詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「筍」ほか

2012-01-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「筍」ほか(「現代詩手帖」2012年01月号)

 池井昌樹「筍」は「終日」というタイトルでまとめられた4篇のうちの1篇。

むかしたけやぶだったから
たけのこがたくさんはえた
ひとのこははえなかった
たけやぶはきりはらわれて
おおくのいえがたちならび
おおぜいひとのこがうまれ
たけのこはもううまれなかった
こんなふしぎななつぞらのした
いつものばすをまちながら
ひとのこたちにはさまれながら
どこかにたけのこもはえている
しらないまちのあさをおもった

 竹林が造成され新興住宅が立ち並ぶ街。そのバス停で、知らない街、筍のはえている街を思った。--そういう単純な詩である。
 で、単純なのだけれど。そして、だれもがよくつかうことばなので、池井昌樹の独想とはいえないのだけれど。

しらないまちのあさをおもった

 この「知らない」と「思う」(漢字で書いておく)がよくよく考えると変である。不思議である。「知らない」ものを「思う」ことって、できる? できない。「知らない」ものを「思う」とはどういうことか。なぜ、「知らない」を思うことができるか。
 その前に書かれていることと関係がある。
 「ひとのこたちにはさまれながら」。これは「現実」なので、わかる。「どこかにたけのこのはえている」は「どこか」が不特定なのでわからないが、「たけのこ」は知っている。わかる。「はえている」も、そういう状態を知っている。わかる。
 「知っている」「わかる」ことを組み合わせて、「いま/ここ」ではないところを思ってみる。それは「知っている/わかっている」ことで構成されている。「どこか」「わからない(知らない)」、つまり、「いま/ここではない」ということだけは確かな「ある場所」と想像する。想像で生まれた街を「しらないまち」と池井は呼んでいる。
 で、何を言いたいかというと。
 池井が書く「知らない」には「知っている」が含まれているということである。(これはだれでもそうだけれど。)そして、池井は「知らない」に「知っている」が含まれているとき、そこに詩を感じるのだ。
 というよりも。
 「知っている」「わかっている」もの、「いま/ここ」にあるものを見つめていると、しらずしらずに「いま/ここ」から離れ、「知らない」ところへたどりつく。そして、その「知らない」のなかに「知っている」「わかる」がいつでも存在していることに驚くのである。--矛盾に驚くのである。

 逆もある。「腕」。

このうでだけでいきてきた
どんなくるしいときだって
どんなかなしいときだって
このうでだけでのりこえた
こどもそだててきたうでだ
おこめをといできたうでだ
はずかしいはなしだけれど
このうでだけをだきしめて
このうでだけにだきしめられて
ぼくはこれまでいきてきた
となりでねいきたてている
ちいさな疱瘡痕のある
おもいだせないあのひとの

 最後が変だよね。「このうで」というから、池井は「この腕」を知っている。その腕を抱き、その腕に抱きしめられてきたから、それは「知っている」腕である。その腕には「疱瘡痕」がある。腕に疱瘡痕がある世代というものがある。疱瘡痕が何によるものかも池井は「知っている」。
 その腕は「知っている」けれど、腕の持ち主は「知らない」人である。池井は「知らない」ではなく「思い出せない」と書いているが、「知らない」と同義である。
 でも、どうして思い出せない? あるいは「知らない」と言える?
 痴呆症?
 ちがうね。
 この「思い出せない」は、そういう「腕」は「思い出」のなかに、「記憶」のなかにあるのではない、ということだ。「いま/ここ」にあるだけではなく、それは「いま/ここ」、つまり過去(記憶)とつながる時間を越えて、「知らない場所」に存在するということなのだ。
 それは「過去」ではない、と書いた。それでは「未来」か。そうでもない。池井の書いているのは、いつでも「永遠」である。
 「いま/ここ」が永遠になるとき、「いま/ここ」を構成するものは「知らない」ものに純化される。「知らない」を貫く「知っている」ことに純化される。--こういう書き方は矛盾だが、矛盾でしか言えないものに、純化する。

 「陽」も同じ感じの作品だ。

まくどなるどがあるでしょう
そのおむかいのほんやさん
どこかでこどものこえがする
やさしいだれかがよんでいる
それをだまってきいている
いつものよごれたまえかけで
うでぐみをしてとしよせて
あのこがおとなになったころ
まくどなるどはあるかしら
むかいにほんやはあるかしら
けれどそこにはいないだろうな
そこにもどこにもいないだろうな
まくどなるどのあったころ
むかいにほんやのあったころ
あるひあるときあるところ
かわいいこどものこえがして
それをだまってきいている
だれかもこんなひのなかで

 書店の店員である池井が子どもの声を聞きながら、その子が大人になったころ、「いま/ここ」にあるものたちは、あるだろうか、と考えている。ぼんやり夢想している。時代の変化は激しいから、まあ、ないだろう--けれど。
 それがなくなったとしても。
 「だれか」が同じことを夢想するだろう。「時間」を夢見るだろう。「時間の夢」が「永遠」なのだ。「永遠」だから、「だれか」でいいのだ。「池井」でなくていいのだ。「永遠」に触れるとき、ひとは固有名詞からはなれ「だれか」になる。
 「知らない」「思い出せない」「だれか」--その不思議な透明性のなかに「永遠」はある。





池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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