川上三映子「まえぶれもなく」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)
だれのことばでも肉体と意識は「ひとつ」かもしれない。
私がおもしろいと思うのは、かなり逆説的な言い方になるのだが、意識は肉体と違って分裂しつづける。分裂しつづけることができる。そのとき、「肉体」が「意識」を「ひとつ」にする力として働き、「肉体」と「意識」は「ひとつ」であると教えてくれる。つまり、どんなに分裂しても、意識は肉体とともにあり、分裂したすべての意識がどこにも消えないということを教えてくれる。
ことばは意識を追いつづける。意識がことばを拡散させる。このとき、意識はどこへもゆけない。肉体のなかにとじこめられている。「ひとつ」にねじりあわされている。どこか、識別できないことろで重なりあっている。まるでそれは肉体のなかで五感がまじりあうような感じだ。五感は、その感じるところによって目(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)などにわかれるけれど、感じたものは肉体なのかで融合し、他の器官にも影響を与える。それと同じように、ことばは次々に交じり合い、影響を与え合う。そして、はっきりさせようとすればするほどわけかわからなくなる。自分のなかではわかっていることなのだけれど、いざことばにしてみるとくだくだと同じことを繰り返してしまう。ことばそれ自体はちがうことなのだけれど、ことばがちがえばちがうほどこころが同じになる。千々にくだけることで「ひとつ」であることがわかる。「ひとつ」が砕けて、群がって、動いていることがわかる。人間の肉体が動くとき、手も足も指も動くように。
句読点がない。句読点がないけれど、私はついつい句読点を補って読んでしまう。ひとつづきのことばを、いくつかの文章にわけてしまう。けれど、ことばは句読点ではほんとうは区切れないものなのだと思う。
話しているうちに、話している自分の声をきいて反応し、少しずつずれていく。そのずれを修正するようにして、文章にするとき句読点をつかうのだが、これは「学校教科書」が考えた規則で、人間のこころというのは「教科書」のようには動かない。
理不尽に、ことばはつながっていく。連続していく。切断できない。
それでは、いけない。
連続ではなく、切断が必要なのである。
それは自分のことばの場合もあるし、自分に向けられた他人のことばの場合もある。ほんとうは、そういう具合に接続していきたくない--そういう思いが噴出してきて、たとえば今引用した部分のあとは、次のように展開する。
ううん死ぬよぜったい死ぬからどっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって誰もいなくなったときその思い出はどこにもなんにも残らないかもしれないけれどぜんぶがなんでもなくなるかもしれないけれど残して
「ううん」と否定のことばで、相手のことばを切断する。
けれど、これはうまくいかない。
この部分の「じゃあ」からつづくことば--それがとてもあいまいである。前の段落で、「ひとは永久に死なない(かもしれない)」と言ったのが男だと仮定する。それに対して女(わたし)は「ひとは必ず死ぬ」という。そのあと「じゃあ」と別の提案をするのは男の方である(はずだ)。しかし、区別がつかず、その男のことばを引き取って女が区切りもなくことばを動かしていく。
このとき、意識も肉体も、識別されていない。「ひとつ」に融合している。ことばだけが「ひとつ」の状態で、しかも、矛盾を抱え、常に否定を含みながら動いている。
あ、なんだか、書いていることがごちゃごちゃしてきた。
きのう書いたことにちょっと戻る。
きのう私は「でも」ということばが川上の思想であり、「でも」が「矛盾」を抱えながら、論理を飛躍させる。そのとき、そこに「ひとつ」の肉体というものがあらわれる--というようなことを書いた(書きたかった)。
それがひとりのことばの場合でも、二人のことばの場合でも起きる。ふたりのことばなのに「ひとつ」になって動いていくということが起きる。
そのときふたりは、無意識に「ひとつ」の肉体を共有している。これは「ことばのにくたい」というものかもしれない。「人間のにくたい」を越え、「ことばの肉体」として「ひとつ」になる。
それを「愛」といえばいえるのかもしれない。--まあ、これは蛇足。
「ことばの肉体」がひとつであるからこそ、「人間の肉体」が「ふたつ」にわかれ、その片方が不在のときに、激しい悲しみが襲ってくる。
詩のつづき。
だれのことばでも肉体と意識は「ひとつ」かもしれない。
私がおもしろいと思うのは、かなり逆説的な言い方になるのだが、意識は肉体と違って分裂しつづける。分裂しつづけることができる。そのとき、「肉体」が「意識」を「ひとつ」にする力として働き、「肉体」と「意識」は「ひとつ」であると教えてくれる。つまり、どんなに分裂しても、意識は肉体とともにあり、分裂したすべての意識がどこにも消えないということを教えてくれる。
もしもし どこにいるのですか もしもし
何がどうはっきりしたらあなたは死んだということになるのでしょう
だって死んでいないくても会えない人はたくさんいるし会わなくなる人はたくさんいるし
にこにこ笑って実家へ帰っていったあなたが新幹線に乗ったとたんわたしのことをもう好きではなくなって
連絡しなくなっただけなのかもしれないではないですか
わたしのことを忘れてしまってどこかで生きているのかもしれないではないですか
ことばは意識を追いつづける。意識がことばを拡散させる。このとき、意識はどこへもゆけない。肉体のなかにとじこめられている。「ひとつ」にねじりあわされている。どこか、識別できないことろで重なりあっている。まるでそれは肉体のなかで五感がまじりあうような感じだ。五感は、その感じるところによって目(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)などにわかれるけれど、感じたものは肉体なのかで融合し、他の器官にも影響を与える。それと同じように、ことばは次々に交じり合い、影響を与え合う。そして、はっきりさせようとすればするほどわけかわからなくなる。自分のなかではわかっていることなのだけれど、いざことばにしてみるとくだくだと同じことを繰り返してしまう。ことばそれ自体はちがうことなのだけれど、ことばがちがえばちがうほどこころが同じになる。千々にくだけることで「ひとつ」であることがわかる。「ひとつ」が砕けて、群がって、動いていることがわかる。人間の肉体が動くとき、手も足も指も動くように。
悲しいわけじゃないのに何もかもがこうでしかないこうでしかありえなかった何か大きなものにむかってこらえきれず泣いてしまうわたしにむかって悲劇的な話をするのがきらいなあなたはそんなことはわからないじゃないか将来はiPS細胞とかがすごく発達して俺は死なないかも知れないしふつうに暮らしてふつうに子どもをいくつかつくってそれで永久に長生きだなんて言って笑っていて
句読点がない。句読点がないけれど、私はついつい句読点を補って読んでしまう。ひとつづきのことばを、いくつかの文章にわけてしまう。けれど、ことばは句読点ではほんとうは区切れないものなのだと思う。
話しているうちに、話している自分の声をきいて反応し、少しずつずれていく。そのずれを修正するようにして、文章にするとき句読点をつかうのだが、これは「学校教科書」が考えた規則で、人間のこころというのは「教科書」のようには動かない。
理不尽に、ことばはつながっていく。連続していく。切断できない。
それでは、いけない。
連続ではなく、切断が必要なのである。
それは自分のことばの場合もあるし、自分に向けられた他人のことばの場合もある。ほんとうは、そういう具合に接続していきたくない--そういう思いが噴出してきて、たとえば今引用した部分のあとは、次のように展開する。
ううん死ぬよぜったい死ぬからどっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって誰もいなくなったときその思い出はどこにもなんにも残らないかもしれないけれどぜんぶがなんでもなくなるかもしれないけれど残して
「ううん」と否定のことばで、相手のことばを切断する。
けれど、これはうまくいかない。
どっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって
この部分の「じゃあ」からつづくことば--それがとてもあいまいである。前の段落で、「ひとは永久に死なない(かもしれない)」と言ったのが男だと仮定する。それに対して女(わたし)は「ひとは必ず死ぬ」という。そのあと「じゃあ」と別の提案をするのは男の方である(はずだ)。しかし、区別がつかず、その男のことばを引き取って女が区切りもなくことばを動かしていく。
このとき、意識も肉体も、識別されていない。「ひとつ」に融合している。ことばだけが「ひとつ」の状態で、しかも、矛盾を抱え、常に否定を含みながら動いている。
あ、なんだか、書いていることがごちゃごちゃしてきた。
きのう書いたことにちょっと戻る。
きのう私は「でも」ということばが川上の思想であり、「でも」が「矛盾」を抱えながら、論理を飛躍させる。そのとき、そこに「ひとつ」の肉体というものがあらわれる--というようなことを書いた(書きたかった)。
それがひとりのことばの場合でも、二人のことばの場合でも起きる。ふたりのことばなのに「ひとつ」になって動いていくということが起きる。
そのときふたりは、無意識に「ひとつ」の肉体を共有している。これは「ことばのにくたい」というものかもしれない。「人間のにくたい」を越え、「ことばの肉体」として「ひとつ」になる。
それを「愛」といえばいえるのかもしれない。--まあ、これは蛇足。
「ことばの肉体」がひとつであるからこそ、「人間の肉体」が「ふたつ」にわかれ、その片方が不在のときに、激しい悲しみが襲ってくる。
詩のつづき。
残るかもしれないよそれなんだっけアカシックレコードだよそれあるよそれなんて話してわたしをちゃかして何度も笑って何度も眠ったのにこんな
ほんとうに
来るなんて
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