詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

橋本和彦「踊り場をめぐる断章」、渡辺正也「冬の空」

2012-01-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
橋本和彦「踊り場をめぐる断章」、渡辺正也「冬の空」(「石の詩」81、2012年01月20日発行)

 橋本和彦「踊り場をめぐる断章」は階段の踊り場について書かれた詩である。その最後から2連目におもしろいことばがある。

踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。

 私はこの1行で立ち止まった。何度も読んだ。何度読んでも、「律儀な折り返しを強いられる。」である。思わず読み返したのは、私は「律儀に折り返す。」と最初に読んでしまって、あ、なんとなく文字が余っている。もっと違ったことが書いてあると気がついたからである。--私は黙読しかしないが、目が文字を追いかけるスピードと、肉体のなかでひびく音と、文字数が何か微妙に違っている感じがして、ゆっくり文字を追い直した。そして「強いられる」ということばに出会ったのである。
 そうか、あの方向転換は「強いられた」ものだったのか。でも、だれに? 階段に? それとも階段の設計者に? うーん、違うような気がする。なぜだかわからないが、私は直感的に、自分に強いられていると思ったのである。自分に強いられ、自分の意思で律儀に折り返す。律儀ということばが、私には、人間が自分自身にかした「きまり(生き方)」のように思えるからである。他人からいわれても律儀には生きられない。自分の声にしたかうときだけ律儀である、と私は感じるのだ。
 そう思いながらつづきを読んでいくと。

そこを通り過ぎるとき、僅かながら違った顔
つきになっているのかもしれない。或いは、
外面は同じでも、内側には今まで無かった炎
が生じているのかもしれない。

 他人ではなく、自分の声に従うからこそ、人は「違った顔つき」になる。他人に「強いられ」て動くのなら自分の意思は必要がない。顔つきは、その人の内面からの変化があって初めて生まれるものだと思う。橋本自身「内側」ということばをつかっている。内側が変われば、顔つきは変わる。「律儀」を守り通せば、顔つきはかわる。
 なぜ、橋本は「律儀に折り返しを強いられる」と書いたのかなあ……。
 その前の段落が関係しているかもしれない。

踊り場では、窓から奇妙に白い(或いは黄色
い)光が差し込んでいる。斜めに差し込む光
によって、踊り場のその部分だけが、ある種
の幾何学性を帯びることになる。そのため、
何かしらの非現実性や違和を、感じとってし
まうことになる。また、踊り場では、意図不
明の意匠が施されていることもある。抽象的
な模様が壁に刻まれていたり、一部分が張り
出していたりする。

 ここには二つのことがらが書かれている。ひとつは天体(自然)の動き。光が窓から差し込む。その光のせいで、踊り場は特権的な場になる。もう一つは、踊り場には変な意匠がある。そして、その変な意匠を説明するのに、橋本は「意図不明」ということばをつかっている。
 そこに、私は何か不思議なものを感じたのである。太陽(光)の色と動き。それは人間の思いとは無関係である。人間と無関係なものが、何かしら人間の感性に働きかけてくる。ここでは、人間は幾何学性を感じている。
 でも、なぜ? 
 そう考えたときに、ふと「意図不明」ということばが、今の私の疑問を補いにくるのである。天体の考えていることは「意図不明」。同じように、踊り場の設計者(他人)の「意図」も「不明」なことがある。
 私たちは「意図不明」のものにかこまれ生きている。
 そういう印象があって、

踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。

 を、私は、どうしても「律儀に折り返す。」と読んでしまうのである。他者(自分以外のもの、と考えると人間以外の天体も他者になる)の「意図は不明」。そうい「他者」の「意図」に左右されるのではなく、自分の意図を明確にしながら、自ら折り返す。「律儀」は、常に自分の「意図」を確かめるということである。

 でも、これはあくまで私の考え方である。
 橋本は、私と他者の関係を「強いられる」と感じている。
 それは、もしかしたら天体の動き(太陽の光の動き方)が、天体の「律儀」さにしたがっているということを強調したいのかもしれない。
 「律儀」というと、それはどうしても「人間」に属した感覚と考えてしまいがちだが、「律儀」なのは人間だけではない。天体も(太陽も)「律儀」なのだ。
 「律儀」と「律儀」が正面衝突したとき、どうするか。橋本は自分の「律儀」をゆずる。天体の「律儀」の方を優先する。それはそれで、なるほどなあ、と思う哲学である。特に、東日本大震災を体験したあとでは、天体の「律儀」の方が人間の「律儀」よりはるかに上である。それにしたがう律儀が人間にはひつようなのだなあ、と思う。

踊り場が視界を遮るため、この階段が結局ど
こに続いているのかは、本当は誰も知らない。
 
 私たちは(私は、というべきか)、何も知らない。けれど、橋本は「律儀」ということばを知っていて、そのことばを通して世界と向き合っている。「律儀」を肉体化することで、何かをつかもうとしている。「律儀」と向き合った、そのときに変わる「内面(内側)」というものを信頼しているのだと思う。
 その信頼が、詩のことば全体を、とても静かな緊張感につつむ。律儀への信頼が、ことばの肉体を鍛えている。



 渡辺正也「冬の空」。

ヒイラギの実を啄む鳥たちの語りが
わずかに光る透明な朝の水を
乾いた林に撒き散らすと
空と海の境目がひと筋くっきりあらわれる
だれかが来る前に
海に向かってひらくぼくのほしい空は遠い

 この「うみに向かってひらくぼくのほしい空は遠い」という1行のゆっくりねじれるような文体は「踊り場で人は、律儀な折り返しを強いられる。」よりはるかに複雑である。複雑だけれど、「ぼくの」ということばを通して「律儀」に「私」というものが姿をあらわしている--つまり、そこに「主語」の切実さを感じる。そして、その「主語」の切実さが運んでいる抒情に、ほう、と息をもらしてしまう。。



零れる魂こぼれる花
渡辺 正也
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

往復詩第2弾の書き手募集。

2012-01-23 23:40:14 | 
聴こえてくるのは     谷内修三


聴こえてくるのは 朝の雨、聴いているのは 朝の雨
手探りで枯れた枝の曲がった角度をゆっくりたどり
まだ暗い光のなか こらえきれなくなるまで膨らみ
たとえば閉ざされたガラス窓の虚無を白く映し
夢が落ちていくときの輝き 落下の垂直の無音
その音のない音を 沈黙を 
眠る男はどこでそれを手に入れたのか
聴いているのは 朝の雨のその一粒

聴こえてくるのは レモンを断ち切る音、聴いているのは レモンの断面
オリーブのヴァージンオイルにほどかれる干しぶどうの襞
歯と舌のあいだでよみがえるミニトマトの記憶
チシャ パセリ カブのにおいと遠い国の岩塩の荒々しさ
一滴の酢の鋭い一撃
それらが男ののどぼとけの裏を通るとき
にぎやかに騒ぐいくつもの声 わがままな主張
聴いているのはサラダボールに残されたレモンの断面

聴こえてくるのは モーツァルト、聴いているのは モーツァルト
絃のなかを移動するかなしみのしなやかさ
休止のあいだに飛び込んでくる悪戯っ子のピアノに似た音
ではなく 台所で割れるいちばん繊細なグラス
ではなく 皿の上のフォークのつくりだす影
いまモーツァルトとともにあるすべてが
男の目のなかへ侵入するとき乱反射する色彩
聴いているのは モーツァルト、一月二十七日の朝のモーツァルト

聴こえてくるのは 雨、レモン、モーツァルト、聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト
半分開いたカーテンとガラスに残る雨の足跡
女が座っていた椅子は角度がずれて女のカタチをあいまいに崩している
ナボコフの短編小説はとじられ ことばは帰る場所をなくしている
犬はなつかしいような疲れたような目で男をみつめている
そのとき男はどんな沈黙、どんな声帯、どんな色調になろうと考えているのか
聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト
聴いているのは 雨、レモン、モーツァルト





フェイスブックでやりとりした八柳李花さんとの往復詩がとても楽しかったので、またやってみたいと思い、「第2弾」の相手を募集しています。
少し変則スタイルを考えています。
書き手は私を含め3人。先行する作品の最後のことばをタイトルにして書きはじめる「尻取り詩」を書いてみたいと思います。

1作目は上記の、私の「聴こえてくるのは」。
「尻取り」のルールは、最終行、最後のことば「モーツァルト」。
これが第2作目の書き手のタイトルになります。
作品の締め切りは先行作品の掲載後、1週間以内。

前回同様、名乗りを上げていただいた順に2名の詩人との「往復詩」を書いてみたいと思います。

フェイスブックから谷内修三→象形文字編集室と進み、コメントする形で書き込みをしてください。
作品は1週間後で大丈夫です。
まず、参加の意思をお知らせ下さい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする