詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」

2012-01-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」(「ミて」117 、2011年12月30日発行)

 ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」は、ほんとうに個人的な「アメリカ史」である。ジェフリー・アングルズの家系図について語っている。

思春期のときに
わたしのひいおじいさんは
密航者になって
ひとりでこの国にやって来た
と編み針をあやつりながら
祖母は言う
途中で見つかって
死にそうまで打擲された
だから陸に着いたら
さっさと逃げた
言葉なんて通じなかったが
どこかで猿を見つけた
あるいは盗んだかもしれない
自分の名前を皇帝のように
大きく看板に書いた
そして開かれた海の前で
手回しオルガンを演奏して
猿を踊らせた

 この1行1行のリズムが気持ちがいい。きっと「祖母」の語っているリズムを再現しているのだと思うが、ことばがリズムを持つまでには繰り返しが必要である。祖母はこの話を何度も何度も語っていたのだろう。そして、作者はその語りを何度も何度も聞いたのだろう。「あるいは盗んだのかもしれない」という推測さえ、繰り返されて「事実」になる。推測が事実というのは変だけれど、そう推測したということが事実なのだ。推測することで、実際以上に「ひいおじいさん」の「時間」というか「肉体」というか--その人間が大きくなる。そこに「誤読」が入っているのだけれど、「誤読」は一種の「夢」でもある。猿を見つける--でもバイタリティーがあるのだが、盗んだの方が懸命に生きる感じがする。いいじゃないか、生きるためなんだから猿ぐらい盗んだって。で、ほんとうは猿を盗んだが「事実」であって、「かもしれない」はその違法行為をごまかすための「方便」としての「推測」かもしれない。
 さあ、どっちを選ぶ?
 こういう「選択」にきっと、読者の「質」というか「品」が出るんだろうなあ。つまり「思想」が出るんだろうなあ。--と書いたあとでは書きにくいが、私は、きっと盗んだのだと思う。でも盗んだというとあとで問題になるから、「盗んだのかもしれない」と推量にしておいたのだ。あえて、ごまかしたのだ。そうした方が、どんなふうに読んでもいいでしょ? 好き勝手読みなさい。自分の「アメリカ史」をつくりなさい、ということだね。
 「ひいおじいさん」は、家系図をたどるとひとりではない。祖母の「ひいおじいちゃん」は父方の父と、母方の父。で、もうひとりのひいおじんちゃんのことが2連目で書かれているのだが、省略して、3連目。

思春期のとき
わたしはこの国しか知らない祖母の
話をベランダでひとりで聞く
彼女の皺で覆われた手は
流れることばのように速い
一目、二目、針を引いて
黒い紐を白い紐にかける
三目、四目、針を引いて
地平線に水平線をかける
四目、五目、針を引いて
赤い紐を青い紐にかける
六目、七目、針を引いて
血統を血統にかける
そして 寄り合わせたら
演奏し終わった針を
話とともに止めて
紐はしっかり
口で締める

 途中、「四目」が二回でてきて、書き間違いかなあとも思うのだけれど、まあ、いい。論理的な「意味」ではなく、ここはリズムさえあっていればいいのだから。リズムさえあっていれば、音(意味?)は自由というのはジャズやロックみたいでいいなあ。クラシックは逆だね。音はあっていないといけないけれど、テンポ(リズムとは感覚がちょっと違うのだろうけれど、私のような素人には、テンポとリズムなんて、まあ、似たようなもの)は自由。
 で、そういう破調(?)を通り抜けて、最後の

口で締める

 あ、これいいなあ。
 これは実際に口で締めるというよりも(実際は手で締めるのだと私は想像しているのだが)、紐を最後に口で(歯で)断ち切って終わるのだと思う。
 その断ち切りを「締める」というのが、うーん、おもしろい。
 口を締める(ではなく、閉める、かも)ことは、ことばを閉じること。そしてことばを閉じるということは、そのことばが語ってきた物語をそこで「断ち切る」こと。つまり終わらせること。
 で、その編み針をあやつることと、物語を語ることが、交差して、同時に終わる。
 そのためには、何が必要だろう。
 「物語」が確実に肉体にしみ込んでいて、自在に長さを変える必要がある。ことばのリズム(テンポ、とも言い換えてみる)は守りながら、物語が紐を編むのと同じ「時間」になるためには、ことばの省略、追加が自在におこなわれなければならない。そういうことを自在におこなうためには、その物語は何度も何度も繰り返され、肉体になじんでしまわないといけない。
 「知っている」ではなく、「覚えている」ことば。肉体となっている、ことば。
 ことばを発するのが口なので、物語が終わるとき、口は閉じられる。そういう意識がどこかに残っていて、

紐をしっかり
口で締める

 になってしまう。
 肉体になじんだことばが、事実をゆがめてしまう。ほんとうは手で紐を締め、口で、口の端で編んでいる糸の方を断ち切るのだけれど、締めると断ち切るが肉体のなかで混同してしまう。
 それくらい、ここで語られていることは繰り返されたのだ。ひいおじいさんの「歴史」だけではなく、それを語る祖母の時間も繰り返されたのだ。そして、それを聞くジェフリー・アングルズの行為も。
 耳になじんだことばが、視覚を混乱(?)させ、ことばを「流通言語」から違うものにしてしまう。
 それはここで語られているアメリカ史が「個人史」なのに対して、「個人語」というものかもしれない。そこには、詩人の「血統」がそのまま生きている。
 それがおもしろい。

 同時に掲載されている「田」も、「田」という象形文字に関する「個人語」の感想である。「流通言語」として説明されている「田」ではない思想をジェフリー・アングルズはつかみ取り、そこから「流通言語」(その思想)に異議をとなえている。
 作品は「ミて」で確認してください。
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ノーマン・ジュイソン監督「華麗なる賭け」(★★)

2012-01-14 21:58:45 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 スティーヴ・マックイーン、フェイ・ダナウェイ

 タイトルの分割画面が、昔はとても新鮮に感じられた。でも、いまはなんだかうるさい。あまり効果的とも思えない。同じ画面に映っていなくても「同時」という感覚は生まれる。画面の大小もおもしろくない。いま、誰かがやるとするなら、目そのもののアップとか、飛行機の翼の一部とか、全体を観客の想像力にゆだねるものになるかなあ。
 冒頭の銀行強盗のシーンまでと、スティーヴ・マックイーンとフェイ・ダナウェイの恋愛がちぐはぐ。運転手をホテルに呼び出して雇うところから、公衆電話を活用して時間をあわせ、金を奪うまでは、ほんとうに華麗でわくわくするね。そのあと、まあ、恋愛してはいけない2人、銀行強盗の主犯と犯人探しの調査官が恋に落ちる――というのが見せ場なんだろうけれど、なじめないなあ。
 美しいのはグライダーのシーンとミシェル・ルグランの音楽が交錯するシーン。自力では飛ばず、惰力と風で空を舞う――その不安定が、2人の恋愛の駆け引きを象徴する。(そのシーンには別の女性がいるのだけれど。)どっちが惰力? どっちが風? 恋愛では、主役はなく2人の関係の揺らぎが主役。揺らぎ、駆け引きが美しい時、2人が輝く。惰力と風が拮抗しバランスをとるときグライダーが華麗に舞うのに似ている。
 これに比べるといかにもスティーヴ・マックイーンらしい海辺の車のシーンは、ぜんぜん美しくない。スティーヴ・マックイーンがリードするだけ。車を運転するとき、車をあやつるのはスティーヴ・マックイーン。まあ、砂浜のでこぼこが不確定要素だけれど、フェイ・ダナウェイは安心しきっているでしょ?
 それに比べると、グライダーは女が一応、「どうしてエンジンつきにのらない?」と問いかけるでしょ? 不安だからだね。自分のすべてをコントロールできたら、そこには恋はない。自分だけではコントロールできない――それが恋。
 ラストが、そうだね。最後の「賭け」は、どっちが勝った? スティーヴ・マックイーンもフェイ・ダナウェイも負ける。負けた二人の間で、不可能な恋だけが勝ち誇って輝いている。人間の「知恵」では解決できないいのちが輝く。それが、涙、というわけか・・・。


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