日高てる『日高てる詩集』(3)(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)
日高てるの「視覚」、思想になった肉体、目の思想の強靱さに打ちのめされる。そして惹きつけられる。
「おそれ」という作品。
いくつかの特徴があるが、まず空間と時間との混同というべきなのか、区別の無視というべきなのか、あるいは融合というべきなのかわからないが、日高のなかでは空間と時間が物理学のように分離しない。
「遠い人を見る」。この「遠い」は空間、距離の遠さである。「数秒前のスプーンを置こうとしていた自分を/見る」とき、そこには空間はない。空間の隔たりがない。かわりに時間の隔たり「数秒」というものがある。
「遠い人」を、「いつ」見たのか。「見るように」というのは実際には「いま」は見ていないということである。しかし、それは問題にされていない。「いつ」とは関係なく、「遠い人を見る」という行為だけが問題にされている。「遠い人」を見るとき、日高はどうするのか。目をみはる。目に力をいれる。--これは、だれでも想像できることである。
でも、そんなふうにして目に力をこめてみても、「数秒前の自分」は見えるのか。時間が過ぎてしまえば、そこに「自分」は存在しない。「自分」という存在は「いま」しか存在しえない。「過去」には「存在した」であり、「存在する」ではない。「いま/存在する」なのである。
どうやって、見る? 「見えないカタチ」を、どうやってみる? 遠くの人を見るように目に力をいれても、見えはしない。--というのがふつうの思想(哲学、あるいは科学)である。
けれど、日高は見ようとする。
このとき、「肉眼」は「想像力」である。「肉眼」は「思考力」である。「肉眼」は「精神」である。--それは、逆に(?)言えば、空間的に遠くの人見るときも、そこには想像力や思考力が働き、精神が肉眼を調整していたかもしれないことを明らかにする。
「肉眼(肉体)」と「精神」は別個のものではなく、同じひとつのものが、あるときは「肉体」と呼ばれ、また別のときは「精神」と呼ばれるということでもある。
ここから少し飛躍すれば(大胆に飛躍することになるのかもしれないが、私にはその区別はない)、空間と時間は同じひとつのものであり、あるときは空間と呼ばれ、あるときは時間と呼ばれるだけのことなのである。
だから、「あるとき」は「遠くの人を見る(空間)」、そして「あるとき」は「数秒前の自分を見る(時間)」というだけのことなのである。
その「空間に力点が置かれる、あるとき」と「時間に力点が置かれる、あるとき」を分離し、接合する「中間」に日高という「肉体」が存在する。「肉体」があるときは空間へ拡大し、あるときは時間へ拡大する。「精神・思考」という径路をとおって拡大するのだが、日高にとってそのとき「頼り」にするのが「眼・肉眼」である。
2連目から、落としてしまったスプーン、失われたスプーンをめぐっての「思想」が展開するのだが、その書き出しがびっくりするくらいおもしろい。
私がびっくりするのは「失う」である。
繰り返し書くが日高は「視覚(視力・肉眼)」の思想を生きる詩人である。常に「見る」ということを中心にして肉体と精神が動く。その人間が、スプーンを落とし、その行方がわからなくなったとき、
ではなく、<失う>と「見る」を省略(欠落)させてことばを動かす。
スプーンはたまたま見つからないだけで、どこかにある。「永久」に「失われた」わけではなく、「いま」たまたま「見失われている」だけである。
これは、ふつうの人間(私)が考えることで、視力を生きている人間にとっては、見失うことは失うことなのである。
人は、自分にとっていちばん大切なことば、肉体にしみついてしまっていることばを頻繁に省略する。それは、あまりにも自分にとってそれが身近であるために、ことばとして動かすという意識が「欠落」してしまうのである。--こういうことばを私は「キイワード」と呼んでいるが、「見・失う」ではなく「失う」と書く日高にとって、「見る=視力(眼)」が日高の思想そのものである証拠がここにある。
そして、「見・失う」から「失う」への飛躍、肉体(眼)を欠落させたとき、「肉体」の思想と「精神」の思想が、「空間」と「時間」のように、不思議な形でずれる。このことを日高は意識していないだろうけれど(意識できないだろうけれど)、ずれる。
「見・失う」が「失う」になったとき、次に「認める」という「精神」の動きが問題になる。「見・認める」(こんなことばがあるかな?)ではなく「認める」。
「見・認める」は、ふつうは「目でわかる、見てわかる」という具合になるのかもしれないが、それは別問題として、「目(肉体)」を頼りにせずに「認める」という意識(精神)の運動へと、日高のことばが動いていく。
これは、非常におもしろい。びっくりしてしまう。
日高は、そのあと「手応えのない軽み」ということばをつかっている。ここも、とてもとてもとても、おもしろい。
私は最初に日高の「受け継ぐ」ということばに出会ったとき、そこに「手」が重要な働きをしていることを指摘したが、ここでも「手応え」という形で「手」が出てくる。「肉体」が出てくる。
「失う」ということばで「見る・肉眼」を省略してしまった日高の思想は、「認める」という精神の運動を経て、もう一度「手・応え」という「肉体」へ帰って来て、そのことばの運動を点検していることになる。
あるときは「精神」になり、あるときは「肉体」となる--という自在な「一元論」としての「日高という存在」がここにある。
おもしろいなあ。ひきつけられる。非常に刺激的だ。
この「精神」と「肉体」の無意識的な往復のなかで、日高は何事かを「覚える」。何を覚えるか。「おそれ」である。「おそれ」としか言えない何かを「覚える」。「知る」でも「わかる」でもなく、私は「覚える」だと直感する。
「自分と自分の隙間」。それは「どこ」にあるか。空間的には、自分と自分の間に隙間はない。自分は「ひとつ」である。「隙間」は二つのものの間にあるのだから「ひとつ」のものに隙間はない。
でも、ほんとう?
あそこにいた私、ここにいる私というとき、そこに「私」が二人存在してしまう。ことばの上では、二人の私が存在しえる。複数の私が存在しえる。だから、隙間はあるということになる。
しかし、同時に、それは単なることば(思考)の問題であって、「肉体」的にはいつも「ひとつ」。
これは、どういうことだろう。
やはり、「あるときは空間」「あるときは時間」「あるときは精神(思考)」「あるときは肉体」というのが人間であると考えるしかないのかもしれない。そして、そう考えるとき「あるとき」と「あるとき」の「間」には、とらえることのできない「隙間」がある。そしてとらえることのできない「接続」がある。
それは、どこ?
人によって違う。日高の場合は、まず「目」、次に「手」。視覚、触覚なのだと思う。こうしたしっかりした「肉体」があるとき、ことばは、どんなふうに動いても思想そのものになる。
--私の書いているのは「日記」であり、ラフな思考の素描なので、「見当」でしかないのだが、そんなことを考えた。
日高てるの「視覚」、思想になった肉体、目の思想の強靱さに打ちのめされる。そして惹きつけられる。
「おそれ」という作品。
遠い人を見るように
今朝の自分を
数秒前のスプーンを置こうとしていた自分を
見る
目をみはって見つづける
目をみはって見つづけていて見えないカタチを あお見ようとして
いくつかの特徴があるが、まず空間と時間との混同というべきなのか、区別の無視というべきなのか、あるいは融合というべきなのかわからないが、日高のなかでは空間と時間が物理学のように分離しない。
「遠い人を見る」。この「遠い」は空間、距離の遠さである。「数秒前のスプーンを置こうとしていた自分を/見る」とき、そこには空間はない。空間の隔たりがない。かわりに時間の隔たり「数秒」というものがある。
「遠い人」を、「いつ」見たのか。「見るように」というのは実際には「いま」は見ていないということである。しかし、それは問題にされていない。「いつ」とは関係なく、「遠い人を見る」という行為だけが問題にされている。「遠い人」を見るとき、日高はどうするのか。目をみはる。目に力をいれる。--これは、だれでも想像できることである。
でも、そんなふうにして目に力をこめてみても、「数秒前の自分」は見えるのか。時間が過ぎてしまえば、そこに「自分」は存在しない。「自分」という存在は「いま」しか存在しえない。「過去」には「存在した」であり、「存在する」ではない。「いま/存在する」なのである。
どうやって、見る? 「見えないカタチ」を、どうやってみる? 遠くの人を見るように目に力をいれても、見えはしない。--というのがふつうの思想(哲学、あるいは科学)である。
けれど、日高は見ようとする。
このとき、「肉眼」は「想像力」である。「肉眼」は「思考力」である。「肉眼」は「精神」である。--それは、逆に(?)言えば、空間的に遠くの人見るときも、そこには想像力や思考力が働き、精神が肉眼を調整していたかもしれないことを明らかにする。
「肉眼(肉体)」と「精神」は別個のものではなく、同じひとつのものが、あるときは「肉体」と呼ばれ、また別のときは「精神」と呼ばれるということでもある。
ここから少し飛躍すれば(大胆に飛躍することになるのかもしれないが、私にはその区別はない)、空間と時間は同じひとつのものであり、あるときは空間と呼ばれ、あるときは時間と呼ばれるだけのことなのである。
だから、「あるとき」は「遠くの人を見る(空間)」、そして「あるとき」は「数秒前の自分を見る(時間)」というだけのことなのである。
その「空間に力点が置かれる、あるとき」と「時間に力点が置かれる、あるとき」を分離し、接合する「中間」に日高という「肉体」が存在する。「肉体」があるときは空間へ拡大し、あるときは時間へ拡大する。「精神・思考」という径路をとおって拡大するのだが、日高にとってそのとき「頼り」にするのが「眼・肉眼」である。
2連目から、落としてしまったスプーン、失われたスプーンをめぐっての「思想」が展開するのだが、その書き出しがびっくりするくらいおもしろい。
--人は どのようなとき<失う>というのだろうか
--人は どのようなとき失ったことを<認める>というのか
目のまえに在ったものが見えなくなるとき
手にもつスプーンを落っことしたとき
瞬時をへて 手応えのない軽みをさして人はそう呼ぶのだろうか
<失った>と
私がびっくりするのは「失う」である。
繰り返し書くが日高は「視覚(視力・肉眼)」の思想を生きる詩人である。常に「見る」ということを中心にして肉体と精神が動く。その人間が、スプーンを落とし、その行方がわからなくなったとき、
見失う
ではなく、<失う>と「見る」を省略(欠落)させてことばを動かす。
スプーンはたまたま見つからないだけで、どこかにある。「永久」に「失われた」わけではなく、「いま」たまたま「見失われている」だけである。
これは、ふつうの人間(私)が考えることで、視力を生きている人間にとっては、見失うことは失うことなのである。
人は、自分にとっていちばん大切なことば、肉体にしみついてしまっていることばを頻繁に省略する。それは、あまりにも自分にとってそれが身近であるために、ことばとして動かすという意識が「欠落」してしまうのである。--こういうことばを私は「キイワード」と呼んでいるが、「見・失う」ではなく「失う」と書く日高にとって、「見る=視力(眼)」が日高の思想そのものである証拠がここにある。
そして、「見・失う」から「失う」への飛躍、肉体(眼)を欠落させたとき、「肉体」の思想と「精神」の思想が、「空間」と「時間」のように、不思議な形でずれる。このことを日高は意識していないだろうけれど(意識できないだろうけれど)、ずれる。
「見・失う」が「失う」になったとき、次に「認める」という「精神」の動きが問題になる。「見・認める」(こんなことばがあるかな?)ではなく「認める」。
「見・認める」は、ふつうは「目でわかる、見てわかる」という具合になるのかもしれないが、それは別問題として、「目(肉体)」を頼りにせずに「認める」という意識(精神)の運動へと、日高のことばが動いていく。
これは、非常におもしろい。びっくりしてしまう。
日高は、そのあと「手応えのない軽み」ということばをつかっている。ここも、とてもとてもとても、おもしろい。
私は最初に日高の「受け継ぐ」ということばに出会ったとき、そこに「手」が重要な働きをしていることを指摘したが、ここでも「手応え」という形で「手」が出てくる。「肉体」が出てくる。
「失う」ということばで「見る・肉眼」を省略してしまった日高の思想は、「認める」という精神の運動を経て、もう一度「手・応え」という「肉体」へ帰って来て、そのことばの運動を点検していることになる。
あるときは「精神」になり、あるときは「肉体」となる--という自在な「一元論」としての「日高という存在」がここにある。
おもしろいなあ。ひきつけられる。非常に刺激的だ。
この「精神」と「肉体」の無意識的な往復のなかで、日高は何事かを「覚える」。何を覚えるか。「おそれ」である。「おそれ」としか言えない何かを「覚える」。「知る」でも「わかる」でもなく、私は「覚える」だと直感する。
でも 自分が自分に出逢わないという虚数の花火が おそれよりも軽く
今朝 スプーンと手の隙間に
そして明日 自分と自分との隙間にとばないと誰がいえようか
--そのおそれのためにわたくしは
スプーンを置く
「自分と自分の隙間」。それは「どこ」にあるか。空間的には、自分と自分の間に隙間はない。自分は「ひとつ」である。「隙間」は二つのものの間にあるのだから「ひとつ」のものに隙間はない。
でも、ほんとう?
あそこにいた私、ここにいる私というとき、そこに「私」が二人存在してしまう。ことばの上では、二人の私が存在しえる。複数の私が存在しえる。だから、隙間はあるということになる。
しかし、同時に、それは単なることば(思考)の問題であって、「肉体」的にはいつも「ひとつ」。
これは、どういうことだろう。
やはり、「あるときは空間」「あるときは時間」「あるときは精神(思考)」「あるときは肉体」というのが人間であると考えるしかないのかもしれない。そして、そう考えるとき「あるとき」と「あるとき」の「間」には、とらえることのできない「隙間」がある。そしてとらえることのできない「接続」がある。
それは、どこ?
人によって違う。日高の場合は、まず「目」、次に「手」。視覚、触覚なのだと思う。こうしたしっかりした「肉体」があるとき、ことばは、どんなふうに動いても思想そのものになる。
--私の書いているのは「日記」であり、ラフな思考の素描なので、「見当」でしかないのだが、そんなことを考えた。
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