詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』(2)

2012-01-10 23:59:59 | 詩集
T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』(2)(エイコ・デューク訳)(思潮社、2011年11月10日発行)

 T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』の感想を一度書いたことがある。今回は2回目。
 今が冬のせいだろうか。「真冬」という詩が気に入っている。

青い一条の光が
わたしの服から 流れ出す。
真冬。
氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し
亀裂がひとつ
死者たちはそこから
ひそかに境を越えて送られる。

 この詩を私は気に入っている--と書いたのだが、実は最後の2行は私にはわからない。そして、私が気に入っている部分は、ちょっと困ったことに、完全な「誤読」ゆえの「気に入っている」なのである。
 詩には、ときどき、こういう困ったことが起きる。
 私が気に入っているのは--つまり、何度読み返してもあきないのは、

わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し

 この2行なのである。
 この部分を私は「誤読」している--とはっきりわかるのは、「眼を閉じる。」の句点「。」のためである。「私は眼を閉じる。」という1行は完結している。そこでひとつの「文」になっている。それを刻印するのが句点「。」である。
 ところが、この2行を読むとき、私は(私のことばは)、そこから句点「。」を省略してしまうのである。
 --というのは、正確ではないのかもしれないけれど。
 眼を閉じる--そうすると、そこに「音のない世界が存在する」。この、眼を閉じると、音のない世界の関係を、私は断絶(句点「。」)ではなく、「つながり」として感じてしまうのである。眼を閉じると、音のない世界が生まれる、と感じてしまうのである。「因果関係」のようなものとして感じてしまうのである。
 変でしょ?
 変--であることは、私は十分承知している。
 眼を閉じると、色のない世界(形のない世界、光のない世界)が存在する、というのなら、視覚的に当然なことだねえ。
 でも、そうだとまったくおもしろくなくて、「眼を閉じると、音のない世界が存在する」だと、あ、なるほど、そうだったのか、と思うのである。
 そのとき、「音のない世界」は、永続的ではなく、一瞬である。眼を閉じる。頭の中に暗闇がうまれる。その瞬間、ほんとうに一瞬だけ「音のない世界」が浮かび上がる。
 それは、幻、かもしれない。
 でも、それに惹かれるのだ。
 何かが交錯し、その瞬間、何かが結晶する。そこには、ことばでは論理的に説明できない何かがある。

 これは、もしかすると、「俳句」の世界かもしれない。
 --と、強引に書いてしまうのは、トランスロンメルが「俳句」のような詩を書いていることを利用しての「論理づけ」であって、まあ、私独特の、いいかげんな論理の飛躍、論理の逸脱なのだが。
 とはいうものの、この詩集のなかで、私が「俳句」を感じたのは、ここなのだ。
 もっと正確にいうと、

氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し

 この3行。ここにある不思議な「もの」の出会い、「光(きらきら)」と「音(響き)」が強引(?)に結びつけられた1行。それが「眼を閉じる」ことで解体する。「光(きらきら)」が消える。そうすると「音(響き)」も消え、「音のない世界」が生まれる。不思議な「融合」がここにはある。
 そして、その融合は、「もの」には「光(色、と呼んでもいいと思う)」と「音(響き)」が必ず結びついているということを証明している。
 たとえば「氷」。それは、それ自体「音」を持たないように考えられている。耳をすましても、氷から何かが聞こえるわけではない。でも、その氷が輝いているのを見たとき、視覚は「きらきら」ということばを呼び出すのだが、それだけでは終わらない。「きらきら」は肉体のなかをとおって「タンバリン」の「響き」をいっしょに引っぱり出す。
 いや、そんなことをトランスロンメルは書いているのではないかもしれない。氷の丸い形からタンバリンを思い出し、すぐに割れてしまう薄い氷のからタンバリンの音を思い出しただけなのかもしれない。しかし、そこに「きらきら」という視覚を刺激することばが絡んでくる。--何か、はっきりとは区別できないものが混じり合う。
 私たちは(私だけ?)、純粋に視覚とか聴覚とかだけを取り出すことができないのかもしれない。視覚を説明しようとすると聴覚がまじり、聴覚を説明しようとすると視覚がまじる。
 この詩でトランスロンメルはタンバリンの音を「きらきらしい」と呼んでいるが、「きらきら」した音ということばから私か連想するのはたとえばトランペットの音である。あるいはパパロッティの声である。チェロの音やサッチモの声ではない。(チェロにもサッチモにも「きらきら」はあるけれど。)--で、思うのは、「音」なのに「きらきら」。どうして「きらきら」で「音」がわかるのか。肉体のなかで「感覚」が混じり合う、出会うからだね。
 この違った感覚が出会って、融合し、別々なものがひとつに結晶する。これが私には「俳句」にとても近いと思う。
 まあ、こういう違ったもの(存在、世界)がひとつに結晶し、そのなかをくぐることで世界が一新する(そのままの世界でありながら、別次元にワープする)というのは、俳句の特権ではなく、あらゆる芸術の特権なのだろうけれど、特に俳句に著しいものだと思う。

 私の書いている感想は、トスランスロンメルの意図しないことがら--句点で区切っているのに、それを無視して読む、強引に句点を消し去って世界を重ね合わせてよむことからはじまるのだけれど、この境目を消し去り、肉体の奥の感覚をつなげるときに広がる世界が--広がる世界が、私は好きなのだ。
 だれの作品に対しても、私はそんなふうにして読んでしまう。
 ことばを追っているうちに、私の肉体のなかで何かが動く。それはほとんど無意識なのだけれど、その無意識を追いかけていくと、そのとき作者の肉体と重なるときがある。重なったと感じるときがある。
 そして、その重なったときの感覚のなかに、トランスロンメルの場合「俳句」が入り込んでくる--というのが私の印象である。

 事情があって中断したので、何か書いている感想がちぐはぐになってしまった。
 「俳句詩」という3行で構成された作品も詩集のなかにはある。そのなかでは、冒頭の、

高圧線の幾すじ
凍れる国に絃を張る
音楽圏の北の涯て

 がとても印象に残る。最初に読んだせいかもしれない。高圧線-絃-音楽への以降が、やはり視覚-聴覚への融合につながるからかもしれない。
 私は音痴のくせに、音が聞こえる瞬間が好きなのである。




悲しみのゴンドラ
トーマス トランストロンメル
思潮社
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アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル

2012-01-10 22:27:36 | その他(音楽、小説etc)
アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2012年01月10日)

 アン・アキコ・マイヤースを聴くのは初めてである。たいへん攻撃的な演奏だと思った。ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調、春」の第1楽章。アン・アキコ・マイヤースの演奏する春は、明るさ、のどかさ、はつらつというより苦悩である。詩でいうとエリオットの「荒れ地」という感じ。
 疾走する輝く音に、水のきらめきを感じることが多いが、アン・アキコ・マイヤースの音にはそれ以前の「春」を感じる。氷が溶ける。そのときのきらめき--ではなく、氷が死ぬ、という苦悩のようなもの、氷が死ぬことで春の清冽が美しさが生まれる。その、矛盾した一瞬、死と生が拮抗している感じがして、びっくりしてしまった。
 この印象は「春」の間中、かわらない。もちろんずーっと氷が溶ける苦悩というのではないけれど、何かが萌えいずるとき何かを破壊する。破壊されたなかから新しいいのちが誕生する--といういのちの緊張感を感じた。
 この印象は、その前に聴いたシュニトケ「古い様式による組曲」の影響が私に残っていたせいかもしれない。これは初めて聴く曲だった。演奏の前にアン・アキコ・マイヤーズが曲の内容というか誕生秘話を紹介してくれた。シュニトケが歯科治療を受けた。そのときの印象を曲にしたという。「だから最後の第4楽章にはとても気持ちの悪い音がでてくる。歯の神経を抜いている感じ」という。たしかにとても気持ちの悪い音がでてくるのだが、--気持ちが悪いといえば言えるけれど、私にはとても強い音に感じられた。だれも表現したことのない強さ。だれも経験していないから、その音をどこに位置づけていいかわからない。不安になる。だから気持ちが悪いということになるのだが、最初に気持ちが悪い音と聞いていたせいか、私には気持ち悪さよりも強さの方が印象に残った。
 奏でる--というより、絃から音を絞り出す。まだ、だれも出していない音を絞り出すという感じがする。円熟の正反対、円熟することを拒んで音を突き破ろうとする音。音のなかの闇を噴出させる感じがする。
 ジイコブ・チウピンスキー(で、いいのかな?)「海の底のウンブリア号(日本初演)」はシンセサイザーとの共演。作曲家がアン・アキコ・マイヤースのために作曲した曲。作曲家がダイビングをしたとき海底で難破船を見つけた。その印象がこの曲を生み出したという。この演奏も非常に強い音である。絃から絞り出すと同時に、何かと向き合っている。その向き合っている対象は、アン・アキコ・マイヤースの「解説」に従えば、ジイコブ・チウピンスキーが海底で発見したもの、出会ったものということになるのだろうけれど、暗いことが輝きであるような、強い印象がある。刺激的だ。
 滝廉太郎「荒城の月(三枝成彰/マイヤース編)」は私には不思議な印象がした。日本の、しかも歌詞がついている曲を聴くとどうしても「日本語の呼吸」で聴いてしまうことになる。それが、あわない。つまりアン・アキコ・マイヤースの演奏と私の呼吸があわない。あたりまえのことなのかもしれないが、こういう音の方が、私には「気持ちが悪い」。聴いたことのない「和音」(「古い様式による組曲」「海の底のウンブリア号」の和音)よりも、呼吸が何か違う感じがする。
 呼吸で、ちょっと驚いたことがある。私はたまたまアン・アキコ・マイヤースの近くで演奏を聴いたのだが、彼女の呼吸(息づかい)の音がすごい。近くといってもかなりはなれていて(8メートルくらい?)、私は目が悪いせいもあり、最初は「だれか寝息を立てているのか」と思ったのだが、そうではなかった。力を込めて、ふりしぼるように演奏するその直前に、「すーっ」と強く息を吸い込むのである。そしてゆっくり吐き出す。ほかの演奏家は知らないが、あ、そうか、ヴァイオリンも「息」で演奏するのか、と思った。どうりで人間の声に近い深さの幅がある。


バーバー:ヴァイオリン協奏曲 作品14/ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 作品26
マイヤース(アン・アキコ),バーバー,ブルッフ,シーマン(クリストファー),ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ポニーキャニオン
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