野田順子『うそっぷ』(土曜美術社出版販売、2011年10月20日発行)
野田順子『うそっぷ』のタイトルは「イソップ物語」を連想させる。童話。そして、それは「嘘」でできている。--このタイトルの印象がそのまま、この詩集の印象になる。というと、はしょりすぎか……。
ことばは嘘に決まっている。それをわざわざ「嘘」と言ってしまうのは「弁解」である。あらかじめ謝罪している。いい方に受け止めれば、野田は正直で、嘘を貫き通すことができないということなのかもしれない。けれど、それではおもしろくない。
「嘘でしょう」「いえ、本当です」「だって、こんなこと、現実にありえないでしょう?」「それはあなたが現実を知らないだけ」と言い張ればいいのだけれど、そして、嘘を貫き通して、野田そのものが変わってしまえばとてもおもしろいのだけれど。
「これって、ほんとう?」「いや、違います。嘘です。タイトルに、きちんと『うそ』ということばをいれているでしょ?」では、読む気が進まない。もちろん、これは嘘です、と言い張りながらほんとうのことを言うということもあるけれど、野田は、そういうことはしていない。
嘘を貫いて、野田自身が「一個の嘘」そのものになってしまうかわりに、その嘘を動かしている「構造」のようなものを整理して、ことばをとじる。「嘘の構造解明」というべきことがらをして、とてもわかりやすい「設計図」を提示する。
だから、「結論」(結末?)は、おもしろくない。
この詩集のなかの作品は、最後まで読まず、途中で断ち切るとおもしろい。「未完成の設計図」(過程の設計図)の方が、いったい何ができあがるのかわからないという興奮を呼び覚ますのである。
おばさんが「液体」は石油缶に娘を入れて散歩させている。娘は「わたし」と同級生だと言う。だが、石油缶をのぞくと、
ここは、とてもおもしろい。
少女が呪いをかけられて水になる。これは、もちろん嘘である。その嘘を、だってほんとうなのよ、というためには、その嘘が自立して(自律運動で、と言った方がいいかな)動いていかなければならないのだが、ここではそれが2段階に動く。
まず思春期。妬みに「毒」がまじりはじめる。そして濁る(「わたし」が最初に見たのは、この「濁った水」である。)
つぎに、「あなた(詩のなかのわたし)」に会うと「ちょっと透き通ったでしょ?」。濁りが変化する。
この2段階の「嘘」の後押しが、嘘を嘘ではない「事実」へと育てる。
で、その事実というのは、まあ、「設計図」風にいえば、たまったままの水は淀む。そこにはいろいろな不純物がまじり、不純物は不純物と出会い、ますます汚れる。これは現実で私たちが体験することである。
その一方で、私たちは水が濾過され、きちんと処理すれば透明になるということも知っている。
水は濁ることもあれば、その濁りを解消することもできる。濁った水は、透明になることができる。
これは知っているというより、肉体が覚えていることがらである。そして、その覚えていることがらが、このおばさんのことばと一緒に、ことばにならないものを突き動かす。私は、突き動かされる。--まあ、単純に、バケツにためていた水が濁り、その濁りがあるとき沈殿して上澄みのようなものがあらわれることがある、そういうバケツ、そういう水を見たことがあるなあ、ということを思い出すだけなのかもしれないけれど、そこにはなにかしら、ことばにならないものがある。
野田の書いていることがらではないものを、私は私の記憶から引っぱりだし、野田のことばに重ねる。そして、あ、そうか、水はそういうふうに変化するものなのだというとこを、はっきりと覚え直す。
こういうことが、私にはとても楽しい。
けれど。
ある日、おばさんは水をこぼしてしまう。水には毒があるので、「踏まないでください」と注意される。でも、「わたし」は毒の影響を受けないことがわかる。だれかが「もしかして 呪いを解きにいらした方ですか?」と問う。
そして、そのあと、「解説」がつけくわえられる。
「わたし」の「妬み」の方が友だちの「妬み」より大きかった。毒が強かった。だから、友だちの「毒」では影響を受けない。
「毒」の強弱の算数(科学?)である。
でも、こんなことを算数で説明されても、「頭」では理解できるが、「肉体」にはなじまないなあ。
「わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた」と抽象的に書いたのでは、「わたし」はけっして傷つくことがない。「中傷」では人は傷つくかもしれないが「抽象」ではだれも傷つかない。どんな感情、どんなふうにそれが悪いのか、具体的に書かないと、「わたし」は傷つかず、そして、「わたし」は「いま」のままで何の変化もないことになる。
「わたし」が「悪い感情を抱いて生きてきた」といくらいっても、そんなことばでは誰も「わたし」に石をぶつけられない。「おまえ、そんな悪いことをしてきたのか」と批判できない。主人公が変わらなければ、読者も変わりようがない。
書いているうちに「わたし」(主人公)が変わってしまう--というのが、詩でも小説でも、またあらゆる芸術に共通したことがらなのだが、野田のことばのなかでは、誰も変わらない。野田の「世界」の「設計図」がより精密になるだけである。「頭」は、その構造を揺るぎないものにするが、その設計図は野田を超えない。
野田順子『うそっぷ』のタイトルは「イソップ物語」を連想させる。童話。そして、それは「嘘」でできている。--このタイトルの印象がそのまま、この詩集の印象になる。というと、はしょりすぎか……。
ことばは嘘に決まっている。それをわざわざ「嘘」と言ってしまうのは「弁解」である。あらかじめ謝罪している。いい方に受け止めれば、野田は正直で、嘘を貫き通すことができないということなのかもしれない。けれど、それではおもしろくない。
「嘘でしょう」「いえ、本当です」「だって、こんなこと、現実にありえないでしょう?」「それはあなたが現実を知らないだけ」と言い張ればいいのだけれど、そして、嘘を貫き通して、野田そのものが変わってしまえばとてもおもしろいのだけれど。
「これって、ほんとう?」「いや、違います。嘘です。タイトルに、きちんと『うそ』ということばをいれているでしょ?」では、読む気が進まない。もちろん、これは嘘です、と言い張りながらほんとうのことを言うということもあるけれど、野田は、そういうことはしていない。
嘘を貫いて、野田自身が「一個の嘘」そのものになってしまうかわりに、その嘘を動かしている「構造」のようなものを整理して、ことばをとじる。「嘘の構造解明」というべきことがらをして、とてもわかりやすい「設計図」を提示する。
だから、「結論」(結末?)は、おもしろくない。
この詩集のなかの作品は、最後まで読まず、途中で断ち切るとおもしろい。「未完成の設計図」(過程の設計図)の方が、いったい何ができあがるのかわからないという興奮を呼び覚ますのである。
おばさんが「液体」は石油缶に娘を入れて散歩させている。娘は「わたし」と同級生だと言う。だが、石油缶をのぞくと、
中身は……濁った水だった
呆然とするわたしにおばさんは言った
「今はこんなだけどね 呪いをかけられた最初は
大きくなれないだけだったのよ
でも大きくなれないから どうしてもふつうの人を妬むでしょ
そういう悪い感情を持つたびに身体が溶けていって
何年かで水になっちゃってね
思春期の頃には だんだん毒も出てきたの
けれど親としてはずっと家に閉じ込めておくのもかわいそうで
こうやってときどき散歩させてるの
この子 やっぱりあなたに会えたのはうれしいみたい
ちょっと透き通ったでしょ?
さっきまでもっと濁っていたのよ」
ここは、とてもおもしろい。
少女が呪いをかけられて水になる。これは、もちろん嘘である。その嘘を、だってほんとうなのよ、というためには、その嘘が自立して(自律運動で、と言った方がいいかな)動いていかなければならないのだが、ここではそれが2段階に動く。
まず思春期。妬みに「毒」がまじりはじめる。そして濁る(「わたし」が最初に見たのは、この「濁った水」である。)
つぎに、「あなた(詩のなかのわたし)」に会うと「ちょっと透き通ったでしょ?」。濁りが変化する。
この2段階の「嘘」の後押しが、嘘を嘘ではない「事実」へと育てる。
で、その事実というのは、まあ、「設計図」風にいえば、たまったままの水は淀む。そこにはいろいろな不純物がまじり、不純物は不純物と出会い、ますます汚れる。これは現実で私たちが体験することである。
その一方で、私たちは水が濾過され、きちんと処理すれば透明になるということも知っている。
水は濁ることもあれば、その濁りを解消することもできる。濁った水は、透明になることができる。
これは知っているというより、肉体が覚えていることがらである。そして、その覚えていることがらが、このおばさんのことばと一緒に、ことばにならないものを突き動かす。私は、突き動かされる。--まあ、単純に、バケツにためていた水が濁り、その濁りがあるとき沈殿して上澄みのようなものがあらわれることがある、そういうバケツ、そういう水を見たことがあるなあ、ということを思い出すだけなのかもしれないけれど、そこにはなにかしら、ことばにならないものがある。
野田の書いていることがらではないものを、私は私の記憶から引っぱりだし、野田のことばに重ねる。そして、あ、そうか、水はそういうふうに変化するものなのだというとこを、はっきりと覚え直す。
こういうことが、私にはとても楽しい。
けれど。
ある日、おばさんは水をこぼしてしまう。水には毒があるので、「踏まないでください」と注意される。でも、「わたし」は毒の影響を受けないことがわかる。だれかが「もしかして 呪いを解きにいらした方ですか?」と問う。
そして、そのあと、「解説」がつけくわえられる。
わたしははっとした
わたしも今までいろいろあった
『彼女』の毒のもとになった悪い感情より
わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた
だが それを話すと家族は怒り 友だちも離れていった
どうして人は妬みを打ち消そうとするのだろう?
さびしかった
「わたし」の「妬み」の方が友だちの「妬み」より大きかった。毒が強かった。だから、友だちの「毒」では影響を受けない。
「毒」の強弱の算数(科学?)である。
でも、こんなことを算数で説明されても、「頭」では理解できるが、「肉体」にはなじまないなあ。
「わたしのほうがよほど悪い感情を抱いて生きてきた」と抽象的に書いたのでは、「わたし」はけっして傷つくことがない。「中傷」では人は傷つくかもしれないが「抽象」ではだれも傷つかない。どんな感情、どんなふうにそれが悪いのか、具体的に書かないと、「わたし」は傷つかず、そして、「わたし」は「いま」のままで何の変化もないことになる。
「わたし」が「悪い感情を抱いて生きてきた」といくらいっても、そんなことばでは誰も「わたし」に石をぶつけられない。「おまえ、そんな悪いことをしてきたのか」と批判できない。主人公が変わらなければ、読者も変わりようがない。
書いているうちに「わたし」(主人公)が変わってしまう--というのが、詩でも小説でも、またあらゆる芸術に共通したことがらなのだが、野田のことばのなかでは、誰も変わらない。野田の「世界」の「設計図」がより精密になるだけである。「頭」は、その構造を揺るぎないものにするが、その設計図は野田を超えない。
うそっぷ―野田順子詩集 | |
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