詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上三映子「まえぶれもなく」(2)

2012-01-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川上三映子「まえぶれもなく」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)

 だれのことばでも肉体と意識は「ひとつ」かもしれない。
 私がおもしろいと思うのは、かなり逆説的な言い方になるのだが、意識は肉体と違って分裂しつづける。分裂しつづけることができる。そのとき、「肉体」が「意識」を「ひとつ」にする力として働き、「肉体」と「意識」は「ひとつ」であると教えてくれる。つまり、どんなに分裂しても、意識は肉体とともにあり、分裂したすべての意識がどこにも消えないということを教えてくれる。

もしもし どこにいるのですか もしもし
何がどうはっきりしたらあなたは死んだということになるのでしょう
だって死んでいないくても会えない人はたくさんいるし会わなくなる人はたくさんいるし
にこにこ笑って実家へ帰っていったあなたが新幹線に乗ったとたんわたしのことをもう好きではなくなって
連絡しなくなっただけなのかもしれないではないですか
わたしのことを忘れてしまってどこかで生きているのかもしれないではないですか

 ことばは意識を追いつづける。意識がことばを拡散させる。このとき、意識はどこへもゆけない。肉体のなかにとじこめられている。「ひとつ」にねじりあわされている。どこか、識別できないことろで重なりあっている。まるでそれは肉体のなかで五感がまじりあうような感じだ。五感は、その感じるところによって目(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)などにわかれるけれど、感じたものは肉体なのかで融合し、他の器官にも影響を与える。それと同じように、ことばは次々に交じり合い、影響を与え合う。そして、はっきりさせようとすればするほどわけかわからなくなる。自分のなかではわかっていることなのだけれど、いざことばにしてみるとくだくだと同じことを繰り返してしまう。ことばそれ自体はちがうことなのだけれど、ことばがちがえばちがうほどこころが同じになる。千々にくだけることで「ひとつ」であることがわかる。「ひとつ」が砕けて、群がって、動いていることがわかる。人間の肉体が動くとき、手も足も指も動くように。

悲しいわけじゃないのに何もかもがこうでしかないこうでしかありえなかった何か大きなものにむかってこらえきれず泣いてしまうわたしにむかって悲劇的な話をするのがきらいなあなたはそんなことはわからないじゃないか将来はiPS細胞とかがすごく発達して俺は死なないかも知れないしふつうに暮らしてふつうに子どもをいくつかつくってそれで永久に長生きだなんて言って笑っていて

 句読点がない。句読点がないけれど、私はついつい句読点を補って読んでしまう。ひとつづきのことばを、いくつかの文章にわけてしまう。けれど、ことばは句読点ではほんとうは区切れないものなのだと思う。
 話しているうちに、話している自分の声をきいて反応し、少しずつずれていく。そのずれを修正するようにして、文章にするとき句読点をつかうのだが、これは「学校教科書」が考えた規則で、人間のこころというのは「教科書」のようには動かない。
 理不尽に、ことばはつながっていく。連続していく。切断できない。
 それでは、いけない。
 連続ではなく、切断が必要なのである。
 それは自分のことばの場合もあるし、自分に向けられた他人のことばの場合もある。ほんとうは、そういう具合に接続していきたくない--そういう思いが噴出してきて、たとえば今引用した部分のあとは、次のように展開する。

 ううん死ぬよぜったい死ぬからどっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって誰もいなくなったときその思い出はどこにもなんにも残らないかもしれないけれどぜんぶがなんでもなくなるかもしれないけれど残して

 「ううん」と否定のことばで、相手のことばを切断する。
 けれど、これはうまくいかない。

どっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって

 この部分の「じゃあ」からつづくことば--それがとてもあいまいである。前の段落で、「ひとは永久に死なない(かもしれない)」と言ったのが男だと仮定する。それに対して女(わたし)は「ひとは必ず死ぬ」という。そのあと「じゃあ」と別の提案をするのは男の方である(はずだ)。しかし、区別がつかず、その男のことばを引き取って女が区切りもなくことばを動かしていく。
 このとき、意識も肉体も、識別されていない。「ひとつ」に融合している。ことばだけが「ひとつ」の状態で、しかも、矛盾を抱え、常に否定を含みながら動いている。

 あ、なんだか、書いていることがごちゃごちゃしてきた。

 きのう書いたことにちょっと戻る。
 きのう私は「でも」ということばが川上の思想であり、「でも」が「矛盾」を抱えながら、論理を飛躍させる。そのとき、そこに「ひとつ」の肉体というものがあらわれる--というようなことを書いた(書きたかった)。
 それがひとりのことばの場合でも、二人のことばの場合でも起きる。ふたりのことばなのに「ひとつ」になって動いていくということが起きる。
 そのときふたりは、無意識に「ひとつ」の肉体を共有している。これは「ことばのにくたい」というものかもしれない。「人間のにくたい」を越え、「ことばの肉体」として「ひとつ」になる。
 それを「愛」といえばいえるのかもしれない。--まあ、これは蛇足。
 「ことばの肉体」がひとつであるからこそ、「人間の肉体」が「ふたつ」にわかれ、その片方が不在のときに、激しい悲しみが襲ってくる。

 詩のつづき。

残るかもしれないよそれなんだっけアカシックレコードだよそれあるよそれなんて話してわたしをちゃかして何度も笑って何度も眠ったのにこんな
ほんとうに
来るなんて










すべて真夜中の恋人たち
川上 未映子
講談社
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八柳李花―谷内修三往復詩(19)

2012-01-12 23:37:01 | 詩集
許された時間のなかを  谷内修三

許された時間のなかを
福岡城址を歩いた
きみに会えると思ったのだ
梅林を抜けて石段をのぼるきみ
桜の庭のぼんやりとした明るさの道でどちらへ行こうか考えるきみ
さらに急な石段をのぼり石垣の死角へ誘うきみ
でもきみはいなかった
許された時間のなかを
きみと一緒に歩いたときの
石段はなかった
桜の庭はなかった
石垣もなかった
私の知らない空虚があるだけだった。
私が見たのは見覚えのないつまらない石
私が見たのは見覚えのない何本もの痛々しい冬の桜
私が見たのは枯れたススキが生えている石垣の裏側
あるいは天守台をささえる黒い、冷たい鉄骨(と、影
いやほんとうのことを言おう
私が許されているこの時間に。
私が見たのは孤独
石段のひとつひとつが孤独だった 誰がつまずいたのか、角の欠落が孤独だった
いっしょに重なり上へ上へと何かをささえているのにだれとも何も語り合っていない
桜の木々の枯れた孤独 折れたこころの孤独の断面
その木のなかには何もない 導管をはいまわる虫さえいない
石垣は自分からくずれないために孤独のなかに結晶していこうとしていた
いやちがう今度こそほんとうのことを書く
私がまだ許されているこの時間に。
石段の石が孤独なのではない 石には感情はない 石のなかには私の孤独がある
葉を落とした桜の木が孤独なのではない 木のなかに私の孤独がある
石垣の巨大な石が、間の小さな石が孤独なのではない
一個一個の石のなかに私の孤独がある
いやちがう今度こそ
ほんとうのことを書かなければならない
私が許されているこの時間の内に。
石段の石はだれにも踏まれない 空虚が上を渡っていく
何に耐えていいのかわからず孤独であることしかわからない
桜の木の枝は千々に分かれている 分かれていることで一本でいる
その分かれ目分かれ目の形の孤独(そのなかにいる私
それぞれの光と雨と風を求める孤独 求めても何も手に入らない孤独
孤独は私の精神のように分裂し無数の形になる
ひとつとして同じ形にならない
それなのに全部が桜の木だとわかる 孤独だから
石垣は動きたくない どこへも行きたくない ここにいたい
ここを動くもんかと意地を張っている その孤独
きみは知らない だって
きみはいないのだから そして
私の孤独だけがあらゆるところに存在する
私は私の孤独から逃げられない
こういうとき、むかし読んだ小説なら
「ばかだなあ」と嘲笑する声が木々や藪や石や分かれ道から
通りすぎる古くさい犬や風に流される枯れ葉から
聞こえてくる(はずだ (聞こえてきてほしい
だがそんな声も聞こえてこなかった
あざ笑う声が聞こえるのはもっと後(なのだろう
孤独になれてしまって、孤独であることを忘れたとき
遅れたように嘲笑がやってくる
それまでは聞こえてこない
私は孤独でさえない
孤独に出会えないくらいひとりなのだ
私は孤独にはなれない孤独が私を取り囲んでいるから
孤独が何かわからない孤独がぴったり身にはりついているから
石段がある 桜の庭がある 天守台の石垣がある
だれが見ても同じように石段、桜、石垣と呼ぶものがある
それを私は孤独と感じるが
これがほんとうのことだろうか
(許された時間のなかを、
「この石段、一段一段が低いよ
そういったとき、ほんとうだと思ったこころ
きみといっしょになったこころ
あれは孤独ではなかったのか
孤独なこころが許された時間に出会えた喜びではなかったのか。
孤独がわからない
孤独がわからない
孤独がわからない
きみに会いたいということしかわからない
きみがいない
きみはやってこない
嘲笑がやってくるまでには、さらに、まだまだ時間がかかる
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テレンス・ヤング監督「007/ロシアより愛をこめて」(★★★★)

2012-01-12 19:53:57 | 午前十時の映画祭
監督 テレンス・ヤング 出演 ショーン・コネリー、ダニエラ・ビアンキ、ペドロ・アルメンダリス、ロッテ・レーニヤ、ロバート・ショウ

 昔の映画は品があるねえ。そして、その品とは何かなあ、と考え始めたとき、あ、肉体なんだと気がついた。普通の肉体の、普通の動き。その、普通に品がある。いまの映画はアクションが普通の動きじゃないからね。そんなに走り続けられるわけがない、そんな危険なことができるはずがない・・・。
 でも、この映画はそのまま普通の人ができるアクションだよね。
 象徴的なのが、最後。メイドに扮したおばあさんが、靴に仕込んだ毒針でボンドと戦う。そのとき、ボンドはどうしてる? 椅子でおばあさんの動きを封じている。いまならこんなことをしないね。おばあさんの毒針自体がのんびりしすぎている。ボンドが素手で戦えない(椅子以外は素手だけど、この場合の素手は道具なし、という意味)なんてありえない。「マトリックス」なんか弾丸にだって素手で立ち向かう。(あ、これは違う?)
 だいたいすごい肉体訓練してるでしょ? 空手(カンフー)、柔道なんてお手の物。ボクシングだって。いわゆる格闘技全般をいまの役者はこなしてしまう。
 でも、この時代のアクションは、つまるところ取っ組み合い。ボンドとロバート・ショウの列車内の格闘がそうでしょ? 多少、けんかに心得がある程度の格闘だね。鞄にしかけた催涙ガスなんていうのも、ゆったりした感じ。そういう肉体が普通に動いて、それでも格闘といえる映画だからこそ、おばあさんお毒針さえもが最終兵器。おもしろいよねえ。
 このとき、役者の動きというのはあくまで観客もまねができる。その、普通さが品だと思う。品というのは、普通の最大公約数――だれもがそれでいいと感じることのできるものだ。
 で、ね。
 ここからは私の強引な飛躍。
 「007」にはボンド・ガールが出てくる。それが売り。セックスシンボル。ボンドはセックスを楽しみ、殺しもするのだが、ほら、殺しが普通の肉体(いや、かっこいい肉体なんだけれど)でやれることなら、セックスも普通の肉体でできること。何もかわったセックスしていないよね。普通にやることにはみんな品がある。その証拠が、売り物のセックスシーン、女の裸、だね。
 こんなことは昔は思わなかったけれどね。

 ぜんぜん関係ないことだろうけれど、ショーン・コネリー以外に、ロバート・ショウも裸を披露しているねえ。私は、このロバート・ショウの恥ずかしそうな目が好きだなあ。ほんとうかどうか知らないけれど、なんでも子だくさん。小説も書いているインテリ(古臭い!)なんだけれど、その子だくさんの養育費を稼ぐために役者をしているんだとか。どうりで、シャイだね。




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