橋本和彦「踊り場をめぐる断章」、渡辺正也「冬の空」(「石の詩」81、2012年01月20日発行)
橋本和彦「踊り場をめぐる断章」は階段の踊り場について書かれた詩である。その最後から2連目におもしろいことばがある。
私はこの1行で立ち止まった。何度も読んだ。何度読んでも、「律儀な折り返しを強いられる。」である。思わず読み返したのは、私は「律儀に折り返す。」と最初に読んでしまって、あ、なんとなく文字が余っている。もっと違ったことが書いてあると気がついたからである。--私は黙読しかしないが、目が文字を追いかけるスピードと、肉体のなかでひびく音と、文字数が何か微妙に違っている感じがして、ゆっくり文字を追い直した。そして「強いられる」ということばに出会ったのである。
そうか、あの方向転換は「強いられた」ものだったのか。でも、だれに? 階段に? それとも階段の設計者に? うーん、違うような気がする。なぜだかわからないが、私は直感的に、自分に強いられていると思ったのである。自分に強いられ、自分の意思で律儀に折り返す。律儀ということばが、私には、人間が自分自身にかした「きまり(生き方)」のように思えるからである。他人からいわれても律儀には生きられない。自分の声にしたかうときだけ律儀である、と私は感じるのだ。
そう思いながらつづきを読んでいくと。
他人ではなく、自分の声に従うからこそ、人は「違った顔つき」になる。他人に「強いられ」て動くのなら自分の意思は必要がない。顔つきは、その人の内面からの変化があって初めて生まれるものだと思う。橋本自身「内側」ということばをつかっている。内側が変われば、顔つきは変わる。「律儀」を守り通せば、顔つきはかわる。
なぜ、橋本は「律儀に折り返しを強いられる」と書いたのかなあ……。
その前の段落が関係しているかもしれない。
ここには二つのことがらが書かれている。ひとつは天体(自然)の動き。光が窓から差し込む。その光のせいで、踊り場は特権的な場になる。もう一つは、踊り場には変な意匠がある。そして、その変な意匠を説明するのに、橋本は「意図不明」ということばをつかっている。
そこに、私は何か不思議なものを感じたのである。太陽(光)の色と動き。それは人間の思いとは無関係である。人間と無関係なものが、何かしら人間の感性に働きかけてくる。ここでは、人間は幾何学性を感じている。
でも、なぜ?
そう考えたときに、ふと「意図不明」ということばが、今の私の疑問を補いにくるのである。天体の考えていることは「意図不明」。同じように、踊り場の設計者(他人)の「意図」も「不明」なことがある。
私たちは「意図不明」のものにかこまれ生きている。
そういう印象があって、
を、私は、どうしても「律儀に折り返す。」と読んでしまうのである。他者(自分以外のもの、と考えると人間以外の天体も他者になる)の「意図は不明」。そうい「他者」の「意図」に左右されるのではなく、自分の意図を明確にしながら、自ら折り返す。「律儀」は、常に自分の「意図」を確かめるということである。
でも、これはあくまで私の考え方である。
橋本は、私と他者の関係を「強いられる」と感じている。
それは、もしかしたら天体の動き(太陽の光の動き方)が、天体の「律儀」さにしたがっているということを強調したいのかもしれない。
「律儀」というと、それはどうしても「人間」に属した感覚と考えてしまいがちだが、「律儀」なのは人間だけではない。天体も(太陽も)「律儀」なのだ。
「律儀」と「律儀」が正面衝突したとき、どうするか。橋本は自分の「律儀」をゆずる。天体の「律儀」の方を優先する。それはそれで、なるほどなあ、と思う哲学である。特に、東日本大震災を体験したあとでは、天体の「律儀」の方が人間の「律儀」よりはるかに上である。それにしたがう律儀が人間にはひつようなのだなあ、と思う。
私たちは(私は、というべきか)、何も知らない。けれど、橋本は「律儀」ということばを知っていて、そのことばを通して世界と向き合っている。「律儀」を肉体化することで、何かをつかもうとしている。「律儀」と向き合った、そのときに変わる「内面(内側)」というものを信頼しているのだと思う。
その信頼が、詩のことば全体を、とても静かな緊張感につつむ。律儀への信頼が、ことばの肉体を鍛えている。
*
渡辺正也「冬の空」。
この「うみに向かってひらくぼくのほしい空は遠い」という1行のゆっくりねじれるような文体は「踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。」よりはるかに複雑である。複雑だけれど、「ぼくの」ということばを通して「律儀」に「私」というものが姿をあらわしている--つまり、そこに「主語」の切実さを感じる。そして、その「主語」の切実さが運んでいる抒情に、ほう、と息をもらしてしまう。。
橋本和彦「踊り場をめぐる断章」は階段の踊り場について書かれた詩である。その最後から2連目におもしろいことばがある。
踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。
私はこの1行で立ち止まった。何度も読んだ。何度読んでも、「律儀な折り返しを強いられる。」である。思わず読み返したのは、私は「律儀に折り返す。」と最初に読んでしまって、あ、なんとなく文字が余っている。もっと違ったことが書いてあると気がついたからである。--私は黙読しかしないが、目が文字を追いかけるスピードと、肉体のなかでひびく音と、文字数が何か微妙に違っている感じがして、ゆっくり文字を追い直した。そして「強いられる」ということばに出会ったのである。
そうか、あの方向転換は「強いられた」ものだったのか。でも、だれに? 階段に? それとも階段の設計者に? うーん、違うような気がする。なぜだかわからないが、私は直感的に、自分に強いられていると思ったのである。自分に強いられ、自分の意思で律儀に折り返す。律儀ということばが、私には、人間が自分自身にかした「きまり(生き方)」のように思えるからである。他人からいわれても律儀には生きられない。自分の声にしたかうときだけ律儀である、と私は感じるのだ。
そう思いながらつづきを読んでいくと。
そこを通り過ぎるとき、僅かながら違った顔
つきになっているのかもしれない。或いは、
外面は同じでも、内側には今まで無かった炎
が生じているのかもしれない。
他人ではなく、自分の声に従うからこそ、人は「違った顔つき」になる。他人に「強いられ」て動くのなら自分の意思は必要がない。顔つきは、その人の内面からの変化があって初めて生まれるものだと思う。橋本自身「内側」ということばをつかっている。内側が変われば、顔つきは変わる。「律儀」を守り通せば、顔つきはかわる。
なぜ、橋本は「律儀に折り返しを強いられる」と書いたのかなあ……。
その前の段落が関係しているかもしれない。
踊り場では、窓から奇妙に白い(或いは黄色
い)光が差し込んでいる。斜めに差し込む光
によって、踊り場のその部分だけが、ある種
の幾何学性を帯びることになる。そのため、
何かしらの非現実性や違和を、感じとってし
まうことになる。また、踊り場では、意図不
明の意匠が施されていることもある。抽象的
な模様が壁に刻まれていたり、一部分が張り
出していたりする。
ここには二つのことがらが書かれている。ひとつは天体(自然)の動き。光が窓から差し込む。その光のせいで、踊り場は特権的な場になる。もう一つは、踊り場には変な意匠がある。そして、その変な意匠を説明するのに、橋本は「意図不明」ということばをつかっている。
そこに、私は何か不思議なものを感じたのである。太陽(光)の色と動き。それは人間の思いとは無関係である。人間と無関係なものが、何かしら人間の感性に働きかけてくる。ここでは、人間は幾何学性を感じている。
でも、なぜ?
そう考えたときに、ふと「意図不明」ということばが、今の私の疑問を補いにくるのである。天体の考えていることは「意図不明」。同じように、踊り場の設計者(他人)の「意図」も「不明」なことがある。
私たちは「意図不明」のものにかこまれ生きている。
そういう印象があって、
踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。
を、私は、どうしても「律儀に折り返す。」と読んでしまうのである。他者(自分以外のもの、と考えると人間以外の天体も他者になる)の「意図は不明」。そうい「他者」の「意図」に左右されるのではなく、自分の意図を明確にしながら、自ら折り返す。「律儀」は、常に自分の「意図」を確かめるということである。
でも、これはあくまで私の考え方である。
橋本は、私と他者の関係を「強いられる」と感じている。
それは、もしかしたら天体の動き(太陽の光の動き方)が、天体の「律儀」さにしたがっているということを強調したいのかもしれない。
「律儀」というと、それはどうしても「人間」に属した感覚と考えてしまいがちだが、「律儀」なのは人間だけではない。天体も(太陽も)「律儀」なのだ。
「律儀」と「律儀」が正面衝突したとき、どうするか。橋本は自分の「律儀」をゆずる。天体の「律儀」の方を優先する。それはそれで、なるほどなあ、と思う哲学である。特に、東日本大震災を体験したあとでは、天体の「律儀」の方が人間の「律儀」よりはるかに上である。それにしたがう律儀が人間にはひつようなのだなあ、と思う。
踊り場が視界を遮るため、この階段が結局ど
こに続いているのかは、本当は誰も知らない。
私たちは(私は、というべきか)、何も知らない。けれど、橋本は「律儀」ということばを知っていて、そのことばを通して世界と向き合っている。「律儀」を肉体化することで、何かをつかもうとしている。「律儀」と向き合った、そのときに変わる「内面(内側)」というものを信頼しているのだと思う。
その信頼が、詩のことば全体を、とても静かな緊張感につつむ。律儀への信頼が、ことばの肉体を鍛えている。
*
渡辺正也「冬の空」。
ヒイラギの実を啄む鳥たちの語りが
わずかに光る透明な朝の水を
乾いた林に撒き散らすと
空と海の境目がひと筋くっきりあらわれる
だれかが来る前に
海に向かってひらくぼくのほしい空は遠い
この「うみに向かってひらくぼくのほしい空は遠い」という1行のゆっくりねじれるような文体は「踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。」よりはるかに複雑である。複雑だけれど、「ぼくの」ということばを通して「律儀」に「私」というものが姿をあらわしている--つまり、そこに「主語」の切実さを感じる。そして、その「主語」の切実さが運んでいる抒情に、ほう、と息をもらしてしまう。。
零れる魂こぼれる花 | |
渡辺 正也 | |
思潮社 |