岡井隆「南独逸の旅の前と後」(「現代詩手帖」2012年01月号)
岡井隆「南独逸(ドイツ)の旅の前と後」は、タイトルどおり、旅行の前と後のことが書いてあるのかどうか、よくわからない。「6」の部分に、
と書いているので、ここまでは「前」と想像できるが、では「7」「8」は、旅行の後? よくわからない。
そのほかにもよくわからないことがたくさんある。そのわからないことのなかには、いったい岡井は何を書きたいのか、ということがある。
それはたとえばきのう読んだ新川和江の詩ならば、新川は新川の詩が読者の中に残り、そのことばの中へいつまでも遊びに来てほしいという気持ちが書かれていると「わかる」ということと比較するとはっきりする。
いったい、何を読者に訴えたい? わからない。
何も書いていないんじゃないか--という気持ちさえ生まれる。
だけれど。
私は岡井のこの詩が好きだなあ。何も書いていない(ごめんさい)、ということがとてもおもしろい。きっと「何も書いてない」というのは、私が何が書いてあるか理解できないだけのことなのだが、何も書いてないと言い切ってしまっても、岡井のことばはこのままそこに存在している--そういう感じの、不思議なことばの手応えが好きなのだと思う。
「1」の部分。
書き出しの「小さな過失のやうに」は修辞学的には「秋の雲」、あるいは「流れてゆく」にかかるのだと思うが、「小さな過失のやうに青空を」とことばがつづくとき、その青空さえもが「小さな過失」に思える。いや、思ってしまう。
私は「意味」を特定したくないのだ。
修辞学を無視して、私は「小さな過失」のなかに「青空」「流れ(てゆく)」「秋の雲」が結晶するのを感じる。ことばは、うねるというよりも、前後を自在に行き来する。その、行き来を許す「文体」の不思議さが岡井のことばにはあって、その自在さが私は好きなのだ。
きっと岡井が短歌を書いている(詠んでいる)ということがどこかで関係している。
「定型」にしたがってことばを動かすとき、どうしても「学校教科書」的ではないことばの入れ換え(倒置)が起きる。この倒置のなかには、論理ではない何か別の統治する力がある。
その力に、私は、ぐいっと引き込まれてしまう。
その力が強すぎるとき、私は、そしてとても混乱する。
これは何だろう。
季節が秋に変わる。衣替えをして冷気にあってもいいように用意する。これは「精神」ではなく「肉体」と「外部(気候)」との調和の取り方である。
それと同じように、いま日本にいる岡井の精神も「衣替え」をして、外部(ドイツ)との関係をスムーズに保てるよう準備しなければならない。そういう調和の取り方を考えないと行けない、ということなのかなあ。
--という具合に、私は、岡井のことばが「わかる(?)」のだが。
「精神も外部とある種別の関係」か。
ややこしくない?
こんなめんどうくさい日本語で岡井は考える?
と、言ってしまいたい。否定してしまいたいのに、その前の、
このことば、この音の調子が、とても美しくて(「対ふ」を私は「むかう」と読んだのだが)、私はことばのまわりでうろうろしてしまう。
美しいことばがさーっと動く。そのあと、わけのわからない停滞にまきこまれ、その停滞にとまどいながら、こころは「衣替へしては冷気に対ふやうに」へ引き返して遊んでしまう。
「冷気」というのは、1行目の「小さな過失」のようなものかなあ、とも思う。
ひとは「小さな過失」に向き合うとき、「衣替え」するのかなあ。まあ、小さな過失について弁解するとき、ことばの調子は少し変わるなあ、と岡井が書いていないことをあれこれ考えながら、こういう「うだうだ・くだくだ」ってあるなあ、と思う。
こういう私のくだらない「うだうだ・くだくだ」を受け入れてくれる何かが、岡井のことばにはある。
私のなかの余分なものを受け止めて、洗い流してくれる力がある。
きっと「うだうだ・くだくだ」を岡井は潜り抜けてきたんだろうなあ、と勝手に私は「共感」しているのかもしれない。
「声が清めてくれる」の「清める」ということば。
ことばは、何かを「清める」ためにある。
「意味」をつたえるためにではなく、いま/ここを清めるのがことば、歌(和歌/短歌)の力なのかもしれない。それが、岡井のことばの奥にはあるということかもしれない。不思議な音楽と、それぶつかる「現実」。「現実」を内部から統合していく「音楽」としてのことばの動き--論理化できない何かを、私は、直感として岡井のことばに感じる。
「2」の部分。
2行目の「きこえる」が岡井のことばの特徴のひとつかもしれない。岡井は「音」に還元して世界をとらえている。「音」が世界の中心にある。無意識か、意識的かはわからないが……
その「きく」が椋鳥の声から、人の声へと変化してゆく。
わたし(岡井)のものではない声が、岡井の何かを「清める」。それは「1」の部分の「法師蝉」の声と同じである。
「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」は、椋鳥ではなく、「2」の後半にでてくる声の持ち主、たぶん妻の声だろう。
「グーテン・ターク」くらい岡井は知っているだろう。そして知っていることを妻は知っているに違いない。それでも「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」と言ってしまう。そのときの会話を動かしているのは、不思議な声の力である。二人の調和がある。
「星の空」と「雨」は矛盾のようだが、雨が一瞬降って晴れ上がって、雨が降ることで雲が消えて星が輝くような、すばやい運動がある。
ここにも「清める」力が働いている。
「銀のやうにきらめく」のは、「雨が降つて来たんだねつていふ声」か、「星」か、あるいは「雨」に濡れた庭の木々や石や、その他もろもろか。
「銀のやうにきらめく」という比喩の中に、すべてが統合される。
こういう瞬間も、私はとても好きだ。比喩の力を感じる。
岡井隆「南独逸(ドイツ)の旅の前と後」は、タイトルどおり、旅行の前と後のことが書いてあるのかどうか、よくわからない。「6」の部分に、
十月十五日木下杢太郎の忌日にわたしは南ドイツは暗黒の森(シュワルツ・ワルト)あたりにゐるだらう
と書いているので、ここまでは「前」と想像できるが、では「7」「8」は、旅行の後? よくわからない。
そのほかにもよくわからないことがたくさんある。そのわからないことのなかには、いったい岡井は何を書きたいのか、ということがある。
それはたとえばきのう読んだ新川和江の詩ならば、新川は新川の詩が読者の中に残り、そのことばの中へいつまでも遊びに来てほしいという気持ちが書かれていると「わかる」ということと比較するとはっきりする。
いったい、何を読者に訴えたい? わからない。
何も書いていないんじゃないか--という気持ちさえ生まれる。
だけれど。
私は岡井のこの詩が好きだなあ。何も書いていない(ごめんさい)、ということがとてもおもしろい。きっと「何も書いてない」というのは、私が何が書いてあるか理解できないだけのことなのだが、何も書いてないと言い切ってしまっても、岡井のことばはこのままそこに存在している--そういう感じの、不思議なことばの手応えが好きなのだと思う。
「1」の部分。
小さな過失のやうに青空を流れてゆく秋の
雲があつた
衣替へしては冷気に対ふやうに精神も外部とある種別の関係に入る
べきなのだが
今日はどうやら曇りながら仕事の進む日だ
ミュンヘンへ発つ前の日々だと承知してゐる
それなのに帰国したあとのやうな霧のなかにゐる
書き出しの「小さな過失のやうに」は修辞学的には「秋の雲」、あるいは「流れてゆく」にかかるのだと思うが、「小さな過失のやうに青空を」とことばがつづくとき、その青空さえもが「小さな過失」に思える。いや、思ってしまう。
私は「意味」を特定したくないのだ。
修辞学を無視して、私は「小さな過失」のなかに「青空」「流れ(てゆく)」「秋の雲」が結晶するのを感じる。ことばは、うねるというよりも、前後を自在に行き来する。その、行き来を許す「文体」の不思議さが岡井のことばにはあって、その自在さが私は好きなのだ。
きっと岡井が短歌を書いている(詠んでいる)ということがどこかで関係している。
「定型」にしたがってことばを動かすとき、どうしても「学校教科書」的ではないことばの入れ換え(倒置)が起きる。この倒置のなかには、論理ではない何か別の統治する力がある。
その力に、私は、ぐいっと引き込まれてしまう。
その力が強すぎるとき、私は、そしてとても混乱する。
衣替へしては冷気に対ふやうに精神も外部とある種別の関係に入る
べきなのだが
これは何だろう。
季節が秋に変わる。衣替えをして冷気にあってもいいように用意する。これは「精神」ではなく「肉体」と「外部(気候)」との調和の取り方である。
それと同じように、いま日本にいる岡井の精神も「衣替え」をして、外部(ドイツ)との関係をスムーズに保てるよう準備しなければならない。そういう調和の取り方を考えないと行けない、ということなのかなあ。
--という具合に、私は、岡井のことばが「わかる(?)」のだが。
「精神も外部とある種別の関係」か。
ややこしくない?
こんなめんどうくさい日本語で岡井は考える?
と、言ってしまいたい。否定してしまいたいのに、その前の、
衣替へしては冷気に対ふやうに
このことば、この音の調子が、とても美しくて(「対ふ」を私は「むかう」と読んだのだが)、私はことばのまわりでうろうろしてしまう。
美しいことばがさーっと動く。そのあと、わけのわからない停滞にまきこまれ、その停滞にとまどいながら、こころは「衣替へしては冷気に対ふやうに」へ引き返して遊んでしまう。
「冷気」というのは、1行目の「小さな過失」のようなものかなあ、とも思う。
ひとは「小さな過失」に向き合うとき、「衣替え」するのかなあ。まあ、小さな過失について弁解するとき、ことばの調子は少し変わるなあ、と岡井が書いていないことをあれこれ考えながら、こういう「うだうだ・くだくだ」ってあるなあ、と思う。
こういう私のくだらない「うだうだ・くだくだ」を受け入れてくれる何かが、岡井のことばにはある。
私のなかの余分なものを受け止めて、洗い流してくれる力がある。
きっと「うだうだ・くだくだ」を岡井は潜り抜けてきたんだろうなあ、と勝手に私は「共感」しているのかもしれない。
法師蝉、今年最後のかれらの声が清めてくれてゐるこの空間をわた
しはしばらく捨てて行くのだ
「声が清めてくれる」の「清める」ということば。
ことばは、何かを「清める」ためにある。
「意味」をつたえるためにではなく、いま/ここを清めるのがことば、歌(和歌/短歌)の力なのかもしれない。それが、岡井のことばの奥にはあるということかもしれない。不思議な音楽と、それぶつかる「現実」。「現実」を内部から統合していく「音楽」としてのことばの動き--論理化できない何かを、私は、直感として岡井のことばに感じる。
「2」の部分。
旅の仕度といへばどんな小さな旅でも
たのしくきこえるが
今夕啼(ゆうな)きしてゐる椋鳥(むく)ほどではない
「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」
尻上がりにグーテン・タークと言ってみるが
誰も答へてくれさうにない
2行目の「きこえる」が岡井のことばの特徴のひとつかもしれない。岡井は「音」に還元して世界をとらえている。「音」が世界の中心にある。無意識か、意識的かはわからないが……
その「きく」が椋鳥の声から、人の声へと変化してゆく。
わたし(岡井)のものではない声が、岡井の何かを「清める」。それは「1」の部分の「法師蝉」の声と同じである。
「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」は、椋鳥ではなく、「2」の後半にでてくる声の持ち主、たぶん妻の声だろう。
「グーテン・ターク」くらい岡井は知っているだろう。そして知っていることを妻は知っているに違いない。それでも「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」と言ってしまう。そのときの会話を動かしているのは、不思議な声の力である。二人の調和がある。
十年来いつのまにか海外へゆく愉しみが
減つて(日本でいいよ オレつち)
着てゆく服持つてゆく服が吊るしてある
そのそばをすぎて
星の空へ近づく
雨が降つて来たんだねつていふ声が真夜中に
銀のやうにきらめく
「星の空」と「雨」は矛盾のようだが、雨が一瞬降って晴れ上がって、雨が降ることで雲が消えて星が輝くような、すばやい運動がある。
ここにも「清める」力が働いている。
「銀のやうにきらめく」のは、「雨が降つて来たんだねつていふ声」か、「星」か、あるいは「雨」に濡れた庭の木々や石や、その他もろもろか。
「銀のやうにきらめく」という比喩の中に、すべてが統合される。
こういう瞬間も、私はとても好きだ。比喩の力を感じる。
瞬間を永遠とするこころざし (私の履歴書) | |
岡井 隆 | |
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