谷川俊太郎「庭」(「現代詩手帖」2012年01月号)
谷川俊太郎「庭」は6つの断章から構成されている。2つ目の断章を読みながらいろいろ考えた。
小鳥が考えていることは、私が考えていることとは違う--と谷川は書いている。ほんとうだろうか。どうしてわかったのだろうか。その「根拠」がわからない。
それなのに。
私の考えと小鳥の考えが「違う」と谷川は考え、それを「残念」だと感じている。
そのとき、「違う」ということのなかに、詩がある。
そして、そこには「考え」と「感じ」の不思議な交錯がある。
と、書いてきて、私のことばはそこで動かなくなる。
ちょっと急いで書きすぎた気がする。
私の感じたことは、いま書いたこととは少し違うのだ。
小鳥が考えていることと、私の考えていることは違う--そう谷川が書くとき、そこに「矛盾」があると、私は感じる。考える。
「矛盾」というと言い過ぎになるかもしれない。
そこには、何か「たどりつけないもの」がある。「考え」というか「論理」ではたどりつけないものがある。つまり、小鳥が考えていることと、私の考えていることは違うというときの「根拠」がわからないので、谷川の書いていることがほんとうか、うそか、見極めることができない。
それなのに、そこに、詩を感じる。
詩は、ほんとうか、うそか、ということとは関係ないのだ、と思い、そのことに対して私は、変だなあと思う。その変という思いを、私は無意識に「矛盾」と呼んでしまったようである。
これは、どういうことなのか。
私は再び考える。
小鳥が考えていることと、私の考えていることは違う--そう谷川が書くとき、その谷川のことばがほんとうか、うそか私は判断できない。谷川の書いていることがらの「ほんとう」に、私は「論理」ではたどりつけない。「論理」ではたどりつけないのだけれど、ほかの何かでは、谷川の書いていることを突き抜けて、その向こうまで行ってしまう、行ってしまえる気がする。そして、そこにこそ「ほんとう」を見たような気持ちになる。
そこには「夢」でたどりつける(そして、それを乗り越えて行ける)何かがある。
「夢」でたどりつける何か。それは祈りかもしれない。
なんだかよくわからないが、人間が(私が)勝手に思うことがらがある。
谷川の考えていること、書いていること、あるいは感じていることとは無関係に、私が勝手に考え、思ってしまうことがらがあって、それは「論理」ではなく、何か別なもので動いていて、ことばのむこうへ勝手に行ってしまう。
そのとき私を動かしているのは、夢でも、祈りでもないかもしれない。「欲望」かもしれない、と思う。人間の(私の)肉体に深く根ざした何かではないか、とも思う。
詩を読む。文学を読む。それは、筆者の書いたことを読むということなのかもしれないが、それだけではないと思うのだ。
そこにあることばを通して作者の思想(作者の書こうとしている真実)に触れるだけではなく、作者の思いを裏切って、私は私の考えたいことを考える。感じたいことを感じる。
私には考えたい、感じたい欲望があり、その欲望が「考え」や「感じ」を、そこにあることばを利用して、動いていくのである。
「真実」は作者がことばにこめたものとは限らない。
これは、「誤読」の欲望かもしれない。
そして、私は、この「誤読」の欲望を通じて、いま、谷川とつながっていると感じる。(この「感じ」も、もちろん「誤読」である可能性はあるのだが……。)
どういうことかというと。
谷川は、小鳥の考えていることと、私(谷川)の考えいることは「違う」と書いているが、谷川がいう「違う」は「誤読」である可能性がある。ほんとうは「同じ」かもしれない。判断する「材料(根拠)」はどこにもないのだから、「違う」という判断は「誤読」である可能性がある。
そして、それが「誤読」であったとしても、谷川はその「誤読」を選び、そのうえで「その違いが残念だ」と言う。
「残念」は、谷川の「誤読」(勝手な解釈)が作り上げた感情なのである。
そして、それが「誤読」(勝手な解釈)が作り上げた感情だから、私はとてもおもしろいと思うのだ。
「真実」なんか、おもしろくはない。「真実」というものがあるとすれば、それはきっと「ひとつ」である。でも、「答え」が「ひとつ」というのは、窮屈でつまらない。
「ひとつ」を突き破って動いていく、ほかの何か--可能性の方がおもしろい。
それは、ほんとうは「いま/ここ」にはないということかもしれない。
「ほんとう」は、ことばが動くとき、そのことばとともに生まれてくるものである。
詩は、感情を叙述するものではないのだ。思想を叙述する道具ではないのだ。
詩は、感情をつくりだしていくものなのだ。思想をつくるものなのだ。生み出していくものなのだ。
そのことを、この断章は簡潔に語っている。
3つ目の断章もおもしろい。
ここには、「大きなうそ」がある。タンポポがどこから来て、どこへ行くか知らない。これはほんとうのことだろう。しかし、「私」がどこから来て、どこへ行くのか知らないというのは「大きなうそ」である。
どこへ行くか。
私たちはだれでも知っていることがある。人間は必ず「死ぬ」。「死ぬ」ということを知っている。最終的にどこへ行くか、人間は知っている。「知らないのは私も同じだ」と谷川は書いているが、「死ぬ」ということを知っているという点はタンポポとは「違う」。(もっとも、ほんとうにタンポポが死ぬということを知らないかどうかは、わかりはしないのだけれど、知る、知らないというのは草花のすることではないと私は考えているので、ここでは「違う」と書いておく--方便である。)
もちろん、その「死」の世界がどういうものであるか、私たちは知らないから(体験したひとのことばを聞くことはできないから)、谷川の書いているように「死(の世界)」を知らないとも言えるが、その「死の世界を知らない」という前提である「死」(死ぬ)が人間の宿命であることを私たちは知っている。
知っている。だから、知らないという。ここに「矛盾」があり、「矛盾」があるから、そこに詩があると感じる。
どこへ行くか「知らない」のではない。「知らない」といいたいのだ。「矛盾」の根底には、そういう「欲望」がある。「誤読」したいという「欲望」がある。
また2つ目の断章では「違う」のなかに「矛盾」があったが、3つ目の断章のなかでは「同じ」ということばのなかに「矛盾」がある。「矛盾がある」という一点で、「違う」と「同じ」の区別はなくなってしまう。「違う」と「同じ」は違っていながら同じなのだ--あ、なんだか、奇妙な迷路に入り込んだみたい。
少し、書いていることばを前に戻してみる。
「誤読」だけが、私たちにとって(あるいは、ことばにとって)真実であると私は思うのだ。--谷川の今回の詩には、そういうことが書かれていると思う。
最初の断章を読み返すと、そのことがいっそうはっきりする。
最後の2行は「比喩」である。不発弾は爆発しない、ということを「木の実」を借りて書き直したことがらである。
でも、そのことばは正確か。
ほんとうに爆発しないのか。
だれもわからない。だれも知らない。
だれも知らないからこそ、谷川は、「木の実のようには芽吹かない」、つまり「爆発しない」と「誤読」する。「誤読」を正しい判断のように書く。
そこには、不発弾は爆発しないでほしいという「欲望」が正確に書かれている。
「誤読」はほんとうに思っていることを書くための方法なのだ。
「誤読」のなかには、欲望の「ほんとう」がある。そして欲望の「ほんとう」は本能の「ほんとう」だから、間違いはない--と私は信じている。
谷川俊太郎「庭」は6つの断章から構成されている。2つ目の断章を読みながらいろいろ考えた。
庭に小鳥が来ている
名前は知らない
図鑑で調べる気もない
いま落葉の上で一瞬じってとして
彼は(それとも彼女は)考えている
私が考えているのとは違うことを
その違いが残念だ
小鳥が考えていることは、私が考えていることとは違う--と谷川は書いている。ほんとうだろうか。どうしてわかったのだろうか。その「根拠」がわからない。
それなのに。
私の考えと小鳥の考えが「違う」と谷川は考え、それを「残念」だと感じている。
そのとき、「違う」ということのなかに、詩がある。
そして、そこには「考え」と「感じ」の不思議な交錯がある。
と、書いてきて、私のことばはそこで動かなくなる。
ちょっと急いで書きすぎた気がする。
私の感じたことは、いま書いたこととは少し違うのだ。
小鳥が考えていることと、私の考えていることは違う--そう谷川が書くとき、そこに「矛盾」があると、私は感じる。考える。
「矛盾」というと言い過ぎになるかもしれない。
そこには、何か「たどりつけないもの」がある。「考え」というか「論理」ではたどりつけないものがある。つまり、小鳥が考えていることと、私の考えていることは違うというときの「根拠」がわからないので、谷川の書いていることがほんとうか、うそか、見極めることができない。
それなのに、そこに、詩を感じる。
詩は、ほんとうか、うそか、ということとは関係ないのだ、と思い、そのことに対して私は、変だなあと思う。その変という思いを、私は無意識に「矛盾」と呼んでしまったようである。
これは、どういうことなのか。
私は再び考える。
小鳥が考えていることと、私の考えていることは違う--そう谷川が書くとき、その谷川のことばがほんとうか、うそか私は判断できない。谷川の書いていることがらの「ほんとう」に、私は「論理」ではたどりつけない。「論理」ではたどりつけないのだけれど、ほかの何かでは、谷川の書いていることを突き抜けて、その向こうまで行ってしまう、行ってしまえる気がする。そして、そこにこそ「ほんとう」を見たような気持ちになる。
そこには「夢」でたどりつける(そして、それを乗り越えて行ける)何かがある。
「夢」でたどりつける何か。それは祈りかもしれない。
なんだかよくわからないが、人間が(私が)勝手に思うことがらがある。
谷川の考えていること、書いていること、あるいは感じていることとは無関係に、私が勝手に考え、思ってしまうことがらがあって、それは「論理」ではなく、何か別なもので動いていて、ことばのむこうへ勝手に行ってしまう。
そのとき私を動かしているのは、夢でも、祈りでもないかもしれない。「欲望」かもしれない、と思う。人間の(私の)肉体に深く根ざした何かではないか、とも思う。
詩を読む。文学を読む。それは、筆者の書いたことを読むということなのかもしれないが、それだけではないと思うのだ。
そこにあることばを通して作者の思想(作者の書こうとしている真実)に触れるだけではなく、作者の思いを裏切って、私は私の考えたいことを考える。感じたいことを感じる。
私には考えたい、感じたい欲望があり、その欲望が「考え」や「感じ」を、そこにあることばを利用して、動いていくのである。
「真実」は作者がことばにこめたものとは限らない。
これは、「誤読」の欲望かもしれない。
そして、私は、この「誤読」の欲望を通じて、いま、谷川とつながっていると感じる。(この「感じ」も、もちろん「誤読」である可能性はあるのだが……。)
どういうことかというと。
谷川は、小鳥の考えていることと、私(谷川)の考えいることは「違う」と書いているが、谷川がいう「違う」は「誤読」である可能性がある。ほんとうは「同じ」かもしれない。判断する「材料(根拠)」はどこにもないのだから、「違う」という判断は「誤読」である可能性がある。
そして、それが「誤読」であったとしても、谷川はその「誤読」を選び、そのうえで「その違いが残念だ」と言う。
「残念」は、谷川の「誤読」(勝手な解釈)が作り上げた感情なのである。
そして、それが「誤読」(勝手な解釈)が作り上げた感情だから、私はとてもおもしろいと思うのだ。
「真実」なんか、おもしろくはない。「真実」というものがあるとすれば、それはきっと「ひとつ」である。でも、「答え」が「ひとつ」というのは、窮屈でつまらない。
「ひとつ」を突き破って動いていく、ほかの何か--可能性の方がおもしろい。
それは、ほんとうは「いま/ここ」にはないということかもしれない。
「ほんとう」は、ことばが動くとき、そのことばとともに生まれてくるものである。
詩は、感情を叙述するものではないのだ。思想を叙述する道具ではないのだ。
詩は、感情をつくりだしていくものなのだ。思想をつくるものなのだ。生み出していくものなのだ。
そのことを、この断章は簡潔に語っている。
3つ目の断章もおもしろい。
春になるとタンポポが咲く
種子はどこから来たのか
黄色い花はすぐ白い綿毛に変わる
いつの間にか風に乗って
種子はどこかへ旅立つ
どこから来てどこへ行くのか
それを知らないのは私も同じだ
ここには、「大きなうそ」がある。タンポポがどこから来て、どこへ行くか知らない。これはほんとうのことだろう。しかし、「私」がどこから来て、どこへ行くのか知らないというのは「大きなうそ」である。
どこへ行くか。
私たちはだれでも知っていることがある。人間は必ず「死ぬ」。「死ぬ」ということを知っている。最終的にどこへ行くか、人間は知っている。「知らないのは私も同じだ」と谷川は書いているが、「死ぬ」ということを知っているという点はタンポポとは「違う」。(もっとも、ほんとうにタンポポが死ぬということを知らないかどうかは、わかりはしないのだけれど、知る、知らないというのは草花のすることではないと私は考えているので、ここでは「違う」と書いておく--方便である。)
もちろん、その「死」の世界がどういうものであるか、私たちは知らないから(体験したひとのことばを聞くことはできないから)、谷川の書いているように「死(の世界)」を知らないとも言えるが、その「死の世界を知らない」という前提である「死」(死ぬ)が人間の宿命であることを私たちは知っている。
知っている。だから、知らないという。ここに「矛盾」があり、「矛盾」があるから、そこに詩があると感じる。
どこへ行くか「知らない」のではない。「知らない」といいたいのだ。「矛盾」の根底には、そういう「欲望」がある。「誤読」したいという「欲望」がある。
また2つ目の断章では「違う」のなかに「矛盾」があったが、3つ目の断章のなかでは「同じ」ということばのなかに「矛盾」がある。「矛盾がある」という一点で、「違う」と「同じ」の区別はなくなってしまう。「違う」と「同じ」は違っていながら同じなのだ--あ、なんだか、奇妙な迷路に入り込んだみたい。
少し、書いていることばを前に戻してみる。
「誤読」だけが、私たちにとって(あるいは、ことばにとって)真実であると私は思うのだ。--谷川の今回の詩には、そういうことが書かれていると思う。
最初の断章を読み返すと、そのことがいっそうはっきりする。
庭の下に
不発弾が埋まっているのを
幼い女の子は知るよしもない
それが青空から落ちてきたのは遠い昔
落とした敵はもうこの世にいない
関東ローム層に埋もれた爆弾は
木の実のようには芽吹かない
最後の2行は「比喩」である。不発弾は爆発しない、ということを「木の実」を借りて書き直したことがらである。
でも、そのことばは正確か。
ほんとうに爆発しないのか。
だれもわからない。だれも知らない。
だれも知らないからこそ、谷川は、「木の実のようには芽吹かない」、つまり「爆発しない」と「誤読」する。「誤読」を正しい判断のように書く。
そこには、不発弾は爆発しないでほしいという「欲望」が正確に書かれている。
「誤読」はほんとうに思っていることを書くための方法なのだ。
「誤読」のなかには、欲望の「ほんとう」がある。そして欲望の「ほんとう」は本能の「ほんとう」だから、間違いはない--と私は信じている。
現代詩手帖 2012年 01月号 [雑誌] | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |