詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ『イナシュヴェ』(2)

2013-05-02 23:59:59 | 詩集
たなかあきみつ『イナシュヴェ』(2)(書肆山田、2013年04月25日発行)

 たなかあきみつ『イナシュヴェ』のことばは、「非・私詩」である。そこには単純な形でたなかの日常はでてこない。肉体も出てこない。けれどことばはどんなときでも肉体そのものだから、「もの(存在)」の描き方を追うことで、たなかの「いのち」に接近することはできると思う。私がたなかのことばから感じるのは、まず視力/目としての肉体である。それに耳(聴力)が反応する。
 「Alzheimer 氏の食卓《最新版》」の書き出し。

副え木も蝶番もなく
記憶のまぶしいドミノ倒しの乱反射をリピートする皿の上
すっかり雑草をはぎとられた更地のような皿には
日がわりのコルク代わりに潰れた耳形の金色のリボン
その金色は光線しだいで灰色がかった褐色になったりするが
静かなオーシャンの海底に滞留するプラスチックスープの素材たるヴィニル袋には
ちぎり残された柔らかいパンの山塊、ぎざぎざのマッスの静けさが
封入されている、海蝕が密封されている

 ここにあるのは視覚の「乱反射」である。いや「反射」ではなく、視覚の「乱射」かな? そこでは「耳」さえ聴覚にはならず、「耳形のリボン」という視覚にさらわれていく。
 私は、いま非常に目の状態が悪いので、こういう視覚の乱射にはなじめない。これは、もっぱら私の体力の問題であって、正常な視力の持ち主にはどうということもないのかもしれないけれど。たなかの問題ではないのだけれど。で、私の視力では、

海蝕が密封

 ということばなどは、ことばというより「文字」が乱射されてくるようで、かなり厳しい。音があるはずなのに、「静けさ」のなかに吸収され、文字だけが、ことばの海底から浮上してくる。--もっとも、これは「文脈」そのものの現象なのかなあ。
 ちょっとわからない。
 こういう作品は、私は苦手で(昔は好きだったかもしれない)、私が好きなのは「イナシュヴェ」のような詩。

満月のその夜に
夜空の空中架園にあったはずのダダイズムの所在を
センターラインをななめに走行中の救急車にたずねる
斜体のダーはドイツ語ではほらここに
喉で待ちぶせるダー、ダーはロシア語では束の間の全面肯定
ダダイズムは《未完(イナシュヴェ)》のままいまも火花を
地獄谷の間歇泉のようにぶくぶく吹き上げている

 耳がよろこんでしまう。喉もよろこんでしまう。特に「斜体のダーはドイツ語ではほらここに/喉で待ちぶせるダー、ダーはロシア語では束の間の全面肯定」の2行の「ダー」という濁音の豊かな響き。それが「ダダイズムは《未完(イナシュヴェ)》のままいまも火花を」のタイトルにもなっている聞き慣れないことばつながる感じ。「イナシュヴェ」のなかの「ヴ」という濁音、「シュ」のかすかな音引き感覚(?)。たなかが「未完」と書いているから、それはそういう「意味」なんだろうけれど、「ダダイズム」「ダー(ここ/これ)、肯定」と耳と喉のなかで融合しながら、「未完」こそ新しい「完成」、完成になる前の完成--これって矛盾しているけれど、その矛盾を超越して、その完成になる前の完成が出現してくる感じが「肉体」のなかに生まれる。
 それは、私の「誤解」。
 ああ、「誤解/誤読」だから、うれしいんです。わけのまからないまま、これがいい、ここがいい、と私の「感覚の意見(肉体の意見でもあるかな)」は叫んでいる。「意味」なんて必要なら、あとでくっつければいい。

イエロウやオレンジや緑黄の火花ならともかく
だんだら無色の火花ってあるんだろうか

 「イエロウ」わかるね。「オレンジ」わかるね。「緑黄」わかる、でも、あれっ、ふつうは「黄緑」。どう違う? 「だんだら無色」--これは何? 無色なのに「だんだら」って、ありうる? 無色なのに、見える?
 見えなくてもいいのです。というのは、私の「感覚の意見(肉体の意見)」。なぜなら、私はこのとき「視力」をつかっていない。火花を「イエロウ」「オレンジ」と呼ぶのは「流通言語」であって、私はそのときその「色」を正確に思い描いていない。センターラインを斜めに走る救急車みたいに「音」が肉体のなかをすべっているだけ。そして、そのスピードに乗ったまま、「だんだら無色」という音になっていく。
 「だんだら」のなかに「ダダイズム/ダー」があり、「むしょく」のなかに「イナシュヴェ」がある。「斜体」もある。響きあっている。そうなんだ。「未完」というのは「だんだら無色」の色なんだ、とわけのわからないことを納得してしまう。
 こういう「錯覚」が私はとても好きなのだ。
 私の「錯覚」はたなかの書きたいこととは無関係な暴走かもしれない。「誤読」を通り越して、たなかの詩の否定かもしれない。そんなことを書きたいわけじゃない、と抗議されたら返すことばはない。けれども、詩なんて、そういうものなのだ。詩人がどう思って書こうが関係がない。それを読んで、あ、これが楽しい。このことばを真似してつかってみたいと感じたとき、そこに詩は存在している。それが詩人の思いと違っていたとしたら、その暴走のなかにある可能性を書いた詩人が気づいていないということだけ。
 ほら、たなかだって「傷口は光を吸収し、やがて光源と化す」(写真失踪)と書いていた。詩人と読者のあいだの「傷口」にこそ、新しい「光源」があるのだ。

 なんだか脱線したが。

 それとは別に、「音」が気持ちよく響いてきた詩に、「給水塔異聞」(キリンの首よりながいナトリウム灯のタテ位置)や「ひたすら走りつづけるには……」がある。そこには目にうるさい漢字熟語がない。網膜をこじ開けて、脳を直撃しようとする文字がない。耳に聞こえる「音」がそのままことばになっている。私は目が悪いせいか、最近は、網膜をこじ開けて攻撃してくる文字ことばがどうも苦手になってしまった。
 その「苦手意識」のまま書くのだが……。
 たなかの詩にもどって、少し気になることを書いておく。たなかのことばは「視力」を出発点にしている。そのことと、たなかのやっている「訳詩」の関係。たなかは外国の詩を読むとき、そしてそれを翻訳するとき、ことばを何によって統合しているか。これは私の勝手な憶測だが、どうも「視力」が優先しているのではないだろうか、という気がする。「文字」を優先しているのではないか、という気がする。文字が目につく。これは私の感覚の意見では、「意味」の優先になる。肉体よりも頭の優越。そのために、私にはときどきとても厳しい感じ、苦しい感じがある。私の目が疲れてしまう。(これは何度も書くけれど、私の目の健康状態と関係しているのであって、健康な人の目には違った感じで見えるかもしれない。)
 私はただ単に想像しているだけなのだが、たとえば中井久夫の訳詩を読むと、そこには「音」がある。中井久夫は、文字ではなく「音」を翻訳しているという感じがする。読んでいて、耳がとても気持ちがいいのである。たなかは「外国の文字」を日本の文字(漢字をふくむ)に書き直している、という感じがする。「読む」ではな「書く」という印象が強い。
 たなかのことばにも「音」はあるのだろうが、その「音」を「文字」が覆い隠してしまう。文字が浮き上がって、音が沈んでゆく。原詩も知らずに言うのだが、日本語以外は理解できないくせに言ってしまうのだが。










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