詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日高てる『日高てる詩集』

2012-01-20 23:59:59 | 詩集
日高てる『日高てる詩集』(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)

 日高てるという詩人を私は知らなかった。

 読みはじめてすぐ、ことばの強固さに驚いた。叩いても、壊れない。押そうにも、押せない。私の力では、どうしようもない強さがある。そこに存在し、きちんと立っている。自立ことばの、自律した美しい響きがある。何に向き合っても、ひとりで歩いていく美しさがある。どこが、どう美しいのか。よくわからないが--つまり、説明できないのだが、私の軟弱な視線を拒絶する厳しい美しさがある。思わず背筋が伸びる。しっかり読まないと、ことばから見放される、という怖さがある。
 こういう美しさは、偏見かもしれないが、男性のことばが持っているものである。
 詩集の裏には日高の写真が載っている。帯で半分顔が隠れている。とてもいい顔だ。表情を内部から引き締める力がある。そして、厳しいだけではなく、厳しさをそっと押さえ込むような(隠すような)ところもある。名前は「てる」と女性の感じがするが、男性かもしれない、と思う。ところが「奈良女子師範学校卒業」という文字が見える。や、やっぱり女性なのか。
 しかし、では、この無駄を完全に排除したような文体、ことばの肉体はどこから来たのだろうか。このことばの鍛え上げられた思想は、どこに源流があるのだろうか。日高はどうやってことばを動かしているのか。
 不思議な気持ちで読み進んだ。
 「言葉を手に」まで来て、はっ、と立ち止まった。

ぬけていないか
ひとつの言葉が
ぬけていないか
ひとつの挨拶が
ひとつのめくばせがまばたきが言葉にうけつがれるのを

ハギが滴を落とせばひとつの葉がうけ つぎの葉に
滴りを手渡す
                    (谷内注・「まばたき」には傍点がある)

 1連目に「うけつがれる」という表現がある。2連目に「ひとつの葉がうけ つぎの葉に」という表現がある。「うけつぐ」(うけつがれる)というのは、だれかが何かを受け取り、そしてそれを次のだれかに渡すことである--と日高は考えている。
 単に自分が何かを誰かから「受ける」のではない。自分が受けたままでは「受け継ぐ」にはならない。「受け継ぐ」かぎりは、その受け取ったものを「次」のだれかに渡さなければならない。日高にとって「うけつぐ」とは「受け+継ぐ」は「受け+次ぎに渡す」なのだ。あることがらがA→B→Cと渡っていって「受け継ぐ」になる。そして、日高は、受け継ぎの運動のBにあたる部分を強く意識している。
 誰かから何かを受けるだけなら、ことばはあいまいでいい。
 昨年見た映画「エンディングノート」におもしろいシーンがある。父親ががんで死んでゆく。その間際、葬儀の相談を父と息子が話し合う。息子が「葬儀は身内だけで」と伝えるから、と父の「遺言」を復唱する。それに対して、父が「葬儀は身内だけでおこないます、と伝えてくれ」と言う。「身内だけで」で十分わかる。それだけで、息子は父の意思をくみとっていることがわかる。けれど、自分がわかっているからといって、それだけでは意思を受け継いだことにはならない。だれかにそれを手渡すためには「身内だけでおこないます」と「動詞」までふくめてきちんとした文章にしないといけない。きちんとした文章にしなくても伝わるかもしれないが、きちんとした文章にしてこそ、意思が明確になる。父は「身内でおこないます」までをきちんとだれかに引き継いでほしいのだ。次のひとに伝えてほしいのだ。
 「受け継ぐ」とき、「ひとつの言葉」「ひとつの挨拶」「ひとつのめくばせ」「ひとつのまばたき」が抜け落ちても「受け継いだ」ことにならないのだ。「めくばせ」「まばたき」は「言葉」ではない--つまり、文字にはできない。だが、そこにそれでは「ことば」というか、思想が反映されていないかというとそうではない。ことばにならないことばが、ある。それもしっかり受け継がなければならない。
 日高は、そういうことを意識している詩人だと思う。「受け継ぐ」ことに対する、その明確な思いが「ひとつの葉がうけ つぎの葉に」ということばに具体的にあらわれる。
 さらに、この「受け継ぎ」は次の「手渡す」ということばでより強固なものになる。だれかに「渡す」だけではなく「手渡す」。「手」という「肉体」がそこに入ってくる。このときの「手」は日高自身の「手」である。だれかの「手」を借りて、だれかに「渡す」のではない。何かを受けとったひとが、直接、次のひとに渡す。その「直接」が「手」なのである。郵送や宅配便やメールではないのだ。
 そして、この「手」は1連目の「めくばせ」や「まばたき」のように、肉体そのもののことばである。「手」から「手」へ何かを渡すとき、私たちは「手」そのものもっている印象も受けとる。頑丈な手、やわらかい手、やさしい手……そこには目配せやまばたきとおなじくらいの「ことば」がこめられている。渡すひとが意識しまいが、しようが、そういうこととは関係なく、ひとは「肉体」の「直接性」から何かを受け取る。そこに「肉体」のことばを聞いてしまう。
 肉体はいつでも直接的である。直接、触れてこそ肉体である。この肉体の直接性を日高はことばにも要求している。

 「直接」であるがゆえに、自己に厳しくなる。
 受け取るだけなら、そのときの「直接」は、今風にいえば、ゆるくてもいい。「葬儀は身内だけでって言うから」でも、父の意思は受け止めたことになる。けれど、それを次のだれかに手渡すときは、「身内だけで」とことばをあいまいに濁したままではだめなのだ。受け止めたものをそのまましっかり、そのままの形で「身内だけでおこないます」でないと、次のひとに対して失礼である。次のひとに「おこないます」ということばを補わせるという負担を強いる。
 この「直接」何かを受け止め、「直接」何かを「つぎ」のひとに渡す。手渡すが、日高の思想(肉体)であると思う。

 私は日高の詩を読んだ記憶がないし、もちろん日高にあったこともないのだけれど、きっと手の美しいひとだと思う。頑丈なというか、しっかりした手だと思う。「手仕事」を「手抜き」をせずに、ひとつひとつやりとげてきた手だと思う。してきたことが、すべて手の動きに反映する--時間を手の中に、手の筋肉、骨、神経、血液のなかにもっているたしかな手。厳しいけれど、あたたかい。そういう手だと思う。

 日高のことばは、ときに抽象的に見える。それはしかし、受け継ぐべきものと日高自身の肉体の「合致」を目指し、日高が日高自身の肉体を「基本」にまで引き絞ったからである。そしてまた、受け止めたものを次のひとに手渡すために、日高の肉体を単純化したためである。日高の肉体(日高のことばの肉体)は、いわば「最大公約数」のように、基本へ基本へと身を鍛え、動いているのである。
 こうした強靱な詩人がいたことを私は知らなかった。とても恥ずかしく思った。


日高てる詩集 (現代詩文庫)
日高 てる
思潮社
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