佐々木洋一「箒(ホウキ)」(「この場所 ici」8、2013年04月20日発行)
佐々木洋一「箒(ホウキ)」は、どんなふうに感想を書けばいいだろうか。壁に立てかけられた箒を描写している。
真ん中あたりにある「いたぶりもしめつけもむしやはくらくも無意味であるかのように」という1行につまずき、また、そこに吸い寄せられていく。漢字、読点まじりに書き直せば「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」という具合になるのだろうけれど、そこに落ち着くまでにとても時間がかかる。
「いたぶり、もし、目付も(?)……むしもら(?)、くは雲(黒雲の一種??)」違うなあ。
「いたぶり、もし、目付も、虫も、楽は苦も」違うなあ。
「いたぶり、もしも、みつかったら、無、しもらく(下--下半身の楽? 快楽?)は苦にもなる」。だれかをいたぶって快楽を感じるのだけれど、それが見つかったら次には苦しみが待っている? いや、そんなことは、ぜんぜん書いていない。書いていないのだけれど、私は、それを「暗号」と思い、「誤読」する。
箒って、ごみを掃くものだけれど、それって、ごみいじめ。いじめられたごみを見ながら快感、なんてこともあるかもしれない。あ、こんなことは、もちろん書いていない。だけれど、私はそんなふうに「誤解」したい。
でも、これって、何か佐々木に悪いことをしてしまうのかなあ……。
「無意味な」ことば--脈絡のないことばを往き来して、なんとか「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」にたどりつくのだが、たどりついたときに、なんといえばいいのか……ここに落ち着く前の、私自身の右往左往が忘れられない。私自身の妄想のよなしごとに、蟻だとかヤモリだとかの、下等な(?)虫の感覚がはいずりまわり、それも、うーん、快感というのはそういうものをじかに知らないとだめなんだよなあ。そうやって、根なし草になって、世の中の批判を(雨垂れをも、風雪をも)しのぎ、しのいだことも忘れて、怠惰になって、引き際もわからなくなって……。あ、また、佐々木が書いていないことを書いてしまっている。申し訳ないなあ。
でも、なんだろうなあ。そういう、どうでもいいことというか、なんとなく「もの」と「ことば」が「現実(流通言語の定型)」をはなれて、ふわふわして、そのふわふわのなかに自分の欲望(?)というか本能のようなものが形にならないままあるなあ、と思うことがある。
この変な「ふわふわ」の本能はきっと「くる日もくる日も」繰り返され、この世だけではなく「くる世」もきっと起きるんだろうなあ、と思う。
書いてないんだけれどねえ。
でも、知らずに書いてしまう無意識というものもあるだろうし、書いたあとでその書いたことを認めたくなくて、なんとか「意味」を装うこともあるだろうし。
「人に」という作品も、何か、読みながら、佐々木の書いている「意味」を追うというよりも、そのことばに触れて、私の思いが勝手に暴走するのを感じる。
この「人にあたる」の「あたる」は衝突する、ぶつかる、という意味かもしれないけれど、私は「暖をとる」(火鉢にありる、炬燵にあたる、のあたる)という感じで受け取ってしまう。人に接し、その温かさが身に沁みたとき、その温かさゆえに、あかぎれやしもやけが逆に目覚める。そういう感じのことってあるなあ。
佐々木の書いていることは、それとは違うなあと「頭」でわかっていても、「肉体」が逆の読み方を求めている。本能的に求めている。その本能的な読み方のなかでは、「私の肉体」と「ことばの肉体」が、こっそりセックスしている感じなんだけれど。
私がきょう書いた感想は、たぶん、ほとんどのひとに「でたらめ」と受け止められると思うのだけれど、その「でたらめ」のなかに「ことばの肉体」がある。私の「感覚の意見」は、そう主張している。
作者が書いている「意味」ではなく、そこに書かれていない「無意味」に官能を感じたとき、私は、あ、これはいい詩だなあ、と思う。そして、そのとき、私は私の本能を隠しながら「意味」を装って感想を書くのがふつうなのだが、今回の佐々木の詩の前では、「意味」を捏造する気になれない。「意味」を捏造できない。
あ、これって、「意味」を正確に把握できない、たどれない、ということか……。学校のテストだと0点の解答だね。
でも、しようがないので(?)、「意味」にならないものを、そのまま書いておくことにする。
佐々木洋一「箒(ホウキ)」は、どんなふうに感想を書けばいいだろうか。壁に立てかけられた箒を描写している。
くずれかけた白壁に立て掛けられた箒
陽があたり風にふきつけられ雨にしずみひがな一日
くる日もくる日も
蟻が這い上がりヤモリがうろつき木の葉がからみひかげがとまどう
白壁の箒
そうして何年も
いたぶりもしめつけもむしやはくらくも無意味であるかのように
立て掛けられた箒
この世の根なし草のごとく立て掛けられ
あまだれもふうせつも怠惰も引き際も遠く
ゆめにゆめを またゆめを見ることでしか
くずれかけた白壁に立て掛けられた箒
くる日もくる日も
またくる世も
真ん中あたりにある「いたぶりもしめつけもむしやはくらくも無意味であるかのように」という1行につまずき、また、そこに吸い寄せられていく。漢字、読点まじりに書き直せば「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」という具合になるのだろうけれど、そこに落ち着くまでにとても時間がかかる。
「いたぶり、もし、目付も(?)……むしもら(?)、くは雲(黒雲の一種??)」違うなあ。
「いたぶり、もし、目付も、虫も、楽は苦も」違うなあ。
「いたぶり、もしも、みつかったら、無、しもらく(下--下半身の楽? 快楽?)は苦にもなる」。だれかをいたぶって快楽を感じるのだけれど、それが見つかったら次には苦しみが待っている? いや、そんなことは、ぜんぜん書いていない。書いていないのだけれど、私は、それを「暗号」と思い、「誤読」する。
箒って、ごみを掃くものだけれど、それって、ごみいじめ。いじめられたごみを見ながら快感、なんてこともあるかもしれない。あ、こんなことは、もちろん書いていない。だけれど、私はそんなふうに「誤解」したい。
でも、これって、何か佐々木に悪いことをしてしまうのかなあ……。
「無意味な」ことば--脈絡のないことばを往き来して、なんとか「いたぶりも、締めつけも、無視や、剥落も無意味であるかのように」にたどりつくのだが、たどりついたときに、なんといえばいいのか……ここに落ち着く前の、私自身の右往左往が忘れられない。私自身の妄想のよなしごとに、蟻だとかヤモリだとかの、下等な(?)虫の感覚がはいずりまわり、それも、うーん、快感というのはそういうものをじかに知らないとだめなんだよなあ。そうやって、根なし草になって、世の中の批判を(雨垂れをも、風雪をも)しのぎ、しのいだことも忘れて、怠惰になって、引き際もわからなくなって……。あ、また、佐々木が書いていないことを書いてしまっている。申し訳ないなあ。
でも、なんだろうなあ。そういう、どうでもいいことというか、なんとなく「もの」と「ことば」が「現実(流通言語の定型)」をはなれて、ふわふわして、そのふわふわのなかに自分の欲望(?)というか本能のようなものが形にならないままあるなあ、と思うことがある。
この変な「ふわふわ」の本能はきっと「くる日もくる日も」繰り返され、この世だけではなく「くる世」もきっと起きるんだろうなあ、と思う。
書いてないんだけれどねえ。
でも、知らずに書いてしまう無意識というものもあるだろうし、書いたあとでその書いたことを認めたくなくて、なんとか「意味」を装うこともあるだろうし。
「人に」という作品も、何か、読みながら、佐々木の書いている「意味」を追うというよりも、そのことばに触れて、私の思いが勝手に暴走するのを感じる。
ああ 寒い 人にあたると凍える
人にあたると北のあかぎれやしもやけが妙に疼く
この「人にあたる」の「あたる」は衝突する、ぶつかる、という意味かもしれないけれど、私は「暖をとる」(火鉢にありる、炬燵にあたる、のあたる)という感じで受け取ってしまう。人に接し、その温かさが身に沁みたとき、その温かさゆえに、あかぎれやしもやけが逆に目覚める。そういう感じのことってあるなあ。
佐々木の書いていることは、それとは違うなあと「頭」でわかっていても、「肉体」が逆の読み方を求めている。本能的に求めている。その本能的な読み方のなかでは、「私の肉体」と「ことばの肉体」が、こっそりセックスしている感じなんだけれど。
私がきょう書いた感想は、たぶん、ほとんどのひとに「でたらめ」と受け止められると思うのだけれど、その「でたらめ」のなかに「ことばの肉体」がある。私の「感覚の意見」は、そう主張している。
作者が書いている「意味」ではなく、そこに書かれていない「無意味」に官能を感じたとき、私は、あ、これはいい詩だなあ、と思う。そして、そのとき、私は私の本能を隠しながら「意味」を装って感想を書くのがふつうなのだが、今回の佐々木の詩の前では、「意味」を捏造する気になれない。「意味」を捏造できない。
あ、これって、「意味」を正確に把握できない、たどれない、ということか……。学校のテストだと0点の解答だね。
でも、しようがないので(?)、「意味」にならないものを、そのまま書いておくことにする。
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