詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田俊子「アストラル」

2012-01-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

平田俊子「アストラル」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 平田俊子「アストラル」は草野心平のことを書いている。弟の天平の重篤の知らせを聴いて弟の所へ駆け付ける。駆け付けようとする。なかなかすんなりとはいかない。そのときのことを書いている。
 自分のことではないので、まあ、取材して書いている。そして、草野心平が「アイスクリーム」という詩を書いたことをつきとめ、その詩についても書いている。最後の食べ物としてアイスクリームを食べさせたい、と思ったらしい。
 ここから平田は、これは宮沢賢治の「永訣の朝」に似ていると思う。賢治は妹に「あめゆじゅ」を食べさせたいと思った。心平はアイスクリーム。冷たい食べ物が似ている。
 さらに、高村光太郎のことも思い出す。死にゆく妻にレモンをかじらせようとした高村光太郎。
 その高村光太郎について書いた部分がおかしくて笑ってしまう。

死にゆく妻にレモンをかじらせた男もいた
(あのレモンは輪切りにしたもの?
皮をむいて一房与えた?
死にかけている人に丸かじりさせた?
レモンをかじるには顎の力が必要
危篤の人には酷ではないか
妻は本当にレモンを待っていたのか
夫は本当にレモンを買ったのか
様態急変の知らせを受けて病院に急ぐ途中
果物屋に寄る気になるだろうか
大井町の駅からゼームス病院までの間に
果物屋はあったか
当時高価だったレモンが店頭に置かれ
買うだけの金が男の財布にあったか)

 確かに変だねえ。平田が書いているように、これは、ほんとうのこと、と思ってしまう。
 そして、こういう詩について、おもしろいとか、おかしいと思うことは、高村光太郎の詩についての気持ちを「リセット」するということでもある。(リセット--については、きのうの「日記」を読んでください。)
 この「リセット」があって、最後の部分が、なんといえばいいのだろうか。「親身」の感じがとても強くなる。
 光太郎が死ぬ寸前のことを書いている。草野心平とのやりとりを書いている。

七十を過ぎた光太郎は病の床にあった
梅雨時 牛乳が傷むことを案じる光太郎に
心平は冷蔵庫を買うようすすめた
氷が毎日配達されることを厭う光太郎に
心平は電気冷蔵庫を提案した
氷で冷やす冷蔵庫が一般的だった時代に
電気冷蔵庫は高級だった
心平は筑摩書房にかけあって
光太郎の印税を前借りし
イギリス製の
アストラルという電気冷蔵庫を
光太郎のアトリエに届けさせた
光太郎はまもなく亡くなり
アストラルは心平が譲り受けた

アストラルのその後は知らない
光太郎死して 五十余年
今もどこかで冷たいものを
いっそう冷たくしているだろうか
扉を開けると
アイスクリームとレモンと
あめゆじゅが
もの言いたげに並んでいるだろうか

 しみじみするねえ。
 私が先に引用したレモンの部分があることで、そのしみじみが強くなる。どうしてかなあ。なくてもしみじみするのだろうけれど、あった方がしみじみすると思う。なぜだろうか。
 作用-反作用の効果? 逆説の効果?
 うーん、違うなあ。そんな作為的(?)なものではない。
 私は、心平の労力に感心したのではない。心平のやさしさは、それはそれで感動的だが、その友情に感動したのではない。
 平田の語り口に感動したのだと思う。
 平田はたんたんと平田が調べてわかったことを書いているのだと思う。そして、そこには何の誇張もないと思う。
 その「正直」に私は感動したのだ。

 光太郎が智恵子のためにレモンを買った。どこで? どうやって食べさせた? わからないことはわからないと書く。疑問に思ったことは疑問として書く。ことばを動かす。
 そのあとで、なおことばが動いていくなら、そのことばをただ追いかける。

 ここには不思議な「清め」が働いている。
 岡井隆に、辺見じゅんが「中年の恋つて ありますか 岡井さん」と訪ねたのと同じ「声」のまっすぐな響きが平田のことばにはある。
 ほんとうは言ってはいけないのかもしれない。遠慮(?)しなければいけないのかもしれない。
 けれど、そこで遠慮してしまうと、そのあとのことばが「遠慮した」という「汚れ」とともに動いてしまう。「汚れ」をひきずってしまう。

 平田のことばのおもしろさは、出発点とたどりついたところが違うところ--というところにある。
 「アストラル」は最初、重篤の天平のところへ駆け付ける心平のことを書いている。しかし、それが途中から光太郎のことに変わってしまう。そしてそこには、智恵子にレモンをかじらせたというのは変じゃない?という脱線まである。
 脱線があるのだけれど、脱線することで、不思議に「本道」に入っていってしまう。
 その「本道」というのは「正直」ということである。
 平田が「正直」にことばを動かすと、その「正直」に答えるようにして、心平の「正直」が動く。筑摩書房にかけあって、光太郎に冷蔵庫を買わせる--という親身の世話が動く。
 あ、これは「歴史・事実」に反する言い方だね。
 心平の親切があって、それを平田のことばが「再現」しているというのがこの詩の構造なのだから。
 でも、私は逆に感じてしまう。
 平田が「正直」でなければ、心平の「正直/親切/親身」は、こんなふうにしてことばにならなかった。
 何かを「事実」にしていく、確かなものにしていくのは「正直なことば」なのだと思った。

 「正直」にはいろいろな「正直」がある。岡井に「中年の恋つて ありますか 岡井さん」と聞く辺見じゅんの「正直」、聞かれて「刺された」と感じ、その感じたことを書く岡井の「正直」。「正直」と「正直」がぶつかると、世界がリセットされる。そして人間が生まれ変わる。
 平田の詩では、平田の「正直」が草野心平にぶつかり、高村光太郎にぶつかる。そして、そこから心平と光太郎が、新しく生まれてくる。知らなかった心平と光太郎が、まっすぐに生きてくる。平田のことばのなかを歩いてくる。
 森鴎外の「渋江抽斎」を思い出させる作品だ。




平田俊子詩集 (現代詩文庫)
平田 俊子
思潮社
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ナボコフ「恩恵」

2012-01-06 12:18:35 | ナボコフ・賜物
             『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
 「恩恵」は女と待ち合わせる男が主人公である。絵はがき売りのおばあさんの隣で待っている。しかし、男は女が来るとは思っていない。

ぼくは歩きながら、君はきっと会いに来てきれないだろうと考えていた。(94ページ)
 
君が来るとは信じてはいなかった。                 (95ページ)

君が来ると信じていなかった。                   (95ページ)

すでに一時間ほどが経っていた。もしかするとそれ以上だったかもしれない。どうして君が来ると思えたのだろう。                     (96ページ)

でも君は来ると約束したじゃないか。                (96ページ)

 この繰り返しがとてもおもしろい。リズムが、とても音楽的で楽しい。繰り返されるたびに、「来ない」ということが読者にはわかってくるのだけれど、わかっていても読まずにはいられないのは、繰り返しのリズムが音楽だからである。
 「君は来ない」と思いながら、待ちつづける。そして、その待っている間に、ひとつの「事件」が起きる。
 おばあさんにコーヒーの差し入れがあり、おばあさんはコーヒーカップを返しにゆく。それをみながら、主人公の心境に変化が起きる。それがこの小説のハイライトなのだが、それよりも、前半の「君は来ない」というこころの動きがおもしろい。
 さらに、事件後もおもしろい。

ついに君がやってきた。実を言えば、やってきたのは君ではなくドイツ人のカップルだった。(略)その時だった、その女が君に似ているとぼくが気づいたのは--似ているのは外見でも洋服でも鳴く、まさにその清潔そうないやなしかめっ面、そのぞんざいで無関心な目つきだった。                         (98ページ)

 男は、ここで女が嫌いであるということを発見するのだけれど、この変化がおもしろい。--というのは、まあ、短編小説の「技術」の問題に属することかもしれない。ストーリーをどう展開するかということに属する問題かもしれない。
 そこはそこで感心したのだけれど、私の関心は別な部分になる。ナボコフが好きでたまらない理由は別な部分にある。
 おばあさんとコーヒーのやりとりをとおして「世界のやさしさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なる絆を感じた」主人公が、電車で帰っていく最後の最後のシーン。

電車が停まるたびに、上のほうで風にもがれたマロニエの実が屋根にあたって音を立てるのが聞こえた。コトン--そしてもう一つ、弾むように、やさしく、コトン……コトン……。路面電車は鐘を鳴らして動き出し、濡れた窓ガラスの上で街灯の光が砕け散り、ぼくは胸を刺し貫く幸福感とともに、その穏やかな高い音が繰り返されるのを待った。ブレーキの響き、停留所--そしてまた一つ、丸いマロニエの実が落ちた--つづいて二つめが落ち、屋根にぶつかり転がっていった。コトン……コトン……。
                               (98-99ページ)

 「しかめっ面」「ぞんざいで無関心な目つき」という「視覚」の不機嫌が、「コトン……コトン……」と繰り返される音楽(聴覚)で癒されていく。

 ひとは、聴覚でできている。--私は、ひそかにそう感じている。私たちをとりまく「情報」は「視覚」によるものが多い(多すぎる)。その反作用のようなものかもしれないが、静かな「聴覚」、美しい「聴覚」に触れると、私はとてもうれしく感じる。
 ナボコフも、私にとっては「聴覚の作家」である。



カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)
ナボコフ
光文社
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八柳李花―谷内修三往復詩(17)

2012-01-06 00:00:49 | 
端からくずおれてゆく  谷内修三


新しいビルの冬のガラス窓が空白に見えるときみの声が言う
その朱泥を持たない鏡の薄青い悲しみに映るのは
福岡市中央区赤坂二丁目・ケヤキ通りの盛り土のような傾斜のかすかな坂
そしてひびわれた舗道の内部には誰も知らない暗さに凍えて震える灰色の根
そんなものがあることも知らずことばから遠く見放され
秘密を滑らせるように不安定な昼の光が濡れたアスファルトをなぞるとき
見知らぬ人がバスを待つその上空で絡み合うきのうの夜の喘ぎより細い梢よ
そばにいるひとのそばで半壊する孤独の陰影の先端に触れていらだち
いちばん白い冬の雨粒は無数の霧に際限なく分裂し流れるままに
いのちあるもののように群がり、いのちあるもののように端からくずおれてゆく
ビルを越える風に吹き乱されるその白い色の沈黙の深さに
遅れてやってくるバスのやわらかなブレーキが似てしまう
ので私は書店キューブリックの新刊書のページをめくりにゆく
「過去には時間がなく思い出すとき過去は過去になるというのは
知っていることだけれど、悲しい過去でも
思い出すとこころがなごむということがわからないのはどうしてかしら」
新しいビルの冬のガラス窓が空白に見えるときみの声が言う
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