川上三映子「まえぶれもなく」(「現代詩手帖」2011年12月号)
川上三映子「まえぶれもなく」(初出「現代思想」11年09月臨時増刊号)は東日本大震災を契機に書かれた詩なのだろう。突然、連絡がとれなくなった親しいひと。震災後も携帯電話の電波は飛び交い、そこではだれかとだれかが呼びあっている。同じように呼びあいたいと思って呼ぶ、叫ぶ--だが、届かない。そのことを書いている。
だが、最初の1行は--こういう言い方が正しいかどうかはわからないが、震災のことを書くというより「恋愛」のことを想像させる。
だれか--きっと「あなた」と抱きしめあうことだけを考える。大震災という事件ではなく、「私とあなた」のことにこだわるところ、つまり恋愛からはじまる。恋愛を感じさせるところからはじまる。もちろん、ここで「私とあなた」が恋愛関係にあり、私があなたをさがしていると読めば、それはそれでいいのかもしれないけれど。
それだけ川上の意識が、大震災を自分にひきつけているということかもしれない。
これはまた、あとで触れることになるかもしれない。とりあえず、そのことだけを指摘しておく。
この作品の、川上の文体の特徴は、「終わらない感じ」にある。
「もう少し/もう少しだけ」ということばの動きに、「終わらない」という感じが強く滲む。「おわらない」ではなく、「終わらせたくない」という感じといった方がいい。そして、この感じを「終わらせたくない」ととらえるとき、そこに「恋愛」と重なる感情が動きはじめる。恋愛は終わらせたくないね。
その「終わらせたくない」につながることがらは、
という行にもあらわれている。
というと、ちょっと変だけれど、「終わる」「終わらせない」につながるものが、ここにある。
「きのう」は突然きょうから断ち切られ、がれきに埋められている。そう書くとき、しかし、意識は逆に「きのう」へとつながる。きのうは「断ち切られない」。だから、きのうをさがすのである。--この矛盾が大震災の「いま」である。
川上は、こういうことを抽象のまま語るのではなく、肉体をくぐらせて語る。肉体をくりりぬけた感情に語らせる。つづいているはずのものが断ち切られている。その切断を復活させるために何をするか。とりあえず、「きのう」が埋められている場所を掘る。
これは肉体の実際の動き出るあ。掘っても掘っても求めているものに手は届かない。そして汗がおちる。
そのまますーっと読んでしまうが、ここには少し複雑なことがらが存在している。
あれこれことばを補いながら読み直すと、そういうことになるのだと思うが、「手には届かず」がなんともいえず不思議な働きをしている。なぜ「手には届かず」と書いたのだろう。なぜ「私の手は届かない」と「わたし」を主語にしたまま、ことばを動かさなかったのか。
主語は私だが、私が「主役」ではないからだ。「主役」は「あなた」なのである。
「終わる」「終わらせる」のは「わたし」ではなく「あなた」なのだ。あくまで意識は「あなた」に集中している。
「恋愛」のとき、意識が「あなた」に集中することを「未練」というけれど、何かそういう強い感情が働いていて、私の手が届かないではなく、「あなたは」私の手には届かない--と言い換えてしまう。言い換えることで「あなた」が「主役」になって、「わたし」のなかにいるという感じが強くなる。
意識的か無意識的かわからないけれど、そこが、とてもおもしろい。そこにとても惹きつけられる。
その「あなた」が主役なのだというのは、しかし、ひっそりと語られるだけで、すぐに「主語」を「わたし」に変えて詩はつづいていく。
これは、とてもリアルですね。激しい労働のなかで感覚がなくなる。何をしているか、何のためにしているのか、一瞬、意識がなくなる。意識がなくても肉体は動く。
そこで、はっと気がついて、もう一度意識を奮い立たせ、同時に肉体を突き動かす。
このリズムが、とてもいい。
意識というのは、わりと持続するというか、ことばの持続のなかに意識の持続があり、その持続だけがつかみ取る何かがある。
もそうだけれど、さっき読んだ部分の、
も、「意識」を浮かび上がらせる部分。長く、切れ目のないことばのつながり--そのなかに「意識」は存在しやすいのかもしれない。
少し戻る。
短いことばで、意識が肉体を駆り立てている。その感じがここではとてもよくでている。「もう少し」と言い聞かせているのは「意識」なのだけれど、その「意識」に答えて動いている「肉体」がとてもよくわかる。
さきに川上のことばは「肉体をくぐりぬけて動く」と書いたのだけれど、それは、こういう部分を指す。
「肉体」といっしょになって動くことば--それが「肉体」を感じさせるから、それ以外の部分--つまり「精神(感情)」を書いた部分も、手に触れることができる「肉体」のような感じに見えてくる。
ここが、とてもおもしろい。
また、この部分で、私は
という1行が、とてもいいと思う。--いいというより、あ、この「でも」が川上の「肉体(思想)」そのものだと感じた。
何を掘っているかわからなくなる「でも」もう少し掘る。
この「でも」はよくみると、不思議なところがある。よくつかうつかい方なのだけれど、「論理的」ではない。
「わからなくなる」は「意識・精神・頭脳」の問題。そのあとの「掘る」は「肉体」の問題。「でも」でつなぐには、つまり「逆説」のろんりでことばを動かしていくには飛躍がある。
でも、(と真似してつかってみる)
飛躍はない。
「掘る」ではなく「掘らせる」という動詞を補ってみる。「意識」が「肉体」に働きかけ、「肉体」に「掘らせる」。その結果、「肉体」が「掘る」。
これは「肉体」も「意識」も「わたしのもの」であるとき、矛盾(?)ではなくなる。私たちは、いつも、そうしている。「肉体」と「意識」は別個の存在ではなく、「ひとつ」なので、こういう混同というか、すばやい融合があるのだ。
ここに、たぶん、川上の「文体」の特徴がある。
私は川上の小説をほとんど読んでいないし、詩もほとんど読んでいないのだが、肉体と意識が「ひとつ」のものとして動く瞬間がとてもいい。
その「ひとつ」を、あすは別の角度から読んでみる。
川上三映子「まえぶれもなく」(初出「現代思想」11年09月臨時増刊号)は東日本大震災を契機に書かれた詩なのだろう。突然、連絡がとれなくなった親しいひと。震災後も携帯電話の電波は飛び交い、そこではだれかとだれかが呼びあっている。同じように呼びあいたいと思って呼ぶ、叫ぶ--だが、届かない。そのことを書いている。
だが、最初の1行は--こういう言い方が正しいかどうかはわからないが、震災のことを書くというより「恋愛」のことを想像させる。
まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
だれか--きっと「あなた」と抱きしめあうことだけを考える。大震災という事件ではなく、「私とあなた」のことにこだわるところ、つまり恋愛からはじまる。恋愛を感じさせるところからはじまる。もちろん、ここで「私とあなた」が恋愛関係にあり、私があなたをさがしていると読めば、それはそれでいいのかもしれないけれど。
それだけ川上の意識が、大震災を自分にひきつけているということかもしれない。
これはまた、あとで触れることになるかもしれない。とりあえず、そのことだけを指摘しておく。
この作品の、川上の文体の特徴は、「終わらない感じ」にある。
まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
わたしがあれから見つづけている夢のはなし
がれきだけが巨大な底になる静かな
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない
そして夜になってひとり
今日もあそこで手を止めてしまったことがどうしようもなくこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに
でもこれはわたしの夢ではなく
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたをさがしにゆくことで見えてしまうかもしれないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる
「もう少し/もう少しだけ」ということばの動きに、「終わらない」という感じが強く滲む。「おわらない」ではなく、「終わらせたくない」という感じといった方がいい。そして、この感じを「終わらせたくない」ととらえるとき、そこに「恋愛」と重なる感情が動きはじめる。恋愛は終わらせたくないね。
その「終わらせたくない」につながることがらは、
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
という行にもあらわれている。
というと、ちょっと変だけれど、「終わる」「終わらせない」につながるものが、ここにある。
「きのう」は突然きょうから断ち切られ、がれきに埋められている。そう書くとき、しかし、意識は逆に「きのう」へとつながる。きのうは「断ち切られない」。だから、きのうをさがすのである。--この矛盾が大震災の「いま」である。
川上は、こういうことを抽象のまま語るのではなく、肉体をくぐらせて語る。肉体をくりりぬけた感情に語らせる。つづいているはずのものが断ち切られている。その切断を復活させるために何をするか。とりあえず、「きのう」が埋められている場所を掘る。
掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる
これは肉体の実際の動き出るあ。掘っても掘っても求めているものに手は届かない。そして汗がおちる。
そのまますーっと読んでしまうが、ここには少し複雑なことがらが存在している。
「わたしは(ひとは)」掘っている
「わたしが(ひとが)」掘っても掘っても「さがしているものは/求めているものは」「わたしの(ひとの)」手には届かず
汗だけが「私の(ひとの)」目におちてくる
あれこれことばを補いながら読み直すと、そういうことになるのだと思うが、「手には届かず」がなんともいえず不思議な働きをしている。なぜ「手には届かず」と書いたのだろう。なぜ「私の手は届かない」と「わたし」を主語にしたまま、ことばを動かさなかったのか。
主語は私だが、私が「主役」ではないからだ。「主役」は「あなた」なのである。
「終わる」「終わらせる」のは「わたし」ではなく「あなた」なのだ。あくまで意識は「あなた」に集中している。
「恋愛」のとき、意識が「あなた」に集中することを「未練」というけれど、何かそういう強い感情が働いていて、私の手が届かないではなく、「あなたは」私の手には届かない--と言い換えてしまう。言い換えることで「あなた」が「主役」になって、「わたし」のなかにいるという感じが強くなる。
意識的か無意識的かわからないけれど、そこが、とてもおもしろい。そこにとても惹きつけられる。
その「あなた」が主役なのだというのは、しかし、ひっそりと語られるだけで、すぐに「主語」を「わたし」に変えて詩はつづいていく。
汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
これは、とてもリアルですね。激しい労働のなかで感覚がなくなる。何をしているか、何のためにしているのか、一瞬、意識がなくなる。意識がなくても肉体は動く。
そこで、はっと気がついて、もう一度意識を奮い立たせ、同時に肉体を突き動かす。
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない
このリズムが、とてもいい。
意識というのは、わりと持続するというか、ことばの持続のなかに意識の持続があり、その持続だけがつかみ取る何かがある。
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない
もそうだけれど、さっき読んだ部分の、
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
も、「意識」を浮かび上がらせる部分。長く、切れ目のないことばのつながり--そのなかに「意識」は存在しやすいのかもしれない。
少し戻る。
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
短いことばで、意識が肉体を駆り立てている。その感じがここではとてもよくでている。「もう少し」と言い聞かせているのは「意識」なのだけれど、その「意識」に答えて動いている「肉体」がとてもよくわかる。
さきに川上のことばは「肉体をくぐりぬけて動く」と書いたのだけれど、それは、こういう部分を指す。
「肉体」といっしょになって動くことば--それが「肉体」を感じさせるから、それ以外の部分--つまり「精神(感情)」を書いた部分も、手に触れることができる「肉体」のような感じに見えてくる。
ここが、とてもおもしろい。
また、この部分で、私は
でも
という1行が、とてもいいと思う。--いいというより、あ、この「でも」が川上の「肉体(思想)」そのものだと感じた。
何を掘っているかわからなくなる「でも」もう少し掘る。
この「でも」はよくみると、不思議なところがある。よくつかうつかい方なのだけれど、「論理的」ではない。
「わからなくなる」は「意識・精神・頭脳」の問題。そのあとの「掘る」は「肉体」の問題。「でも」でつなぐには、つまり「逆説」のろんりでことばを動かしていくには飛躍がある。
でも、(と真似してつかってみる)
飛躍はない。
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
でも
もう少し
もう少しだけ「掘らせる」
「掘る」ではなく「掘らせる」という動詞を補ってみる。「意識」が「肉体」に働きかけ、「肉体」に「掘らせる」。その結果、「肉体」が「掘る」。
これは「肉体」も「意識」も「わたしのもの」であるとき、矛盾(?)ではなくなる。私たちは、いつも、そうしている。「肉体」と「意識」は別個の存在ではなく、「ひとつ」なので、こういう混同というか、すばやい融合があるのだ。
ここに、たぶん、川上の「文体」の特徴がある。
私は川上の小説をほとんど読んでいないし、詩もほとんど読んでいないのだが、肉体と意識が「ひとつ」のものとして動く瞬間がとてもいい。
その「ひとつ」を、あすは別の角度から読んでみる。
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