしれない。
詩はさらに、ガリ版刷りの冊子を売る男の様子へさかのぼり、それから五十歳を超えた教師の娘の時間へと進んで行きもする。
そこでもことばは、「もの(対象)」が「見える」まで待っている。
ひとはいつでも何かを「見ている」。不思議な距離を保ちながら、「見ている」何かと自分の間で、ことばがゆっくり動き、すべてをととのえるのを待っている。ととのうのを待っている。
その「待つ」という時間--遅れてくる時間、間延びする時間のなかに、いつも「きれい」が動いている。ととのう、が動いている。
最終連に「きれい」ということばは出てこないが、「きれい」だ。父のことを訪ねる娘のことば--そのことばを支える暮らしが「きれい」だ。
荒川洋治の詩にはいつもわからないところがある。そして私はそのわからないことろで立ち止まるのが好きである。
「アルプス」の場合。
甲州・赤森川のそばの
岩場
三度笠の渡世人が
追手に追いつかれながら
五人ほどの相手と
せわしなく斬り合う
崖の上から見ていると
その矢車はきれいだ
「矢車」とは何だろう。きっと「比喩」だな。侍が切りあう。チャンバラ。そのときの刀の切っ先が描く円、それが「きれいだ」ということだろうと思う。
たしかに「崖の上から」というような、安全な場所から「見ている」ときれいかもしれない。まるで「時代劇」を見ているようにして、私は、ほう、刀の動きが円を描き、それが「矢車」か。うまいなあ。「きれい」は「矢車」という比喩でいっそうきれいになるなあ、と感心する。
そして、その直前の「せわしなく」もいいなあ、と思う。
不思議な「距離」がある。
実際に切りあっている人にとっては「せわしなく」どころではない。それこそ「真剣勝負」なのだが、「せわしなく」という音が(その響き、音楽が)、まるで刀の切っ先の描く円のようになめらかで、一回転するようで、きれいだなあと思う。
私は、荒川のことばに誘われて、切りあう男たちを、崖の上の、安全なところから見ているのである。
「もの(こと)」は、それを見る「場」によって違って見えるのだとわかる。
2連目は、少し視点を変えて、同じ風景が書かれている。
くるりと身をかわすたびに
三度笠と
裾幅一九九センチの合羽
がまわる
体よりかなり遅れて回転
間延びし
時が合わない感じさえも矢車だ
刀が円を描くなら、また人間も円を描く。「裾幅一九九センチの合羽」は「木枯らし紋次郎」みたいだなあ。長身で、長身ゆえに、裾がまわるときの円が大きくなる。円の外周は中心より遅れてまわる。
「体よりかなり遅れて回転」の「かなり」「遅れて」が、ともに美しい。荒川のことばに従って、目がいっしょについてゆく。目のスピード(見ているスピード)とことばのスピードが、うまく呼吸があって、きもちがいい。
このあたりの、ことばの選び方が、荒川はとてもていねいだ。とても肉体的だ。頭で選んでしまうと、ことばはどうしても対象より先に動いてしまう。先回りして、運動をととのえてしまう。荒川は、そういうことをせず、ほんとうにしっかりと肉体でことばを動かしていく。
「間延び」「時が合わない」も、同じだ。
このあとが、また、すばらしい。
見ている楽しさが長く伸びていく、のだろうね
市川昆のスローモーションを思い出すなあ。木枯らし紋次郎そのものを私はあまり見た記憶がない。(一回くらいは見たと思うが。)そこに、たしかスローモーションがあったと思う。(あるいは映画的なアップの多用を、私はスローモーションと勘違いしているかもしれない。--普通には見ることのできないものを近くで時間をかけて見る感覚……。)体がゆっくりまわる。合羽の裾がゆっくりまわる。まわって、円になる。そのときのスピードの変化。遅れてついてゆく遠縁(こんなことばあるかな?)。--まわるから、「矢車」というのだろうなあ。
見ている意識の遠くから、ことばが少し遅れてやってくる。それを待っているようにして、荒川のことばが動いていく。
これは正確な表現ではなくて、荒川のことばがあって、それに誘われるように私の感想のことばが動くのだが、荒川のことばの「待機時間」(バスケットボールのシュートのときの「滞空時間」のようなもの)が長いので、まるで私のことばが動いてくるのを待っていると錯覚してしまうのだろう。
こういうことも「楽しさが長く伸びていく」ということと、重なり合う。
荒川のことばは、ここから、少し「場」を変える。「対象」を変える、といった方がいいのかな? 甲州街道(?)のチャンバラから、「時代」が動く。
・戦前のこと
教師をやめたひとりの男が
日々の暮らしに困り
「にらさき・アルプス」という冊子を
ガリ版でつくって
近くの学校の職員室に売りに来る
午後の六時半を過ぎたころ
汚れる雑誌はきれいだね
前半のチャンバラと後半をつなぐことばは「きれい」である。「矢車」は「ガリ版の冊子」にかわり、冊子はくるりとまわるかわりにインクで(たぶん)汚れている。あるいは、それをちょっと困ったような顔でみつめる先生たちの視線で汚れている。その「汚れ」を荒川は「きれい」といっている。
ここが、不思議で、不思議でとはいうものの、私がうまくことばで説明できないだけで……あ、いいなあ、この「きれい」はとてもいいなあと思う。
この「きれい」のなかには何があるのだろうか。
「間延び」「遅れてくる何か」があるのだ。
「にらさき・アルプス」というガリ版刷りの冊子を見ると、きっとその冊子の文字から、文字をガリで切っている男の姿が見えてくる。冊子から遅れて、やってくる。さらに、そのガリ切りから遅れて、職員室で働いていたときの男がやってくるかもしれない。「いま」ではなく、「過去」が遅れてここにあらわれる。「時間」が浮かび上がる。そしてそれは、肉体が積み重ねてきた時間。肉体の熟練の時間につながる。そこには繰り返しと、繰り返しが作り上げる肉体の(思想の)ととのい方がある。--それが「見える」。
そのとき。
「男」が「きれい」なのかなあ。
それとも男をそうやって遅れて思い出す教師たちの目が「きれい」なのかなあ。
--これは変な疑問かもしれないけれど、ひるがえって、甲州街道のチャンバラ、その刀の切っ先の動き、チャンバラをする男の合羽の裾の動きが矢車みたいできれいだ、というとき、刀の円運動や裾の円運動が「きれい」なのか、それを「矢車」と呼ぶ荒川の意識が「きれい」なのか、実は、区別がつかない。
というのは、嘘。
刀の切っ先の動き、合羽の裾の動きを「矢車」ということばにしてしまった荒川の意識が「きれい」なので、ことばが向き合っている対象は荒川のことばによって「きれい」にととのえられているだけなのだ。
そうだとすれば。
ガリ版の冊子が「きれい」なのは、そこに男の動きが見えるから「きれい」なのではなく、そこに男の時間を見る教師たちの目が「きれい」だから、「きれい」ということになる。そして、それは荒川が教師たちをそんなことばで浮かび上がらせるから成立する「きれい」でもあるのだ。
荒川のことばはとてもゆっくり動くので、どうしても読者の方がことばを追い越してしまうけれど、追い越さないように立ち止まり立ち止まり、読まないといけないのかもしれない。
詩はさらに、ガリ版刷りの冊子を売る男の様子へさかのぼり、それから五十歳を超えた教師の娘の時間へと進んで行きもする。
そこでもことばは、「もの(対象)」が「見える」まで待っている。
ひとはいつでも何かを「見ている」。不思議な距離を保ちながら、「見ている」何かと自分の間で、ことばがゆっくり動き、すべてをととのえるのを待っている。ととのうのを待っている。
その「待つ」という時間--遅れてくる時間、間延びする時間のなかに、いつも「きれい」が動いている。ととのう、が動いている。
最終連に「きれい」ということばは出てこないが、「きれい」だ。父のことを訪ねる娘のことば--そのことばを支える暮らしが「きれい」だ。
もと教師の男の 娘は
五十歳を超えたが
父のために頭を下げて回るため
新しい靴と服を遠くの店で買った
翌日の校庭で
見かけた人に
「父は また来たのでしょうか」
と聞かなくてはならない
見上げるアルプスは
水のなかに消えているけれど
夕べのことを
知らなくてはならない
忘れられる過去 | |
荒川 洋治 | |
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