唐十郎「下谷万年町物語」(2012年01月27日、シアターコクーン)
演出・蜷川幸雄、出演・宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘。(2012年01月27日、シアターコクーン)
玉手箱のような芝居である。劇とは何か--さまざまな角度から問いかける。
いろいろな見方があるだろうが、私は劇・芝居とは、そこにないものをそこにあるものとして存在させることである。舞台の上で演じられていることは、いまここで起きていることではなく、かつて起きたことである。かつて起きたことであるけれど、いまここで役者が演じるとき、かつて起きたことが、いまここで起きていることになる。ここには、不思議な矛盾がある。
だれかの役を演じる。そのとき役者は役者であるけれど、役者ではない。いまここにいないだれかである。いまここにいないだれかであるけれど、それではほんとうにそのだれかなのかといえばそうではなくて役者である。
わかりきったことだが、そのわかりきったことのなかにある矛盾。
このことを、この芝居では「そこにいる」「そこにいない」ということばで簡単に表現している。
そこにいないのに、それを求めるとき、そこにいる。いや、そこにいてほしいと求めるとき、そこにはいなくて、「ここ」にいる。「ここ」とは求める人間そのものの「肉体」のなかにいる。
というのも、矛盾である。
この矛盾を、宮沢りえが、実に美しく、実に劇的に、具体化する。具現化する。宮沢りえは、宮沢りえでありながら、キティ瓢田であり、キティ瓢田はキティでありながら、洋一を演じる。その洋一は、いまそこにいて、キティに洋一を演じさせている。このとき、宮沢りえと洋一の関係は?
考えると、ややこしい。
だが、芝居はややこしくない。演劇に通じるいろいろな問題をことばにして語るが、それはどうでもいい。そこに宮沢りえがいて、体を動かしている。演じている。それは、しかし宮沢りえが演じているのではないのだ。
という書き方(言い方)は矛盾だが、あえて言う。
そこでは宮沢りえが演じているのではない。キティが、宮沢りえを演じているのだ。あるいは洋一が(キティによって演じられた洋一が)、宮沢りえを演じている。宮沢りえとはこういう役者であると、演じている。
私は芝居を見ていないのである。劇を見ていないのである。ただ、宮沢りえという役者の肉体を見ている。その動きを見ている。声を聴いている。歌を聴いている。ダンスを見ている。白いタキシードを見ている。赤いシュミーズを見ている。あ、脱げそう、とすけべごころを抱きながら、その衣装を肌そのものにして動き回る宮沢りえを見ている。細い細い宮沢りえを見ている。細いけれども、絶対に折れない強靱な何かを持っているその肉体を見ている。白い肌を見ている。その肌を汚す血のあざやかさを見ている。宮沢りえそのものを見ている。
人と人が出会い、そこで何かが動くとき、その動きは矛盾に満ちている。どんなに志が同じであっても、人と人はそれぞれの肉体を持っているから、どうしたってひとつにはなれない。けれど、その不可能へ向けて人間は動く。矛盾を肉体の内部にとりこみ、肉体で押さえ込む。あるいは肉体をとおして矛盾を噴出させる。押さえ込むことは噴出することは相反することがらだけれど、つまり矛盾することがらだけれど、その矛盾があらわになるとき、そこにかけがえのない「ひとつ」の絶対的な「肉体」が屹立する。
それにしても美しい。白と赤がとても似合う。この世に、ほかの色があるのを忘れてしまうくらい、宮沢りえには白と赤が似合う。
宮沢りえはいつ出てくるんだ、なぜ出でこないと我慢しきれなくなったころ、みどりの瓢箪池から瀕死の状態でひきあげられる。そのときの白の輝き。ライティングで輝いているのではなく、宮沢りえがライトに向かって発光しているのだ。強い光を投げかけているのだ。だからこそ、その輝きは劇場全体をつつむ。
このときからほんとうの芝居がはじまる。宮沢りえの肉体が、ほかの役者のすべての肉体を引き寄せ、突き放す。宮沢りえの肉体をとおって、純粋になり、猥雑になり、狂おしくなり、悲しくなり、切実になる。「芝居」なのに芝居ではなく、いま、ここで起きていることになる。役者たちは唐十郎の書いたことばを声にしているのではない。蜷川の演出に従って動いているのではない。宮沢りえが、唐十郎にこういう芝居を書かせたのだ。蜷川にこういうおおげさな舞台を要求したのだ。--というのは、もちろん時系列的にいって矛盾だが、しかし、芝居が演じられるとき、役者が動き、ことばが発せられるとき、事態は逆転するのだ。そこにあるのは、まず役者の肉体である。そのなかで唐のことばが動き、蜷川の演出が動くだけである。
繰り広げられるのは、どこまでがほんとうなのか、ほんとうは何が起きたかのか、わからない。しかし、そのわからなさを貫いて、そこに宮沢りえがいるということがわかる。宮沢りえのなかで、いくつもの激情が炸裂し、疾走し、暴れているのがわかる。それがどこまでつづくのかわからなくなる。もう、それは唐の書いた芝居ではない。蜷川の演出した芝居ではない。宮沢りえの肉体が舞台そのものになっている。劇そのものになっているのだ。
もし肉体というものがなければこころはもっと傷つかずに生きられるのか。あるいは逆に肉体というものがあるからこころは傷ついても傷ついても生きられるのか。--こんな問いかけはおろかだ。どっちでもいい。そのときそのとき、人はどちらかを選ぶだけに過ぎない。どちらを選んでも、そこには肉体がある。そのたしかさ、その強さに震えてしまう。
演出・蜷川幸雄、出演・宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘。(2012年01月27日、シアターコクーン)
玉手箱のような芝居である。劇とは何か--さまざまな角度から問いかける。
いろいろな見方があるだろうが、私は劇・芝居とは、そこにないものをそこにあるものとして存在させることである。舞台の上で演じられていることは、いまここで起きていることではなく、かつて起きたことである。かつて起きたことであるけれど、いまここで役者が演じるとき、かつて起きたことが、いまここで起きていることになる。ここには、不思議な矛盾がある。
だれかの役を演じる。そのとき役者は役者であるけれど、役者ではない。いまここにいないだれかである。いまここにいないだれかであるけれど、それではほんとうにそのだれかなのかといえばそうではなくて役者である。
わかりきったことだが、そのわかりきったことのなかにある矛盾。
このことを、この芝居では「そこにいる」「そこにいない」ということばで簡単に表現している。
そこにいないのに、それを求めるとき、そこにいる。いや、そこにいてほしいと求めるとき、そこにはいなくて、「ここ」にいる。「ここ」とは求める人間そのものの「肉体」のなかにいる。
というのも、矛盾である。
この矛盾を、宮沢りえが、実に美しく、実に劇的に、具体化する。具現化する。宮沢りえは、宮沢りえでありながら、キティ瓢田であり、キティ瓢田はキティでありながら、洋一を演じる。その洋一は、いまそこにいて、キティに洋一を演じさせている。このとき、宮沢りえと洋一の関係は?
考えると、ややこしい。
だが、芝居はややこしくない。演劇に通じるいろいろな問題をことばにして語るが、それはどうでもいい。そこに宮沢りえがいて、体を動かしている。演じている。それは、しかし宮沢りえが演じているのではないのだ。
という書き方(言い方)は矛盾だが、あえて言う。
そこでは宮沢りえが演じているのではない。キティが、宮沢りえを演じているのだ。あるいは洋一が(キティによって演じられた洋一が)、宮沢りえを演じている。宮沢りえとはこういう役者であると、演じている。
私は芝居を見ていないのである。劇を見ていないのである。ただ、宮沢りえという役者の肉体を見ている。その動きを見ている。声を聴いている。歌を聴いている。ダンスを見ている。白いタキシードを見ている。赤いシュミーズを見ている。あ、脱げそう、とすけべごころを抱きながら、その衣装を肌そのものにして動き回る宮沢りえを見ている。細い細い宮沢りえを見ている。細いけれども、絶対に折れない強靱な何かを持っているその肉体を見ている。白い肌を見ている。その肌を汚す血のあざやかさを見ている。宮沢りえそのものを見ている。
人と人が出会い、そこで何かが動くとき、その動きは矛盾に満ちている。どんなに志が同じであっても、人と人はそれぞれの肉体を持っているから、どうしたってひとつにはなれない。けれど、その不可能へ向けて人間は動く。矛盾を肉体の内部にとりこみ、肉体で押さえ込む。あるいは肉体をとおして矛盾を噴出させる。押さえ込むことは噴出することは相反することがらだけれど、つまり矛盾することがらだけれど、その矛盾があらわになるとき、そこにかけがえのない「ひとつ」の絶対的な「肉体」が屹立する。
それにしても美しい。白と赤がとても似合う。この世に、ほかの色があるのを忘れてしまうくらい、宮沢りえには白と赤が似合う。
宮沢りえはいつ出てくるんだ、なぜ出でこないと我慢しきれなくなったころ、みどりの瓢箪池から瀕死の状態でひきあげられる。そのときの白の輝き。ライティングで輝いているのではなく、宮沢りえがライトに向かって発光しているのだ。強い光を投げかけているのだ。だからこそ、その輝きは劇場全体をつつむ。
このときからほんとうの芝居がはじまる。宮沢りえの肉体が、ほかの役者のすべての肉体を引き寄せ、突き放す。宮沢りえの肉体をとおって、純粋になり、猥雑になり、狂おしくなり、悲しくなり、切実になる。「芝居」なのに芝居ではなく、いま、ここで起きていることになる。役者たちは唐十郎の書いたことばを声にしているのではない。蜷川の演出に従って動いているのではない。宮沢りえが、唐十郎にこういう芝居を書かせたのだ。蜷川にこういうおおげさな舞台を要求したのだ。--というのは、もちろん時系列的にいって矛盾だが、しかし、芝居が演じられるとき、役者が動き、ことばが発せられるとき、事態は逆転するのだ。そこにあるのは、まず役者の肉体である。そのなかで唐のことばが動き、蜷川の演出が動くだけである。
繰り広げられるのは、どこまでがほんとうなのか、ほんとうは何が起きたかのか、わからない。しかし、そのわからなさを貫いて、そこに宮沢りえがいるということがわかる。宮沢りえのなかで、いくつもの激情が炸裂し、疾走し、暴れているのがわかる。それがどこまでつづくのかわからなくなる。もう、それは唐の書いた芝居ではない。蜷川の演出した芝居ではない。宮沢りえの肉体が舞台そのものになっている。劇そのものになっているのだ。
もし肉体というものがなければこころはもっと傷つかずに生きられるのか。あるいは逆に肉体というものがあるからこころは傷ついても傷ついても生きられるのか。--こんな問いかけはおろかだ。どっちでもいい。そのときそのとき、人はどちらかを選ぶだけに過ぎない。どちらを選んでも、そこには肉体がある。そのたしかさ、その強さに震えてしまう。
下谷万年町物語 (1983年) (中公文庫) | |
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