詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野田順子『うそっぷ』

2012-01-29 23:59:59 | 詩集
野田順子『うそっぷ』(土曜美術社出版販売、2011年10月20日発行)

 野田順子『うそっぷ』のタイトルは「イソップ物語」を連想させる。童話。そして、それは「嘘」でできている。--このタイトルの印象がそのまま、この詩集の印象になる。というと、はしょりすぎか……。
 ことばは嘘に決まっている。それをわざわざ「嘘」と言ってしまうのは「弁解」である。あらかじめ謝罪している。いい方に受け止めれば、野田は正直で、嘘を貫き通すことができないということなのかもしれない。けれど、それではおもしろくない。
 「嘘でしょう」「いえ、本当です」「だって、こんなこと、現実にありえないでしょう?」「それはあなたが現実を知らないだけ」と言い張ればいいのだけれど、そして、嘘を貫き通して、野田そのものが変わってしまえばとてもおもしろいのだけれど。
 「これって、ほんとう?」「いや、違います。嘘です。タイトルに、きちんと『うそ』ということばをいれているでしょ?」では、読む気が進まない。もちろん、これは嘘です、と言い張りながらほんとうのことを言うということもあるけれど、野田は、そういうことはしていない。
 嘘を貫いて、野田自身が「一個の嘘」そのものになってしまうかわりに、その嘘を動かしている「構造」のようなものを整理して、ことばをとじる。「嘘の構造解明」というべきことがらをして、とてもわかりやすい「設計図」を提示する。
 だから、「結論」(結末?)は、おもしろくない。
 この詩集のなかの作品は、最後まで読まず、途中で断ち切るとおもしろい。「未完成の設計図」(過程の設計図)の方が、いったい何ができあがるのかわからないという興奮を呼び覚ますのである。
 おばさんが「液体」は石油缶に娘を入れて散歩させている。娘は「わたし」と同級生だと言う。だが、石油缶をのぞくと、

中身は……濁った水だった
呆然とするわたしにおばさんは言った
「今はこんなだけどね 呪いをかけられた最初は
大きくなれないだけだったのよ
でも大きくなれないから どうしてもふつうの人を妬むでしょ
そういう悪い感情を持つたびに身体が溶けていって
何年かで水になっちゃってね
思春期の頃には だんだん毒も出てきたの
けれど親としてはずっと家に閉じ込めておくのもかわいそうで
こうやってときどき散歩させてるの
この子 やっぱりあなたに会えたのはうれしいみたい
ちょっと透き通ったでしょ?
さっきまでもっと濁っていたのよ」

 ここは、とてもおもしろい。
 少女が呪いをかけられて水になる。これは、もちろん嘘である。その嘘を、だってほんとうなのよ、というためには、その嘘が自立して(自律運動で、と言った方がいいかな)動いていかなければならないのだが、ここではそれが2段階に動く。
 まず思春期。妬みに「毒」がまじりはじめる。そして濁る(「わたし」が最初に見たのは、この「濁った水」である。)
 つぎに、「あなた(詩のなかのわたし)」に会うと「ちょっと透き通ったでしょ?」。濁りが変化する。
 この2段階の「嘘」の後押しが、嘘を嘘ではない「事実」へと育てる。
 で、その事実というのは、まあ、「設計図」風にいえば、たまったままの水は淀む。そこにはいろいろな不純物がまじり、不純物は不純物と出会い、ますます汚れる。これは現実で私たちが体験することである。
 その一方で、私たちは水が濾過され、きちんと処理すれば透明になるということも知っている。
 水は濁ることもあれば、その濁りを解消することもできる。濁った水は、透明になることができる。
 これは知っているというより、肉体が覚えていることがらである。そして、その覚えていることがらが、このおばさんのことばと一緒に、ことばにならないものを突き動かす。私は、突き動かされる。--まあ、単純に、バケツにためていた水が濁り、その濁りがあるとき沈殿して上澄みのようなものがあらわれることがある、そういうバケツ、そういう水を見たことがあるなあ、ということを思い出すだけなのかもしれないけれど、そこにはなにかしら、ことばにならないものがある。
 野田の書いていることがらではないものを、私は私の記憶から引っぱりだし、野田のことばに重ねる。そして、あ、そうか、水はそういうふうに変化するものなのだというとこを、はっきりと覚え直す。
 こういうことが、私にはとても楽しい。

 けれど。
 ある日、おばさんは水をこぼしてしまう。水には毒があるので、「踏まないでください」と注意される。でも、「わたし」は毒の影響を受けないことがわかる。だれかが「もしかして 呪いを解きにいらした方ですか?」と問う。
 そして、そのあと、「解説」がつけくわえられる。

わたしははっとした
わたしも今までいろいろあった
『彼女』の毒のもとになった悪い感情より
わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた
だが それを話すと家族は怒り 友だちも離れていった
どうして人は妬みを打ち消そうとするのだろう?
さびしかった

 「わたし」の「妬み」の方が友だちの「妬み」より大きかった。毒が強かった。だから、友だちの「毒」では影響を受けない。
 「毒」の強弱の算数(科学?)である。
 でも、こんなことを算数で説明されても、「頭」では理解できるが、「肉体」にはなじまないなあ。
 「わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた」と抽象的に書いたのでは、「わたし」はけっして傷つくことがない。「中傷」では人は傷つくかもしれないが「抽象」ではだれも傷つかない。どんな感情、どんなふうにそれが悪いのか、具体的に書かないと、「わたし」は傷つかず、そして、「わたし」は「いま」のままで何の変化もないことになる。
 「わたし」が「悪い感情を抱いて生きてきた」といくらいっても、そんなことばでは誰も「わたし」に石をぶつけられない。「おまえ、そんな悪いことをしてきたのか」と批判できない。主人公が変わらなければ、読者も変わりようがない。

 書いているうちに「わたし」(主人公)が変わってしまう--というのが、詩でも小説でも、またあらゆる芸術に共通したことがらなのだが、野田のことばのなかでは、誰も変わらない。野田の「世界」の「設計図」がより精密になるだけである。「頭」は、その構造を揺るぎないものにするが、その設計図は野田を超えない。



うそっぷ―野田順子詩集
野田 順子
土曜美術社出版販売
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「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」

2012-01-29 19:59:59 | その他(音楽、小説etc)
「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」(出光美術館、2012年01月28日)

 三代山田常山という人を私は知らなかった。常滑焼の急須は家にあった、といってももちろん山田常山のつくったものではなく、スーパーで売っている類のものである。つるりとしていて朱色である。こういう日常的につかうものを「芸術」に高めるとはどういうことなのか。わからない。
 わからないまま、会場に入る。まず朱泥の急須がある。むかし家にあったものと似ているか--というと似ていない。朱色の具合がまず違う。妙に静かである。手にとるわけにはいかないが、どれもずいぶん軽そうである。そして、こういう印象があっているかどうかわからないが、不思議なやわらかさがある。肌がはりつめながらも、何か余裕がある。緊張感、硬さがない。しなやかである。そうか、これが芸術というものか、と素人は思ったままに書く。
 途中で、あれっ、と思う。注ぎ口、把手と胴というべきなのかなんというべきなのかしらないけれど、本体とのつなぎ目がスーパーで売っているようなものとは違う。きちんとしていない。土をのばしてくっつけた手の跡(指の跡?)が残っている。手でつくっているという証拠? 滑らかな肌を無造作に汚している(?)ところがおもしろい。ふーん、芸術とはこういうものか、と知ったかぶりをしてみる。「この手の跡がいいんだよね」と言うと、通らしく聞こえるかな? 今度言ってみよう、とひそかに思ったりする。
 藤田穐華の彫刻(文字)入りのものもある。これはこまかい。拡大鏡がそばにあるが、私は目が悪いので拡大鏡越しにもその文字は読めない。不思議なのは、文字が刻まれていても、急須の肌が傷ついていないという感じがするところだ。さっき、しなやかということばをつかったが、硬いだけだと、たぶん傷になる。他者をしなやかに受け止める力があるのだろう。
 でも、こういうものって、実際につかうのなかなあ。
 朱泥の急須を見たあと、紫泥、烏泥の急須がある。白泥、藻がけ、彩泥といろいろな種類があり、さらに酒器、食器があり、自然釉の壺などがある。つるりとした急須の印象はここでは完全に消えて、泥そのままの、ざらりとした感じがなかなかおもしろい。あ、こういう自然な感じがいいなあ。こういうのがほしいなあ--と思った瞬間。
 変なことが起きた。
 いやあ、やっぱり、最初に見た朱泥の急須がいちばんいいんじゃないかなあ。私のなかでだれかが、静かに異議を唱えたのである。
 引き返して見なおした。ほら、静かだろう? 自己主張がなく、見落としそうだろう? こういうのを実際につかうとぜいたくだぞ。つかいながらうれしくなるぞ。人をひきつけるというより、人といっしょにいるという感じを呼び寄せる。この急須でお茶を入れると、そのまわりに自然に人が集まってくる。そして、ああ、おいしいお茶だねえ、とお茶をほめる。急須ではなくて。それを急須がうれしそうに聴いている。そのとき、空気が和むのを聴いている。そういう静かさがあるなあ。
 自然釉の壺は、どうつかう? 花を飾るには自己主張が強すぎる。庭の隅にころがして、気がつく人だけ気がつくように飾っておく? でも、なんだかそれはわがまますぎるなあ。気がつく人は気がつけよ--というのは、気がつかない人は相手にしないと主張しているようなものだ。思わず、身構えてしまう。

 帰りがけに、ふと壁を見ると山田常山が妻と一緒に急須をつくっている写真があった。ほーっ、と思った。これはいいなあ、とも思った。妻は何やらブラッシング(?)しているような手つきだが、--うーん、「芸術」なら、どんな作業も他人にはまかせないなあ。妻にはまかせないなあ、と私は思う。でも、常山は、何かを平気で妻にまかせている。それじゃあ、ここにある急須は常山と妻の合作? じゃないんだね。そこが、おもしろい。そこがすばらしい、と思った。
 私が最初に急須に感じたしなやかさはこういうことなのかもしれない。他人に何かをまかせる度量の大きさ。それがしなやかさにつながる。そして静かさにつながる。人があつまって、なごむ。そのための器、ということを感じた。
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唐十郎「下谷万年町物語」(2)

2012-01-29 11:44:55 | その他(音楽、小説etc)
唐十郎「下谷万年町物語」(2)(2012年01月27日、シアターコクーン)

 きのうの感想はかなり大雑把すぎたかもしれない。
 宮沢りえの演技に夢中になった、ということを書こうとして、結局、どこに夢中になったか書きそびれている。
 どの部分もすばらしいが、特に火事のなかをブロマイドを探しに行ったときの「思い出」を語る部分がいい。燃え上がる無数のブロマイドの向こうに、すばらしいブロマイドがある。それに手をのばし、それは鏡に映った自分の姿である--と知った、と語る。
 この部分をどう理解するか。役者はナルシストであるという意味か。役者は自分しか見ていないという意味か。
 役者は、自分を発見することで役者になる、ということかもしれない。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、その瞬間、ほんとうに鏡に映った宮沢りえを見ている宮沢りえが舞台にいるのである。それはキティ瓢田という「役者」の記憶のはずなのに、そして宮沢りえにはそういう記憶がないはずなのに、私がそこに見るのは「キティ瓢田」ではなく、宮沢りえなのだ。
 白いタキシードを脱いで赤いシュミーズになる瞬間も、びっくりするくらいすばらしい。「男装の麗人」というキティ瓢田の「役」から、「役」を捨ててキティ瓢田にもどる瞬間なのだが、そのとき何度も同じことを書いてしまうが、宮沢りえは、その「演じている役」をすてて自分に帰るという運動そのもののなかで、宮沢りえになる。キティ瓢田を突き破って、宮沢りえが動く。--だから、というのは、私自身のすけべごころをさらしているようで恥ずかしいが、あ、宮沢りえの乳房が見えるかもしれない、宮沢りえの恥部が見えるかもしれない、芝居だから何が起きるかわからない、と一瞬思ってしまうのだ。
 こういうはらはらどきどきで劇場の視線をひっぱっていく力はすごい。はらはらどきどきを、はらはらどきどきさせながら、瞬間瞬間には忘れさせてしまう力がすごい。実際に宮沢りえの乳房がこぼれるということがないのだが、たとえ乳房がこぼれたとしても、それを見たことさえ忘れるに違いない「肉体」の迫力がある。肉体があれば乳房があるのは当然という清潔さがある。
 これは、たとえば藤原竜也がオカマの集団に襲われ、ズボンを脱がされるシーンと比較すると歴然とする。藤原竜也の下半身は肌色のタイツでしっかり防御され、生身をさらしていない。そこには「役」としての「洋一」はいるけれど藤原竜也はいない。
 この宮沢りえと藤原竜也の差は、非常に大きい。藤原竜也の演技は安定しているが、はらはらどきどきがない。
 はらはらどきどき--と書いたついでに。
 宮沢りえの歌ははらはらどきどきする。音痴の私が言うと、じゃあ、おまえ歌ってみろと言われそうで困るのだが、音が不安定である。高い音から低い音へ下がってくるときの、そのいちばん下の音が特に不安定に感じる。感じるのだけれど--これが、また非常にびっくりする。どこから出で来る声なのかわからないが、その不安定な音を突き破って、ハスキーな、非常に広い声が聴こえてくる。えっ、これテープ? 口パク? と思ってしまう。最初の歌の、最初の低音で、それを感じた。宮沢りえの肉体から離れた場所、劇場の空間の、どこかわからない場所からすーっと広がってくる声。 あ、もういちど聴きたい。もう一度リプレイして、と言いたくなる。
 ハスキーな声というのは、基本的には硬質な声だと思うが、宮沢りえのハスキーな低音は、とてもやわらかい。声の出所が「のど(声帯)」ではなく、違うところにあるような印象がする。「肉体」の内部に、不思議な共鳴装置がついているのかもしれない。

 蜷川の舞台はけれんみが充満している。この芝居には、そのけれんみがとてもあっているとも思う。水の張った池(地下)から3階建て建物まで、天地の空間も存分につかって肉体が動くのは、まさに「見せ物」であり、とても楽しい。どんな哲学も「見せ物」にして肉体化するというのは楽しい。
 特に池に水を張り、役者がそこに飛び込み走り回るとき、観客に水しぶきがかかる。そのとき、観客席はもう舞台なのだ。観客の全員が濡れるわけではないが、ひとりでも濡れれば、そのとき観客は全員濡れるのである。
 芝居は、やっぱり、いい。そこに「肉体」があるというのは、すばらしい力だ。
 この芝居は、芝居に関する芝居なのだが、見ながら、詩のことばは、いまここで演じている役者の「肉体」のような力を獲得しないと、ほんとうの詩にはならない、とふと思った。




下谷万年町物語 (1981年)
唐 十郎
中央公論社
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