詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔「ROUND ABOUT。」

2013-05-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中宏輔「ROUND ABOUT。」(「ミて」122 、2013年03月20日発行)

 私は目が悪いので……と何度も書いてしまうが、字がびっしりつまった作品、むずかしい漢字が多い作品は読むのが苦しいのだが。田中宏輔「ROUND ABOUT。」は文字がびっしりつまっていて、そのうえ●が頻繁に出てきて、あ、読むのはつらいなあ、と一瞬身構えるのだけれど。

●桃●って呼んだら●小犬のように走ってきて●手を開いて受け止めたら●皮がジュルンッて剥けて●カパッて口あけたら●桃の実が口いっぱいに入ってきて●めっちゃ●おいしかったわ●テーブルのうえの桃が●尻尾を振って●フリンフリンって歩いているから●手でとめたら●イヤンッ●って言って振り返った●このかわいい桃め●と思って●手でつかんで●ジュルンッて皮をむいて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ●水槽のなかに●いっしょうけんめい●水の下にもぐろうとしている桃がいた●人差し指で●ちょこっと触れたら●クルクルッて水面の上で回転した●もう●このかわいい桃め●と思って●水面からすくいだして●ジュルンッて皮を剥いて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ

 楽に読める。書いてあることが単純だから? いや、そうではなくて、そこに「音」があるからだ。ことばが「音」として聞こえてくる。そしてその「音」は一緒に肉体を動かす。「音」といっしょに肉体の動きが見える。「めっちゃ/おいしい」という「音」といっしに、そこに存在する「肉体」が見えてくる。食べて、官能を喜ばせるという「肉体」のあり方か見えてくる。
 「桃」は「小犬のように走って」くることはないから、「桃」は比喩かもしれない。でも、水のなかでクルックルッとまわる桃は比喩ではなく現実のようにも見える。水に浮かんだ桃(だけではなく、ほかの果物でもそうだろうけれど)は指でつつくとくるんとまわる。そういうことを肉体が覚えているので、それは桃に見える。でも、全体のなかでは、その水に浮かんだ桃も桃ではなく、比喩かもしれない。--まあ、どっちでもいい。どっちにしろ、「桃」は何かなのだ。「桃」であっても「燃せ」でなくても、とりあえず「桃」と読んでいる何か。そういう「抽象的」なことばというのは、おおい、わけがわからんぞ、と言ってしまいたいものが多いのだけれど、田中の詩の場合、そういう具合にはならない。「めっちゃ/おいしい」が、だれもが知っている官能だからである。
 と、一気に言ってしまう前に、少しもどってみようかな。
 田中の詩の「桃」は何か「比喩」のようなものであり、その「比喩」がそれでは何を具体的にあらわしているかということはわからないのだけれど、「わからない」という感じが詩を支配することはない。なぜだろう。
 理由はふたつあると思う。ひとつは「桃」を私たちがよく知っていること。熟れた桃の皮は「ジュルンッ」と剥ける。ほかに言い方はあるかもしれないけれど、簡単に、べたべたの水分を含んだまま、手に果汁なんかがこびりついた形で剥ける。そして、それにかぶりつくと甘くて、うまい--と書いてきて、何かが変わったことに気づく?
 そこに二つ目の理由がある。桃について書いていたのに、そこに桃以外のもの、肉体が自然に絡みついている。皮をむく。手が汚れる。かぶりつく。うまい、と感じる。そこにあるのは、もう桃ではなく、桃によって動かされている肉体。そしてその肉体が「めっちゃ/おいしかった」に融合していく。
 桃でも、肉体でもなく、「めっちゃ/おいしい」という世界--桃と肉体がからみあって「ひとつ」になって、新しい人間の世界をつくりだしている。新しいのだけれど、そこには「肉体」がしっかりからみついている。肉体がとけあっている。だから、それは「古い」というか、なつかしいというか、ようするに「知っている」世界。
 そして、その肉体が何かと融合しているところに「ことば」があって、そのことばが--私の場合、「音」としていちばん先に肉体に結びついてくる。「見える」のではなく、「聞こえる」と同時に「発する」「音」として肉体に結びついている。「めっちゃ/おいしい」というときの、声の解放感と結びついている。逆に言うと、その「めっちゃ/おいしい」という音(声)と同時に、そこに「肉体」が喜んでいるのが「見える」。
 「聞こえる(聴覚)」から「見える(視覚)」へと肉体がそのとき広がっていく。そして、それが「触ることができる」「食べることができる」などのように、肉体を次々に広げてもゆく。
 「●桃●って呼んだら」には「呼ぶ」という「声(音)」が登場するけれど、次の「小犬のように走ってきて」も「走る」という「音」が肉体を動かす。「走る」というこばを読むと、それが黙読であっても(私は黙読しかしないが)、「音」は喉だけではなく、足にまで刺戟を与える。足が動く。動かない足のなかで。そういうことが起きる。ことばは「音」になって「肉体」に広がって、肉体そのものになる。
 「皮がジュルンッて剥けて」の「ジュルンッ」というのは「音」そのもの。その「音」が「意味」を超えてというより、「意味」以前のなまな感覚そのものとして肉体のなかに入っていく。
 ことばは「意味」となって頭に入ってくものかもしれない、つまり「意味」にならないと頭には入っていけないかもしれないが、「音」のまま、無意味のまま、肉体のなかに入ってゆくことができる。そして、そこに意味になる前の何かをつくりだす。新しい肉体--といっても知っている肉体を新しく生み出す力がある。
 田中のことばのなかでは「音」が動いている。「意味」以前の何かが動いている。それは「意味」以前であると同時に、「意味」を超越している。

 で、「桃」は、そういう「音」をくぐりぬけて肉体のなかに入り込み、意味を超越して居すわることになる。で、次のような展開が、飛躍しながらつづく。(途中を省略して引用する。)

哲学を勉強している大学院生の友だちが●ぼくに言った●桃だけが桃やあらへんで●ぼくも友だちの真似をして●腕を組んで言うたった●そやな●桃だけが桃やあらへんな●ぼくらは●長いこと●にらめっこしてた●アメリカでは●貧しい桃もふ努力次第で金持ちの桃になる●アメリカンドリームちゅうのがあるそうや

●桃々●桃々●いくら電話しても●友だちは出なかった●なんかあったんかもしれへん●見に行ったろ●桃って言うたら、あかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたら●あかんで●そう耳元でささやきあって興奮するふたりであった

●あんた●あっちの桃●こっちの桃と●つぎつぎに手を出すのは勝手やけど●わたしら家族に迷惑だけはかけんといてな●そう言って妻は二階に上がって行った●なんでバレたんやろ●わいには●さっぱりわからんわ

 桃はもう桃ではなく、人間のように見える。しかもそれが、なんとなく、あ、これは人間のことだな、とうすうす感じられる程度に--ややこしいことに、うすうすだからこそ、逆に人間だなと「確信」してしまうという形で見えてくる。「確信」というのは、だんだん大きくなってくる妄想のことかもしれないけれど。真実というのは「肉体」の外にあり、普遍のものかもしれないけれど、「確信」というのはあくまで肉体のなかにあって、だんだん動かせない大きさにまで育つものである。
 ことばの動き、音(声)の動きとともに、そこに肉体が見えてくる。肉体が存在しはじめる。私は田中に会ったことはないのだが、そこに田中の肉体を感じる。そしてそれは、私の肉体と切断した「他人」ではなく、私の知っている「肉体」である。私の覚えている「肉体」である。田中の「肉体」なのに、自分の「肉体」が田中の声によって広がって、田中の「肉体」になっていく。セックスだね。
 で、そのセックスをしている「確信」を育てるのが、私の「感覚の意見」では「音(声)」である。「●桃って言うたら、あかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたら●あかんで」の「桃」のかわりにほかのことば言ったこと(聞いたこと)はだれにでもあるかもしれない。何かを念押しする。何度も口にする。耳にする。そのとき、ひとは「意味」を言っているのだろうか。「言ってはいけない」という「主張」を言っているのだろうか。そうかもしれない。しかし、それだけではない。何か、自分の肉体に念押している。相手の肉体に念押ししている。喉を動かす、その肉体に念押ししている。「肉体」が交渉している。--だから、つまり、ことばを「音」にして肉体にもぐりこませること、「声」をだすこと、「声」を聞くことが、肉体の交渉、セックスになり、それゆえにひとは「興奮する」。

 ことばは「音(声)」になることで、肉体交渉、セックスになる。それゆえに(というのは、私の飛躍なんだろうけれど)、音のないことばはつまらないけれど、ことばに音さえあれば、それはどんなことばでも楽しい。
 読むのはつらくない。
 (目の悪い私には、田中の詩の引用はとてもむずかしい仕事だった。誤字だらけかもしれない。目がいらいらするので点検しない。「ミて」で作品を確認してください。)



 突然思いついたことを書いておく。
 私はことばとセックスをする。そのとき「視力(視覚)」ではなく「聴力(聴覚)」の方が優先する。「聴覚」の刺戟の方にひかれる。これは、「視覚」というものが目の前方にしか開かれていない(限定的な方向をもっている)のに対し、聴覚は全方向に開かれている(方向に限定がない)ということと関係しているかもしれない。聴覚の方が無限なのである。この「無限」ということから言えば、「嗅覚」も同じである。方向が限定されない。空気さえあれば、どこへでも伝わっていく。そして、危険なまま、「肉体」のなかへ入ってくる。聴覚よりも嗅覚の方が、いのちに関係するかもしれない。吸っただけで死んでしまう「空気」というものがあるからね。
 そうすると。
 「嗅覚」で書かれた詩(ことば)の方が、もっとセックスに近くて、危なくて、おもしろいということになるかも……。






The Wasteless Land. 7
田中 宏輔
書肆山田
コメント (1)
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