詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『黒蜜』

2012-01-30 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『黒蜜』(筑摩書房、2011年09月20日発行)

 小池昌代『黒蜜』の帯に「瑞々しくも恐ろしい子どもの世界」と書かれている。そして「倦怠を知ったのは、八歳のときだ」という刺激的な文が引用されている。でも、私の読んだ印象は、そこに書かれていることとかけ離れている。子どもが描かれているが、そうして子どもが主人公のように書かれている作品もあるが、子どもの視線ではない部分の方がわたしにはおもしろく感じられる。
 「鈴」という作品の最初の方に飛行機事故をテレビで知る場面がある。解説者がコメントしている。事故から微妙にずれて、奇妙な解説である。

 人生の奥義につきあたったのか、解説者は口ごもって歯切れが悪い。その淀みにこそ面白さを覚えて、翼の母はじっと画面を凝視したが、アナウンサーは、さっと残酷に切断して、天気予報へとつないでしまった。

 「その淀みにこそ面白さを覚えて」という部分が楽しい。「淀み」と「面白さ」の結びつきに、小池の「肉体」を感じる。そして、この「淀み」を「面白い」と感じる感覚は、子どもの感覚とは相いれないものだと思う。
 「淀み」を「面白い」と感じる「肉体」だけが、アナウンサーの切り換えを「残酷に切断して」と言える。
 そうか、「淀み」の反対のことばは「切断」であり、その「切断」を「残酷」と言うのか。「残酷」は「淀み」の対極にあるのか。「淀み」とは、何事も「切断」しないことであり、その「淀み」のなかには「残酷」ではなく、「温かさ」のような「触覚」がごちゃごちゃにいりみだれているということだろう。「淀み」には、たしかに受け入れなければすんだものがたまりつづけて濁っていくときの、妙な「不自由さ」と、それゆえの「ぬるい」感じ、触覚を誘い込むとろりとしたものがあるなあ、と思う。
 小池の書いているのは短編であり、詩ではないのだが、こういう部分に出合うと、詩を感じるのである。

 こんな、なにもしゃべらない子といっしょにいて、翼はほんとうに楽しいのか。
 翼の母は、一瞬、高行のことを憎みたいような気持ちになった。

 この母の(大人の)描写も、面白いというか、説得力がある。「憎んだ」ではなく「憎みたいような気持ちになった」という「ことばの長さ」のなかに、私はやっぱり、ほーっと思うのである。
 「切断」ではなく、「接触面」というのだろうか--あ、これは、適当なことを書いているので、正しい用語なんかじゃないからね--何かを切るにしろ、そのとき動いていくことばの距離が長い。長いので、切る対象にずーっと触っている感じがする。その「触覚」に、私は女を、つまり小池の「肉体」を感じ、ほーっと思うのである。
 小池には会ったことがないのだけれど、こういう瞬間に、私は「肉体」を感じるのである。

 作品のなかでは「姉妹」が私はいちばん好きだ。
 夫の知り合いの女からピアノをもらうことになる。そして、そのピアノを再び返してくれと言われる。そこに姉妹が登場する。ピアノのメーカーも「姉妹」という意味の名前をもっている--というようなことは、まあ、申し訳ないが、私にはあまり関心がない。
 ここはいいなあ、と思ったのが次の部分。

鍵盤そのものは硬いのに、底に沈んで戻ってくるとき、指先に、やわらかな布に押し返されたような感触が広がる。なんて官能的。ピアノはまるで内臓を持っているかのようだ。

 「官能的」と「内臓」が結びつくところがおもしろい。そうか、「官能」は触覚にあるとしても、それは「肌」にあるのではないのだな。「肌」のように直接目に見えるものではなく、その目に見えるものに隠されている「内部」、つまり「内臓」(蔵--隠すとか納める、という意味があったな)のうごめきが「官能」なのだ。
 視覚や表面的な触覚ではなく、内臓そのものが、そこには肉が蔵(かく)しているものが交わることがセックスなのだな。そのなかには「もの」としての「肉」だけではなく、「肉」とは定義されていない感覚や精神の動きもきっと含まれる。どこからどこまでが視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といえないような、奥深いところで融合している核に触れたとき、そこから官能が動きはじめるということだろう。
 子どもの感覚(官能)は、そういう部分を小池が書いている大人のようにゆっくりとは辿らない。辿れないものがあって、その辿れないところをジャンプして跨いでしまう。飛翔してしまう。--まあ、ここから「童話」がはじまるのだが(そうして、小池はそういう「童話」めいたものを書いているのだが)、私は、やはり大人を書いた部分がいいと思う。
 「切断」のことば、「淀み」のないことば--は、小池の「肉体」には似合わない。





黒蜜
小池 昌代
筑摩書房
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「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」

2012-01-30 13:55:34 | その他(音楽、小説etc)
「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」(石橋美術館、2012年01月28日)

 「石橋コレクション」がパリで1962年にパリで紹介され、話題を呼んだという。そのときの「コレクション」をそのまま東京で紹介している。
 私はピカソとセザンヌが大好きだが、「石橋コレクション」のピカソとセザンヌはちょっと不思議な感じがする。強烈には惹きつけられない。おだやかに、その絵の前で呼吸したくなる。なんだろうなあ、これは。マチスにしても同じだ。過激さがない。私は過激なものが好きなので、こういう静かな感じにつつまれると、一瞬困惑するが……。

 ピカソ「女の顔」(1923年)は不思議なところがふたつある。
 ひとつは、ざらりとした絵肌の感じ。白の絵の具の感じが、ざらざらしている。そして、それがギリシャの夏の光を乱反射させると同時に、目に見えないような影を内部に抱え込む。矛盾。そして、その矛盾が、何か、絵の暴走、色の暴走を押さえ込んでいる。
 もう一つは顔の輪郭。バックの青--そのグラデーションの美しさがあるのだから、白い顔に輪郭はいらないだろう。白い肌、白い布の境目に線があるのはまだ納得がいくが、顔の輪郭線はなぜ? しかも、それは正確(?)ではない。一部が顔の内部に食い込んでいる。あるいは白い頬が輪郭をはみだしているというべきなのか。しかし、これがまた、ざらざらの白の絵の具の肌と同様、不思議に絵を落ち着かせている。「ゆらぎ」というとまた別の概念になるのかもしれないが、そこに自然な動きがある。固定されない「ゆれ」がある。呼吸がある。

 その呼吸について考えていたとき。

 私はふと、山田常山の急須のつなぎ目の手の跡を思い出したのである。完璧ではなく、むしろ不・完璧(非・完璧?)であるものが持つ力。そこから広がる余裕のようなもの。その不完全なところで、鑑賞者が遊べる、参加できる余地がある。「女の顔」の頬の大きさを線にまで引き戻したり、白い頬の形そのままになるまでひろげたり。そうして、自分にとっての「女」はどっちだろう、どっちが美人、と思ったり。どっちが母親らしい? あるいは娘らしい? どっちが悲しい? どっちが恥ずかしい顔? 恥じらいを秘めた顔?

 これはなかなか楽しい時間である。
 あ、私はこんなことも思えるんだ、とちょっとびっくりした。「女の顔」の輪郭については、長い間、あれは一体なんだろう、どうしてなんだろうと思っていたが、こんなふうにことばが動くとは思わなかった。

 これはきっと山田常山を見た影響である。
 芸術はどこで見るか、どの順序で見るかによって、毎日、姿を変えるものかもしれない。だからこそ、何度も何度も見なければならないのかもしれない。

 セザンヌの「帽子をかぶった自画像」(1890-94年頃)の塗り残しも、自己主張のない、ほんとうの塗り残しに見える。それが自然で楽しい。「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」も、色が色になる前の運動のように思える。
 石橋正二郎は、静かな絵を呼吸するのが好きな人だったのだろう、と思った。
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