朝倉宏哉「栗」、白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」(「幻竜」17、2013年03月20日発行)
朝倉宏哉「栗」は春の栗の花の濃厚なにおいからことばがはじまり、秋の実り、縄文時代からの保存食としての来歴が語られ、
夏の、まだ青いいがでつつまれた栗なら、渋皮も白く、渋皮を剥く時にも「果汁」のようなものが手を汚すが、熟れてしまった秋の栗の場合、「口中に果汁がひろがる」ということはないだろうが。
それはまあ、筆が走ったのだろう。
おもしろいのは、栗の毬から実が出てきて、その外皮を剥き、さらに渋皮を剥き、という人間の動きをていねいに書いて、そのあと栗の実が
と「脳」にたどりつくこと。この時、私は「脳」が手や歯を動かして栗の皮(渋)を剥くように命令している姿を想像する。「脳」で命令して、「脳」を食べる。そのなかに、栗と人間を超えた「循環」がある。「融合」がある。自分で自分の脳を食べるということは不可能だけれど、その不可能の「幻」がこの瞬間、どこかで成立している。
栗の実が「脳」になり、「脳」が栗の実になる。その「なる」ということのなかに、何か奇妙な陶酔、恍惚、愉悦--エクスタシーのようなものがある。
そして、そのエクスタシーは、こういう表現が許されるのかどうかわからないが、「脳」と「原子力発電所」をやはり同じものではないかという「幻」を引き起こす。「脳」がつくりだした巨大な力。「脳」が人間に命じて、原子力発電所を造らせた。そして完成した原子力発電所が「脳」に反逆して、「脳(人間)」を食べている。このとき、原子力発電所が「人間」であり、人間は「栗」なのだ。栗である人間の、美しい「脳」を持っている。原子力発電所の形をそのまま「脳」のなかに持っている。その「脳」を原子力発電所というの野蛮が食いつくそうとしている……。
ということは書かずに、朝倉は、逆に、栗を食うと、栗を保存食として食ってきた「縄文人」の「繊細で荒ぶる心」に触れると書いている。外皮を剥き、渋皮を剥き、果肉を食べるという肉体の動きがしっかりした連続感のなかでことばにされると、肉体がおぼえていることが強く甦り、その「肉体のことば」の力で、ことばは自ら「飛躍する。」この「飛躍」のなかに、美しい夢がある。美しい「幻」がある。朝倉は「縄文人の繊細で荒ぶる心」と書いているのだが、その「心」は「脳」でもある。原子力発電所という「人工の脳」が人間を食いつくすなら、それに対抗するには、それを生み出した「脳」以前の「脳」、「縄文人の脳」へ帰るべきだと言っているかのようだ。「縄文人の脳」を「肉体」のなかから生み出そうとしているように感じられる。
*
白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」はインドから始まる鬼子母神神話は、わが子を食べる母親が、どうして鬼子母「神」になり、信仰が生まれたかをザクロと重ねながら書いたものである。
原子力発電所の爆発、そのときの「慟哭」を、私たちはどうやって「臓に沁みいる人肉(醜悪な脳の肉体)」として記憶できるか。ことばにして、それを「神話」にまで高めることができるか。
朝倉の詩、白井の詩をつづけて読むと、そういうことを考えたくなる。考えなければならないのだと知らされる。
朝倉宏哉「栗」は春の栗の花の濃厚なにおいからことばがはじまり、秋の実り、縄文時代からの保存食としての来歴が語られ、
ぼくは
栗の毬から実を弾(はじ)き出し
歯で栗色の皮を削(は)ぎ
さらに胞衣のような渋皮を剥(む)く
いよいよ無垢な本体が現れる
栗は己を護るために
幾重にも武装している
にもかかわらず
栗は放射能に弱いという
福島第一原子力発電所が爆発してから
最もセシウムに侵された果物は
栗だという
栗の実の中身は純白で
人の脳そっくりの襞と形を持っている
その実を食う
噛むほどに
こりこり砕けて
口中に果汁がひろがる
栗の実を生でくうとき
縄文人の繊細で荒ぶる心が甦ってくる
夏の、まだ青いいがでつつまれた栗なら、渋皮も白く、渋皮を剥く時にも「果汁」のようなものが手を汚すが、熟れてしまった秋の栗の場合、「口中に果汁がひろがる」ということはないだろうが。
それはまあ、筆が走ったのだろう。
おもしろいのは、栗の毬から実が出てきて、その外皮を剥き、さらに渋皮を剥き、という人間の動きをていねいに書いて、そのあと栗の実が
人の脳そっくりの襞と形を持っている
と「脳」にたどりつくこと。この時、私は「脳」が手や歯を動かして栗の皮(渋)を剥くように命令している姿を想像する。「脳」で命令して、「脳」を食べる。そのなかに、栗と人間を超えた「循環」がある。「融合」がある。自分で自分の脳を食べるということは不可能だけれど、その不可能の「幻」がこの瞬間、どこかで成立している。
栗の実が「脳」になり、「脳」が栗の実になる。その「なる」ということのなかに、何か奇妙な陶酔、恍惚、愉悦--エクスタシーのようなものがある。
そして、そのエクスタシーは、こういう表現が許されるのかどうかわからないが、「脳」と「原子力発電所」をやはり同じものではないかという「幻」を引き起こす。「脳」がつくりだした巨大な力。「脳」が人間に命じて、原子力発電所を造らせた。そして完成した原子力発電所が「脳」に反逆して、「脳(人間)」を食べている。このとき、原子力発電所が「人間」であり、人間は「栗」なのだ。栗である人間の、美しい「脳」を持っている。原子力発電所の形をそのまま「脳」のなかに持っている。その「脳」を原子力発電所というの野蛮が食いつくそうとしている……。
ということは書かずに、朝倉は、逆に、栗を食うと、栗を保存食として食ってきた「縄文人」の「繊細で荒ぶる心」に触れると書いている。外皮を剥き、渋皮を剥き、果肉を食べるという肉体の動きがしっかりした連続感のなかでことばにされると、肉体がおぼえていることが強く甦り、その「肉体のことば」の力で、ことばは自ら「飛躍する。」この「飛躍」のなかに、美しい夢がある。美しい「幻」がある。朝倉は「縄文人の繊細で荒ぶる心」と書いているのだが、その「心」は「脳」でもある。原子力発電所という「人工の脳」が人間を食いつくすなら、それに対抗するには、それを生み出した「脳」以前の「脳」、「縄文人の脳」へ帰るべきだと言っているかのようだ。「縄文人の脳」を「肉体」のなかから生み出そうとしているように感じられる。
*
白井知子「鬼子母神 ザクロのうた」はインドから始まる鬼子母神神話は、わが子を食べる母親が、どうして鬼子母「神」になり、信仰が生まれたかをザクロと重ねながら書いたものである。
飢えの時代が過ぎても
慟哭の記憶は女たちから去ることはない
時空をまたぎ 女から女へと因果の鎖と化し
臓に沁みいる人肉
狂乱の咎の重圧は 飢えの 死の境界に現存した女たちが
その末裔が追わされたのだ
原子力発電所の爆発、そのときの「慟哭」を、私たちはどうやって「臓に沁みいる人肉(醜悪な脳の肉体)」として記憶できるか。ことばにして、それを「神話」にまで高めることができるか。
朝倉の詩、白井の詩をつづけて読むと、そういうことを考えたくなる。考えなければならないのだと知らされる。
詩集 乳粥 | |
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